映画喫茶「泪橋ホール」って何?
映画喫茶「泪橋(なみだばし)ホール」の名前を初めて耳にしたのは、今年の始め頃。
東京の下町・かつては労働者の街として知られていた「山谷(さんや)」に、古きよき昭和の映画を観られる映画喫茶ができるというのです。そして、その資金調達のために、クラウドファンディングが行われていました。
クラウドファンディングのリターンは、一番少額の1,000円で、古い映画上映1回&泪橋名物餃子1皿!
もともと山谷の街が気になっていて、古い映画も餃子も大好きな筆者。さっそく1口だけ参加して、開店の日を楽しみにしておりました。
そして、「泪橋ホール」は2019年2月9日にめでたくオープン。
筆者はその翌週に行ってみました。ちなみにこの時は取材ではなく、個人的に行ってみただけです。
山谷の街と泪橋ホール
現在、「山谷」という地名はありません。住所としては、台東区日本堤です。
東京メトロ日比谷線・南千住駅から、徒歩約5分くらいの地域です。
駅南口から歩いていくと、今はもう他の街ではほとんど見られなくなった公衆電話があちこちにあります。携帯電話を持たない人も多いのでしょう。
大通りから一本路地裏に入ると、労働者向けの安い宿、通称「ドヤ」が並んでいます。
しかし最近では、日常的に仕事をしてドヤに泊まるような労働者は少なく、外国人旅行者向けのゲストハウスになっているところも多いです。大きなバックパックを背負った旅行者も目立ちます。
山谷の住民の高齢化は著しく、日が暮れると外を歩いている人はまばらです。
「泪橋ホール」は、吉野通りという大通りに面しています。
ガラス越しに店内が見え、明るいので、初めての人でも入りやすいと思います。
クラウドファンディングのリターンのチケットを受け取り、店主の多田さんとも少しお話して、楽しく飲みました。
この日にいただいたのは餃子と、お惣菜の筑前煮、ふき煮、チャーシュー。どれも家庭的な手作り感のあるおいしさです。餃子は300円、日替わりお惣菜は300円から。
日本酒1合400円。銘柄はその時によって違います。
この日は映画の上映はなかったので、またぜひ来なくては、そして、多田さんとももっとお話ししてみたい、そう思いました。
後日、取材をお願いして、じっくりとお話をうかがってみました。
浅草で育った女性が写真家になり、映画喫茶をオープンするまで
改めて山谷を訪れたのは午前中でした。
南千住駅が都心に近い便利な立地ということもあり、周辺にはタワーマンションも建ち、新しい住民が増え続けています。
一方で、かつてのような労働者は減り、現在は仕事も身寄りもなく福祉を必要とする高齢者と、その福祉に関わる人たちが増えています。
南千住駅から歩くと、店名の由来ともなっている「泪橋交差点」があります。
『あしたのジョー』を読んでいた方なら「泪橋」は記憶にあるのではないでしょうか?
「泪橋」という橋は現在はありませんが、交差点の名称として残っています。
「泪橋交差点」から、「泪橋ホール」方面を眺めると東京スカイツリーが見えます。
こちらが「泪橋ホール」。レトロでかわいいロゴと外観です。
店内には、古き佳き時代の映画のポスターがたくさん飾られています。
オーナー店主の多田裕美子さん。20代から写真を仕事としていて、2016年には山谷に暮らす男性たちのポートレートと文章をまとめた著書『山谷 ヤマの男』(筑摩書房)を出版されています。
多田裕美子/1965年生まれ。東京浅草出身。東洋大学文学部卒業後、六本木スタジオ勤務、写真家の助手を経て、1995年からフリーカメラマンとして活動する。(『山谷 ヤマの男』より)
── 山谷という街と関わるようになったきっかけを教えてください。
多田さん: 両親が昔、この泪橋ホールの隣の場所で食堂をやっていたんです。「丸善食堂」といって2001年に廃業するまで29年間。今はそこは福祉施設になっています。
▲当時の丸善食堂の店内 (撮影/多田裕美子)
──では、昔から食堂を手伝ったりしていたのですか?
