脱北支援先の中国でまさかの身柄拘束──。失意のどん底で味わった「獄中メシ」は意外にも……【極限メシ】

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「脱北」という言葉が日本社会に浸透してどれほどの時間が経つだろう。「北朝鮮国境を越えて命からがら逃げてくる行為」を意味するのは今さら説明するまでもあるまい。

現在、ライター・編集者として活動する野口さんは、かつて脱北者を支援する団体のメンバーとして活動していた。

脱北者を連れて中国を南北に縦断、東南アジアまで南下したのち最終的には日本へ送り出す。そんな危険極まりない行程を重ねるうち、あるとき最悪の事態を招いてしまう。脱北者たちの食事情や、異国の地で彼の命をつないだ食事とは。

 

話す人:野口孝行(のぐち たかゆき)さん

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フリーライター、編集者。1971年、埼玉県生まれ。大学卒業後、メーカー、商社勤務を経て2002年に北朝鮮難民救援基金に参加し、脱北者支援活動に携わる。 その模様を描いた初の自著『脱北、逃避行』(新人物往来社、のちに文藝春秋)が2011年、第42回大宅壮一ノンフィクション賞の候補に。 

 

脱北者はなぜかカレーライスを食べたがる

まずは時計の針を2003年に戻そう。当時、元在日朝鮮人の脱北者と呼ばれる人々が、中朝国境近くにたくさん出現していた。というのも1990年半ば以来、北朝鮮は深刻な食糧難に襲われていたからである。脱北者の中には日本で生まれ育ちながら1950年代以降、北朝鮮へ渡った在日朝鮮人とその家族も少なからずいて、日本への「帰国」を切望する者も少なくなかった。

野口孝行さんが安定したサラリーマン生活を辞め、脱北者の支援活動に身を投じはじめたのが2003年。「誰かがやらなくてはならない。自分にも何かできることがあるはずだ」という義憤にも近い動機が彼を突き動かした。

その年の6月、彼は脱北してきた日本生まれの姉妹(姉40代、妹30代)を助けるため、中国東北部の都市ハルピンへと赴く。中国国内に潜伏中だった脱北姉妹を日本人観光客になりすませ、中国国境を越えて東南アジアまで連れて行き、最終的にはカンボジアから日本へ帰国させるのが野口さんのミッションだった。

その一部始終は彼の著書『脱北、逃避行』に譲るとして、脱北者に関して食にまつわる興味深いエピソードがある。それは脱北してきた人間に何か食べたいものはあるかと野口さんが尋ねると、皆こぞって「カレーライス」と答える点だ。

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野口さん(以下敬称略):これまで十数人の脱北者に会っていますが、だいたい皆さん「カレーライスを食べたい」「カレーライスが懐かしい」と答えますね。これは彼らの家族が北朝鮮に渡った1950年代から1960年当時、カレーライスが庶民の日常食になっていたのが理由かもしれません。当時はまだ家庭に冷蔵庫がまだあまり普及してなかったからでしょうか。その点、カレーライスは野菜と肉があれば簡単に作れるし、材料の保存が利きやすい。だからカレーといっても脱北者が懐かしがるのは母さんが家で作ってくれたカレーライスですね。僕がお世話をした姉妹の場合は「ハウスのバーモントカレー」と銘柄まで指定してきましたから。

 

北朝鮮とカレー。確かに、イメージとしてはどうにも結びつかないものの、記憶と味覚の強い関連性を痛感せずにはいられない。

にしても、件の姉妹はまさかカレーそのものを北朝鮮でまったく食べていなかったということだろうか。

 

野口:中国製のカレーは手に入るけど「粉っぽくて味も薄い」と言ってましたね。なにせ今ならまだしも、昔の中国製ですから。完全に別物だと思います。何より、日本で食べた思い出という調味料が加わってくるわけじゃないですか。

 

そんな脱北者たちは「北」でいったいどんな食生活を送っていたのだろう。

 

野口:食生活のレベルはかなり幅があると察しました。ただ、日本で育って北朝鮮に渡った人たちは比較的裕福だったようです。日本から財産を持って来ているし、日本の親戚とか知り合いから送金してもらったり、物を送ってもらったりしている人が多いし。日本人ほど豊かな食生活というわけではないが、食うこと自体に苦労するほどではない、という感じでしょうか。日本でよく報道されていた「餓死者」は、元在日の人々に限って言うなら、ほんのごく一部のようですね。

 

