もし仮に、宇宙人が攻めてきたり、天変地異が起こったりしても、この東京砂漠で最後までサヴァイブするためには、どうしたらいいのか。
そう、自然の恵み=食料さえあればなんとかなる。
ということで、「都会の野草は食えるのか」というチャレンジをすることになった。
山手線の駅チカで遭難したことを想定し、東京の野草を食べに、高田馬場駅徒歩8分の戸山公園へ。
もうすでに心は公園の向こう側。
都立戸山公園に到着。
朝は近隣の方と犬の散歩コース、昼は早稲田大学のサークルに所属する学生さんの校庭代わり、夜は旧陸軍の学校があったためか、心霊スポットにも様変わりするという多種多様な顔を持つ憩いのスポットである。
まずは双眼鏡で場所のアタリを付ける。
脇に挟んでるのは、「食べられる野草図鑑」みたいな本。
何が食べられるのか、食べられないのかを見分けるために購入した。双眼鏡とルーペも持ってきたから準備は万端だ。
ちなみに僕は恥ずかしながら、幼い頃、腐ったアケビで胃液を逆流して以降、山菜狩りとかイチゴ狩り、田植え体験や釣りはおろか、山登りまでアウトドア的なあらゆるイベントをすべて敬遠してきた。だから、野草摘みも初めて。
ともあれ、今日は真面目に探してみる。
うーん。
……うーん。
……うーん。
……うーん。
……。
まあ、人目なんて気にしてたらサバイバルなんて出来ない。
……あっ……あった!
これ、本に載ってたよ!
おなじみ、三つ葉のクローバーだ。
シロツメグサというどこにでも生えてる草で、しかも食えるらしい。例の野草本にはトップページに載っていたので、きっと初心者用の草なのだろう。
どうでもいいが、ご覧のとおり、寒くて乳首が……。
次はもう少し大物を見つけたいという心が芽生える。
このように、食べられる野草を判別するために「匂いを嗅ぐ」のはとても大切。
犬猫の糞尿の匂いが混じってたらアウトである。
あと葉っぱの裏にヘンな虫の卵らしきものが引っ付いているものも、食用には適さないと判断した。
……これは!
誰でも知ってるドクダミ!
ドクダミ茶というお茶の存在は知ってるが、果たして食えるのか!?
とりあえず、嗅いでみる。
ゲホッ、ゲホホッ!
久々のドクダミ臭に心が折れた瞬間。
やはり、これは人間の食い物じゃない!
茶以外に調理の仕様がまったく思い浮かばないうえ、腹は膨らまないと確信。
しかし、もったいないので一応摘んでおく。
タンポポの葉っぱをゲット。
虫が食べるほど栄養があるのだ、多分。
小雨がさめざめと降る中、あたりはどんどん人の気配が無くなり寂しい感じに。
けれど、負けじとオオバコ(っぽい葉)など、着実に食用の草をハントしていく。
なんか、楽しくなってきた!!
戸山公園という、都会にぽっかりと広がる自然に囲まれて、食料がタダで手に入るという事実に、このドヤ顔。
早速、帰宅して採取した草を洗ってみた
五種類の活きのいい草たちの堂々たる姿。
茎は捨てて、葉部分を残す。水で洗ったおかげで、キッチンには豊かなみずみずしい緑の匂い……というよりは、
雨に濡れた雑草の匂いがする。
一番左のドクダミは後日、お茶にするとして…他の葉っぱたちを、極力簡単な調理法、シンプルな食材で食べるという自分ルールに基づき、卵でくるめば食えるだろ、と結論。
ドクダミ以外のすべての葉っぱを細かく刻んでみる。
小学生の時に飼ってた(飼わされた)カイコのエサを思い出す光景。
草の生食は危険なので、しっかり火を通す。
フライパンで葉っぱをチンタラ炒ってたら……
縮んだ。
まあ、一口サイズになったと解釈、葉っぱを別皿に移して、フライパンに卵を投下。
ここにホウレンソウのように炒った野草たちを混ぜ込めば食べられるはずと、心の中で唱え続ける。
……で、できたッッ!!
と、言うほどの苦労はしてないが、出来ることなら炒った時点ですべての野草がそのまま縮小を続け、ケシズミになってほしかった。
なんか見た目が悪いので、花柄の皿に盛り付けて……実食!
卵に醤油を入れたおかげで、4種の葉っぱのブレンドによる独特の「雑草臭」はほとんど消えた。しかも、タンポポとオオバコは比較的柔らかい。
これは成功だ! と思ったら……。
!?
三つ葉のクローバーこと、シロツメグサを口内に入れた途端、状況は一変。
噛んでも、噛んでも葉脈が残っているような歯ごたえで、喉という関所が葉っぱを通すのを拒否している。
「クローバーを食べて幸せになりましょう」的なことが書かれていた野草の本を信じて、一番たくさんクローバーを入れ込んだのがアダになった。
今日の結論。
「クローバーをいっぱい食べても、あんまり幸せになれない」
大地の恵みに感謝してなんとか完食したが、心労のせいか、すぐに腹が痛くなってきた。やはり腹の痛みは、草たちのせいではなく「全部ケシズミになればいい」とか、「雑草なんか食べ物じゃない」と思った僕への天罰なのだろう。
大切なのは食す人間の「いただきます」の清らかな精神なのだと改めて思い知った。
ともかく、草を食べなければならないような状況が、この東京に訪れないことだけを切に祈る。