多田さん:いえ、自宅は浅草で、子供の頃は両親が店に近づかせないようにしていました。大学生の時には手伝ったりしましたけど。それに20代には私はカメラマンとして働いていたので、ほとんど来なかったですね。
──大学を卒業してからは、すぐにカメラマンになったわけではないんですよね?
多田さん:そうですね。大学4年生の時に、内定をもらった広告代理店の営業部みたいなところにアルバイトに行ったんですよ。でも、仕事がキツすぎるのと、職場の雰囲気がダメで。私、高校が女子校で大学は共学だったんですけど、女子校の空気に戻る感じで、嫌になって入社前に辞めちゃったんですよ。
(撮影/多田裕美子)
──え! じゃあ入社しなかったんですか?
多田さん:そうなの、私、早いんだよね。思いついたら。その頃に大学でちょっと写真を撮っていて、荒木(経惟)さんの女性人気が盛り上がったときの第一世代って感じなんですよ。写真集はよく見るけれど、撮影の専門知識はなく、フイルムのこともあまりわからなかったんですが、「よし、写真をやろう」と思ったんです。
多田さん:それで、アルバイトニュースで見つけたとある小さなブツ撮り(広告用の商品撮影)ばかりやっているようなスタジオに入って、そこで1年半くらい勤めたんです。それで、あれ、これってなんだか私が考えてた写真と違うなって。辞めた後は丸善食堂を手伝ったりして、「このままじゃ、自分の人生どうなるんだ」と思って、もっと真剣に写真と向き合おうと思ったんです。そこで、友達のツテで、六本木スタジオに行ったんです。
──六本木スタジオは写真スタジオとしてはかなりの大手ですよね。
多田さん:はい。友人に有名広告写真家さんを紹介してもらったんですが、その人に「俺のところに来るならまず六本木スタジオで1年は修行してこい」と言われたので、すぐその足で六本木スタジオに行って、面接ですぐ「いつ来る?」って言われて、明日じゃ早すぎるから、「じゃあ、明後日から来ます」とか言っちゃったんです。それですぐに家に帰って、布団とか梱包して。
──なぜ、布団を?
多田さん:住み込みだったんですよ。あの頃はねえ、本当に大変だった! 女の子がいられるようなところじゃなかった。
(撮影/多田裕美子)
──バブルの頃の撮影は大変でしたよね。一晩中かかったり。
多田さん:そうそう。あとは1日でも入社が早ければ先輩だから、私、26歳で入ったので、専門学校を出たての10代の子が先輩なんですよ。1日目はみんな優しいんだけど、2日目にして地獄だね! ご飯当番が大変なんですよ。30人分を主食、主菜、副菜、デザートまで作るんです。そこで、1年半。そう思うと私、だいたい1年半サイクルで動いてますね。
風俗誌で女性のグラビアを撮るように
──六本木スタジオで働いていれば、写真の技術は身につきますよね。
多田さん:そうだけど、アシスタントとしての技術はあってもカメラマンとしては……。1年なんていなくていい、何ヵ月かでいいと思います。その後、某写真家さんの助手を1年半やったんですが。
──そこも1年半なんですね(笑)。
多田さん:そう(笑)。腰を痛めてやめたので、フリーになったら助手時代の音楽誌の撮影ではなく、もっと生々しく、リアルな撮影がしたくなったんです。それで、週刊誌のグラビアとかうまいな~と、カメラマンたるものそういうところで一度は勝負しなくてはいけないと勝手に思っちゃって。ひねくれてんですよ。で、女性のヌードって面白いなと、そのまま風俗誌へ営業に行ったんです。
──グラビアは実物よりもきれいに撮るっていうのが難しいですよね。山谷のおじさんのポートレートはその人の生き様まで写しますが、グラビアは写らない方がいい。
多田さん:そうですよね。私は意外とそういう嘘っていうか、作りこむのが嫌いじゃなかったです。吉原の安い店なんかだと、でぶっちょのおばさんが出てきたりして。でも優しいのよね。コートかけてくれたりとか。だから、ああ、がんばってるんだから、嘘でもいいからきれいに撮ってあげたいって気持ちになるじゃないですか。
──風俗の取材もしてたのですね。
多田さん:そう。記事も書いたりして。そういうの撮る女の子が少なかったから編集部も面白がってくれて。多い時は掛け持ちで6冊くらいやってました。その後、音楽誌もやるようになって、役者さんやタレントさんも撮ったりして。カメラがデジタルになる前は、結構いろいろやってましたね。
「山谷はそんなに甘いもんじゃない」
(撮影/多田裕美子)
──著書『山谷 ヤマの男』 に収められている写真を撮ったのはその後ですよね? 何かきっかけがあったんですか?