成功の決め手はユニクロの服

脱北者である姉妹を手助けする過程で、終始成功のカギになったのは「いかに彼女らを日本人観光客になりすまし、怪しまれないよう振る舞うか」という点だ。どう見ても日本人の野口さんが、どう見ても北朝鮮(あるいは中国)人と思える姉妹を連れて歩いていたらすぐさま不審に思われてしまう。職質でもされようものなら一発でアウト。なにせ脱北者らはパスポートを持っていないのだ。

そこを見越して、野口さんが取った作戦が実におもしろい。日本からわざわざユニクロの衣服を買い込んで持参し、姉妹を即席の日本人ツーリストに仕立てたのだ。

 

野口:2000年代前半頃って、まだ中国も今みたいな経済発展を遂げる前で、着ているものでどこの国の人か判別できたんです。香港人か中国人か韓国人か日本人か、服装を見れば一目瞭然でした。だったら日本で売ってるものを着させれば日本人に見えるんじゃないかと。

 

ユニクロの服だけじゃない。野口さんは日本で化粧品まで購入して、日本風メイクをさせるほど徹底させた。

 

野口:化粧品は日本人女性メンバーのアドバイス。男性だとなかなかそういう発想には至りませんよね。でも、驚きましたよ。服と化粧を変えるだけでもう日本人にしか見えない。メイクひとつでこうも変わるのか……すごいなぁって(笑)。 

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▲中国東北部から南下する途中、日本人観光客を装って北京の天安門広場を訪れた。左から現地の中国人協力者、脱北者の姉、妹、野口氏。ユニクロと化粧のおかげでまったく怪しまれることはなかった(写真提供:野口孝行) 

 

完璧に変装した後は、いよいよ中国脱出の旅へ。脱北者の姉妹とともに野口さんは中国東北部からベトナム国境付近へと鉄道で南下していく。その道すがら、何を食べていたのだろうか。

 

野口:鉄道やバスに乗ったりして逃げているときは、体力を保つのに必要なものを食べていただけですね。カップラーメンを作って食べたり、車内販売のお弁当を買ったり、パンを買って食べたりとか。あと米銭(ミーシェン。中国南部でよく食べられる米の麺)はよく食べてました。これはベトナムのフォーの中国版といったところでしょうか。

 

しかし、移動中は味わうどころではないというのが実情だったようだ。

 

野口:移動中はなにをしていても「捕まっちゃうんじゃないか」とか「見られてるんじゃないか」とか、そんなネガティブな考えばかり浮かんでずっと緊張していました。だから何が美味しかったとか、そんなことは考えている余裕がなかったです。当の脱北した姉妹も僕同様、いやそれ以上だったかもしれません。そりゃそうですよね。物見遊山しているわけでないんですから。唯一気が緩んだのは、人混みに紛れやすい大都会で小休止したとき。北京に着いたときは韓国人のやっている焼き肉店の個室で食べたりして、まだゆっくり味わえたような気がします。

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▲野口氏が携わった脱北者を中国脱出させるためのルート。北部のハルピンから瀋陽、北京、上海へと南下し、国境に近い南寧を経てベトナム、さらにカンボジアへ抜ける

 

姉妹は無事に中国を脱出し、ベトナムを経てカンボジアへ。その後、日本政府から渡航証明書を発行してもらい数十年ぶりに日本の地を踏んだ。現在は日本で日本国籍を取得し、日本人として平穏に暮らしている。

 

野口:その後、彼女らは北朝鮮から家族を呼び寄せて一家で暮らしています。最近はお互い忙しいから会っていないですけど、二人ともすごく元気ですよ。

 

獄中なのにタバコ吸い放題

姉妹との旅を終えた2003年の12月、野口さんは再び、脱北支援活動のため中国へ渡る。このとき手助けしたのは、脱北したばかりの60代の男性と40代の知人女性だった。事前の情報が入手できずサイズが分からなかったためユニクロは買っていなかったものの、一行は順調に南下をしていた。

だが、ベトナム国境にほど近い中国南部の都市・南寧で悲劇が起こる。市内のホテルに滞在中、現地の公安に踏み込まれ身柄を拘束されたのだ。連行される脱北者たちの姿を見たのもこのときが最後だった。

 

野口:あのときもしユニクロを着せていたら成功していたかって? うーん、それはわかりません。彼らは見るからにやつれてたし、観光中の日本人には見えなかった。後になって知るのですが、ちょうどそのとき不法滞在者の取締り強化週間で、駅などに覆面(警官)がかなりの数張っていたそうですから、まんまと尾行されたのかもしれない。真相は確かめようがありません。

 

2003年12月、身柄を確保された野口さんは南寧の看守所(日本でいうところの拘置所に近い)に拘束されてしまう。10畳ほどの牢屋に収監され、言葉の通じない中国人とともに不安な日々を過ごすことになった。