多田さん:10年以上山谷を離れていて、33、34歳くらいのときですね。風俗の写真に飽きてきて、仕事じゃない、自分の作品を撮ろうと思ったんです。その頃、写真の現像をやるために丸善食堂の2階の空き部屋に来ていたんです。それで、時々下に降りて店を手伝ってたんですよ。で、ちょろちょろそこの2階に住んでるおじさんの写真撮ったりしてたのね。で、撮り出したら、あ、これ面白いなと、作品にしようと思ったんです。
多田さん:最初はお店の中だけで完結しようと思ってたの。そしたら父に、怒られたわけ。「お前、甘えてるんじゃないよ。山谷はそんなに甘いもんじゃない」って。私はお店の中だけで、丸善食堂だから「丸善劇場」みたいな感じでやろうと思ってたんですよ。ドキュメンタリーじゃないけど、劇場みたいな写真を撮れたらいいな、って。でも、父と母はこういう商売をやっていることをあまりおおっぴらにしたくなかったんですね。
──それで、公園で撮るようになったんですね。
多田さん:そうですね。父には殴られたり。でもその一撃があったから、私は撮るって決めたんです。その当時、山谷は報道では良いイメージはまったくなかったわけですよ。怖い、危ない、汚いっていうふうに。
私としては、もちろんそういうのが嘘ではないけど、それだけじゃないとわかっていたので。これは人に任せられない、私が撮るしかないと思いました。でもお店の中だけで写真を完結しようとしていた私が甘くて、父はそれを見抜いていて。それで、次の日くらいには、すぐに手配してあっち(玉姫公園)で撮ることになりました。最初は内緒にしてたけど、すぐバレました(笑)。
──どうしてバレちゃったんですか?
多田さん:撮影モデル募集の貼り紙を貼ったので(笑)。多田裕美子ってちゃんと名前書いて。
(撮影/多田裕美子)
──実際、女性が山谷で写真を撮っていて危険なことはなかったんでしょうか?
多田さん:玉姫公園の撮影では、文句をつける人もいたんですが、最初の方に撮った人が用心棒みたいになってくれたりして。でも派閥みたいなものがあるから、その人と仲良くしていると、その人と仲が悪い人は撮れないんですよね。それで個別に声かけたりして。
──その当時の写真を2016年に本にして出版されたわけですが、きっかけは?
多田さん:撮ったときは、すぐに出版化できる版元があるわけでもないし本の形にするのは本当に難しくてね。とりあえず、写真展を2回やったんでいいや、って納得して写真も押入れにしまっておいて。
──編集者の都築響一さんの推薦があったんですよね?
多田さん:そう。都築さんにお会いしたときに浅草の街のスナップなどをお見せしたんですが、そっちには全然反応がなくて、「昔、実はこういうのも撮っていたんですよ」って山谷のおじさんたちの大きく引き伸ばしたポートレートを出したら、「何、何これは!」「いいじゃん、いいじゃん!」って言われて。
それで、『ROADSIDERS' weekly』に載せてもらったのがきっかけで、筑摩書房の小冊子に連載をさせてもらって。で、編集者さんから「もっと書いてみる?」って話があって、本になったんです。
──そして、それがきっかけで山谷に戻ってきたんですね。
多田さん:本を出すにあたって、「昔の山谷だけじゃなくて、今の山谷も出したほうがいいんじゃない?」って編集者さんに言われて。写真を撮るだけでなく、書くことも自分でしていたので、関わってその人のことをちゃんと見ないと書けないじゃないですか。そこで、身近だった、両親がやっていた丸善食堂があった場所にある福祉施設に関わるようになったんです。
(撮影/多田裕美子)
──それが、この泪橋ホールに繋がるわけですね。
多田さん:そうですね。本を出してからの流れで。
かつて両親が営んでいた食堂の隣の場所に映画喫茶を
そして、2019年2月に多田さんは映画喫茶・泪橋ホールをオープンします。この泪橋ホールのある場所は、かつて多田さんの両親が営んでいた食堂・丸善食堂の隣です。
多田さん:これがもう運命のいたずらっていうか。2年くらい前かな? いろは会商店街に廃業したリサイクルショップの店舗があって、見に行ったら土間で天井が高くて。その前にもぼんやりとこの街に関わり合いたいと思う自分があったんです。で、その場所を見たら、「あ、映画かな」と思ったんです。でも、そこはダメになって。それから自分で物件を探そうと腰を上げたんです。
──そこで、「映画」というのが始まったんですね。
多田さん:もともと娯楽っていうのがあったんです。映画じゃなくても、人が集える場って感じで。具体的に動き出すと、はっきりしてくる。はっきりさせなくてはならない。それで、やるなら「映画喫茶」だなあ、と。
──気楽に人が集まって、映画を楽しめるような場所。
多田さん:福祉施設の手伝いをしていたときに、そこにいるおじさんたちがヤクザ映画とか昔の映画を観たいなあって話をしていたんです。そこの施設の人たちは体調的にもう自分では映画館に行けないような人たちなんですよ。私も古い映画が好きだし。それでこの街に小さい映画館があるといいなあと思ったんです。
──映画館は、消防法とかで設備の基準を満たすのが大変だと聞きます。
多田さん:そう。それで音楽喫茶みたいに、映画喫茶ならできるなって。でも物件探しが難航して、もうダメかなってときにこの物件が出てきたんです。去年の夏頃、ここの隣の福祉施設に来てたときにこの物件が工事をしていて、「ここは何になるんですか?」と訊きにいったら、「うちの倉庫になるんです」と言われたので、「じゃあ、私に貸してくれませんか?」と言って。
──2018年の夏に決まって、翌年2月にオープンってすごい早かったですね。
多田さん:私、火がつくとまっしぐらみたいな感じがあるんです(笑)。結構まわりの反対もあって。もちろん応援してくれる人も多いんですが。今までの人生もそうでした。行き当たりばったりできちゃった人生なんです。
──初期投資や改装も大変だったんじゃないですか?
多田さん:家具とかは全部中古です。厨房機器も、いままで飲食畑をやった人間じゃないのでわからなくて、無駄なこともたくさんありました。でも、大工さんがすごく良心的な方だったんです。
──泪橋ホールのロゴとかTシャツのデザイン、すごいかわいいですよね。
多田さん:友達のデザイナーに頼んだんです。すごいかわいいでしょ! 彼に最初にコンセプトをお伝えするのに、まずは映画。そしてメインメニューの餃子。あと11月に拾って看板猫にしようと思っていた猫のことを話したら、全部取り入れてくれたんです。
「泪」の文字は、よく見ると餃子とフィルム。
それをぐるっと取り囲む、コーヒー、餃子、猫のしっぽ、フィルムのロール。レトロな雰囲気もあってとてもいい感じです。
──メニューに餃子を入れたのはなぜですか?