 

野口:最初の1カ月は本当に辛かったですね。同じように捕まった脱北者たちや通訳として同行してくれた女性のことが心配でしたし、計画が失敗したこと自体に落ち込んでしまって。そのころはなんにも食べられなくて、出された食事は残していました。その代わりに四六時中タバコを吸って。今はわかりませんが、当時の看守所ではお金さえ払えばタバコが買えたんです。所属団体から日本領事館経由で1000元(当時約1.4万円程度)もらえてたのでそれで注文して。ただ、メシもロクに食わないからどんどんやせ細っていって、いちばん体重が落ちたときで20kgくらいは落ちていたような気がします。

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酒盛りでは、看守も一緒に飲む(!)

身柄を拘束されたことで、一気に失意のどん底に。だが、落ち込んでばかりもいられない。野口さんはあるときを境に覚悟を決める。

 

野口:腹をくくったんです。これは長丁場になりそうだから耐え抜くしかないと。「日本で会社勤めしてたら絶対経験できないことをしてるんだ。目に映ったあらゆる物事を克明に観察してやろう」って。

 

気持ちに踏ん切りをつけると、自然と食欲もわき、これまでまったく受け付けられなかったものに自然と迎合できるようになっていた。たとえば酒。これもタバコ同様、お金で買えるもののひとつだった。

 

野口:同じ部屋にいた中国人の男に、白酒(パイチュウ。穀物を原料とした中国特有の酒)を勧められたんです。「いつも悲しい顔してるけど肩を落とさず、まあ取りあえず一杯飲めよ」って。ぐいっと飲みこむ直前、「まあこんな状態で飲んでも酔いもしないだろうし、大して美味しくもないだろ」って思っていたんですけど、酒ってすごいですね。飲んでるうちに急にほろ酔い気分になってきて。日本じゃこんなの、絶対あり得ないじゃないですか。

 

あったら大問題、しかしかの地ではモーマンタイ(無問題だ)。その大陸的な大らかさは被収容者だけじゃなく、看守ですら同様だった。

 

野口:僕が入れられた看守所は大陸の南部で、しかも田舎だったせいもあるのかもしれないけど、オープンスペースはあるし、管理側もテキトーなんです。たとえばお酒を購入して、看守が持ってきてくれるでしょ。「せっかくだから一杯だけでも飲んでいってくださいよ」って言ったら、看守も「おおそうか」って飲んじゃいますから。「なんだこのユルさは。囚人コントか!」とさすがに驚きました。

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囚われの身でも消えない食への貪欲さ 

では、看守所での普段の食事はどうだったのだろうか。中国版「獄中メシ」の中身が気になるところだ。

 

野口:食事は朝昼夜の3食分出されていました。朝はインスタントラーメン。あらかじめ支給されているプラスチック製のお椀に乾麺とお湯を入れ、各自で作って食べます。昼と夜は白米に野菜のスープ。ご飯は華南の米なので、べちゃべちゃしててあまり美味しくはなかったですね。スープはお湯にレタスや空心菜が浮いてたりしてて、脂っ気はほとんどなくて、薄く塩の味がするだけ。夜も似たような感じですね。で、週に何回か野菜とか、鶏肉の手羽先の先っぽだけとかのおかずがつきます。野菜といっても漬物の炒め物だし、手羽先といっても先っぽだけだからほんとに皮と骨だけですけど。

 

もしも食事が物足りないなら、自分で追加メニューを購入することができる。手元にある程度のお金があった野口さんは、これで「味をシメた」。 

 

野口:よく買っていたのが、手頃な値段だった「包子」(パオズ)かな。表面が白くて、中に何も入ってない、いわゆる「饅頭」(マントウ)。これがね、美味いんですよ。あとは豆腐の炒め物、五花肉(ウーファーロー)というほとんど脂身しかない豚の肉とか。とくに好んで食べていたオカズは、「サバの竜田揚げ」みたいなものですね。注文する度に、他の人間から「油が良くないからやめとけ」「絶対に止めとけ」っていつも言われましたが、構わず頼んで食べていました。だけど帰国後、中国では料理店が溝に捨てた廃油をすくって再利用する業者がいるっていうニュースをテレビで知ってぎょっとしました。もしかすると、俺が食ってたアレはそうだったのかなぁって。でも……美味かったからね。

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※写真はイメージです

 

他人の食事にいちいち口を出してくるのがいかにも中国っぽいなと、何度か中国を旅した筆者は思った。他人との距離の置き方や詰め方が、日本のそれとはとても比べものにならないほど「近い」のだ。が、それゆえにいろんな恩恵に預かることもある。