多田さん:ご飯のおかずにもつまみにもなるので。餃子はうちの母がよく作ってくれていたんです。両親が丸善食堂の前に浅草でやっていた中華料理屋のメニューにはあったので、もともとは父のレシピではあります。それを私があちこちのお店の餃子を食べ歩いて、改良したんです。
餃子を包むのと、お惣菜作りの担当は多田さんのお母さん。
かつては丸善食堂のホールを取り仕切っていました。今は趣味の日本舞踊を楽しみつつ、時々店にも出ています。
(撮影/多田裕美子)
看板猫候補だった泪橋寅蔵くん。※取材後、2019年4月27日に天国へと旅立ちました。
多田さん:浅草の路地裏を歩いてたら、ガリガリののら猫が目につき近寄ってみたら、首の皮がベローンって剥がれてぶら下がるみたいになっちゃってたんですよ。そんなの、ほっとけないじゃないですか。知り合いの動物病院に連れていって、私が引き受けることにしました、お店の看板猫にしようと思って。すごく人懐っこいコなんですよ。
──この猫さんと、山谷という場所への縁について、多田さんのなかで重なるところもあるのでは? 「ほっとけない」と思う部分で。
多田さん:そうねえ、猫といえども縁ですからねえ。本当にあのとき、あの路地を曲がらなければ彼には会わなかったので。いろんなことがそうやって縁としか説明できないことが多いですからね。
──そうやって、縁に突き動かされてきた人生なのかもしれませんね。
多田さん:目の前にふっときたら、ふっと行ってしまうタイプなのかもしれませんね。でも、人生、みんなそうじゃないですか?
地元・山谷のおじさんたちに娯楽とくつろぎを
レトロ感のあるインテリアの店内。時々、お母さんが生花を飾っています。
映画を上映していないときの店内は開放的で明るく、のんびりくつろげる雰囲気です。
オープンと同時にやってきたこのお客様は、常連さんです。
トーストセットのハムエッグをスクランブルドエッグに変更してもらっていました。傍らには近所の本屋さん、「カストリ書房」で買ったという本が。
昼間からお酒も飲めるし、コーヒーや食事だけでももちろんOKです。
自慢の餃子は皮に「浅草開化楼」のものを使用
さて、泪橋ホールの柱のひとつである、お料理の紹介をしましょう。
店頭には、日替わりのお惣菜メニューが。餃子とチリコンカンはレギュラーメニュー。他は旬の食材を使った日替わりが並びます。
飲み物も各種揃っています。
喫茶店、食堂、居酒屋、そしてもちろん映画館。いろいろな利用の仕方ができるのです。
餃子を焼く業務用の機械があります。
多田さん:中古で見つけたんですよ! これ買うの、母にはめちゃめちゃ反対されたんですけど、買って良かったです。忙しいときなんか、これ無しではやってけませんよ。
多田さん:餃子を包むのは母がきれいで早くてすごいんですよ。器械じゃできない名人の技です。味は濃いめに、皮は「浅草開化楼」っていう有名なラーメン店の麺などを作っている製麺所のもので、試しに買ってみたら、すごい美味しいの! この皮に出合えたから餃子イケると思いました。
▲餃子定食(600円)
餃子定食には、ご飯と味噌汁と漬物、そして日替わりのお惣菜が一品つきます。
カリッと焼き上がった餃子です。単品だと300円。
いただきましょう。
餡の味付けはしっかりめ、肉多めで確かにおかずにもつまみにも良し!
▲竹の子入り切り干し大根煮(単品価格 300円)
お惣菜1品と漬物は定食についてきますが、単品でも注文できます。
▲ほうれん草の胡麻和え(単品価格 300円)
▲漬物(単品価格 250円)
▲チリコンカン(400円)
チリコンカンは多田さん手作りです。
添えてあるのは、餃子の皮を焼いたもの。
▲バナナケーキ(300円) チャイ(350円)
ケーキも手作り。
料理もデザートも本当に家庭で食べられるような素朴で優しい味の、健康的なものがいただけます。
知らない人だけど、誰かと一緒に映画を観るの楽しい
現在は、ほぼ毎日1回ずつ映画上映を行っています。イベントや祝日などで変更もありますが、基本は午後3時からです。
通常の映画の料金は、一般800円、年金や福祉の受給者、福祉従事者500円、車椅子の方の付き添いは300円。ドキュメンタリー映画やイベントの際は特別料金になります。
この日の上映作品は溝口健二監督の名作『雨月物語』。
入り口のガラス扉には映画の上映スケジュールが貼ってあります。
多田さん:最初はネットのクラウドファンディングの方が盛り上がって、支援もしていただいたし宣伝にもなったのですが、この辺のおじさんには「何の店かわかんねんよ!」って不評だったんです。それで、スケジュールを貼って、スケジュールのコピーもぶら下げて、持ち帰れるようにしました。
スマホを持っていないおじさんたちには紙のスケジュールが必要だとか。
午後3時からの上映時間が迫ってきました。 多田さんが会場の準備を始めます。
メニューのボードを下げて、厨房の窓をふさぎます。
外に出してある看板の向きを変えて、上映中の表示にします。
暗幕を引いて、外光を遮ります。
スクリーンを引き出します。結構大きいです。
上映中もテーブルはそのまま。スクリーンに背を向けて座っていた人は、椅子の向きを変えます。
店内の照明を消したら、ちょっとだけミラーボールを回して気分を盛り上げます!
この日の映画のお客さんは合計7名。近所の人の他、泪橋ホールに興味を持って遠くから来た人もいました。
上映作品『雨月物語』は、筆者は初見。タイトルは知っていても、今まで観たことがなかったのがもったいなく思えた、とても美しく面白い作品でした。
多田さん:私自身も、こういう状況で観ることが、こんなに映画を面白くするというのが想定外でした! 画面はそんなに大きくもないんですが、家で小さいテレビで観るのとは違いますよね。一人じゃなく、偶然居合わせた知らない誰かと観る、というのが。
──上映する映画作品を揃えるのが大変だとうかがいましたが。
多田さん:そうなんです。知り合いで映画に詳しい人は多いんだけど、配給にコネがあったり、教えてくれる人が皆無だったので、自分で映画会社に電話したんだけど、門前払いというか相手にしてもらえない。映画館じゃないから。それに借りられたしても、すごく高いし、上映できる回数も決まっているので、うちみたいにワンコインで上映していたらとても採算が合わないんです。
──それで現在は昔の名画のDVD上映になったのだとか。
多田さん:著作権切れの名画のDVDをたくさん持っている会社と出会って、それは上映回数は関係ないので毎日上映できるようになりました。でも、本当は昭和30年代のすごく面白い娯楽映画、山谷のおじさんたちが盛り上がるような作品をかけられないのが、もどかしいんです。
──それでも、こういった場で上映する意義はすごくあると思います。
多田さん:いろんな人が今この街に関わっているんです、福祉の関係者とか。そこで商売として、娯楽をやる。娯楽を前にしたら、みんな自由じゃないですか、それを楽しいと思う気持ちとか。娯楽っていうのをひとつのフィルターにして、いろんな人が自然に混ざりあえればいいと思ってます。だから、福祉を受けている人もあえて入場料を無料にはしてないんです。お酒を飲むのを一杯我慢して映画を観に来て欲しいんです。
▲イベント「牧瀬茜の泪橋劇場」第一夜 (撮影/多田裕美子)
──映画以外にもいろいろなイベントもできそうですよね。
多田さん:はい! やっていきます。以前、踊り子さんの写真を撮らせていただいたんですが、先週日曜日にその方の踊りと一人芝居のイベントをしたんです。初めて映画以外のイベントをやったんですよ。もう、35人以上お客さんが入って大成功でした。また第2弾もやる予定です。
──楽しみです。そして上映作品も充実させていきたいですね。
多田さん:おじさんたちやっぱり、すごく映画好きなんですよ。昭和の娯楽作品を持っている大きい映画会社さんたちが、「こういうところなんだから安く貸してあげようかな、観たい人がたくさんいるんだから」って気持ちで歩み寄ってくれると嬉しいです。
泪橋ホールは、山谷に住むいろいろな立場の人たち、そして外から来る人たちが、娯楽を楽しみながら自然に交流できる場。まだ発展途上なので、これからここがどのような場になっていくのか、とても楽しみです。
興味が湧いた方は、とりあえず餃子を食べに行って、映画を観てみましょう!
お店情報
映画喫茶 泪橋(なみだばし)ホール
住所:東京都台東区日本堤2-28-10
電話番号:03-6320-4510
営業時間:12:00〜22:00
定休日:木曜日