 

野口:中国人って基本的におせっかいなんですよ。一人でいたら絶対放っておかない。食事やお酒のとき、「要らない」って事前に言ってもお構いなしに「飲め」とか「食え」ってしつこく言ってきます。独り占めしないし、誰かが料理を頼めば分け合う。それはまぁいいところでもあるんですけどもね。狭いスペースの、半径数メートルでの生活だから余計に親しくされるのでしょう。さきほど紹介した白酒の人はアヒルをつまみによく飲んでて。よく中華街とかで売ってるアヒルの醤油蒸しみたいなものですね。これがなかなかイケるんですよ。

   

当時、中国社会は経済が発展するにつれ、貧富の差が日本とは比べものにならないほど開きつつあった。それは塀の中においても同様だった。

 

野口:格差はすごくありました。よほど重大な不正を働いたのか、共産党の幹部が捕らわれていて、その人は基本、部屋の外へ出ていって食事するんですよ。で、たまに部屋に戻ってきて差し入れをくれたり。印象に残ってるのは、魚生(ユーシェン)という刺身のタレ漬けみたいな料理。魚の種類はわからないけど(笑)、鯛みたいな味で、白身魚であることは確かです。さすがに生の魚はヤバイんじゃ……と思いつつも美味いので食わないわけにはいかないんですよ。

 

※ツイート主さんの許可を得て掲載しています 

 

一方で、持たざる者はそれなりに工夫し、それぞれが食べることに執着していた。

 

野口:あまりお金を持っていない若い者らは安いどぶろくを大量に買って、ポリタンクに入れて飲んでましたね。私にもよくふるまってくれました。中国の人って食に対して知恵が働くというか、貪欲さがすごい。例えば、朝食で出たインスタントラーメンのスープ粉を半分ほど残しておいて、昼に支給される味気ないスープに加えて味を調えたり。あるいは生玉子を使って玉子豆腐みたいな料理をつくったり、所内の植え込みにニンニクの芽を栽培してたりね。ニンニクは小便を肥料代わりにしてて、私はそれに気づかず美味い美味いってパクパク食べてましたけど(笑)。あ、ペットボトルの中にニンニクとお酢と塩と唐辛子をつけて日光に当てて発酵させて、調味料を作っていた人もいましたね。あれ、めちゃくちゃ美味かったんで帰国してからも自分でマネして作ったりしてたんですよ。

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週刊誌のグルメ記事が目に堪えた

こうして食の話を聞いてみると、さぞかし愉快な暮らしに思えるが、やはりそこは捕らわれの身。自由が利かない毎日であることに変わりはない。

そんな中、野口さんはいかにしてメンタルを保ったのだろうか。

 

野口:平常心を保つといっても、日々のちょっとしたことですよね。例えば、さっき話した「包子」あるでしょ。あれって、若い頃のジャッキー・チェンが映画の中で修行の合間とかによく口にしている食べ物なんですよ。で大ファンの私はあれを食べてさえいれば自分がジャッキーになった錯覚がしてくる。「俺は今、猛烈な修行をしているんだ。これさえ食えば絶対に耐えられる」ってね。些細なことだけど、メンタルがすこしでも保たれれば食事が美味しくなるし、食事が美味しくなればメンタルが保たれる。

 

その反面、沸き起こる食欲を抑えられない日もあった。

 

野口:日本から親が面会しに来てくれたとき、日本の週刊誌をごっそり差し入れてくれまして。当然、女性のグラビアページも穴が空くほど眺めるんですが、それよりもグルメのページがキツかった。「〇〇駅前のちょっと寄りたい居酒屋」みたいな記事があるじゃないですか。あれがこの世のものじゃないほど光り輝いて見えるんですよね。美味いって知ってるのに、絶対に手に入らないものだから。

 

収容されて約8カ月目には処遇が決定し、解放される日も目前に迫った。そんなとき、出所する直前には仲間たちが宴を開催してくれることに。そこで口にしたものが……。

 

野口:看守が食用に飼っていた犬を、被収容者の仲間たちが金を出し合って買い取り、さばいて振る舞ってくれました。日本だとギョッとされるけど、現地ではわりとポピュラーなんです。最初は「えっ?」とたじろいだけど、食べてみると脂身の弾力があって、豚肉のスペアリブに近い。もう夢中で食べましたよ。香辛料をたくさんまぶしてあったおかげか、臭みはほとんど感じませんでした。

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いつか自分の足跡をたどってみたい

収容された翌年の2004年夏、野口さんは晴れて釈放され、帰国を果たした。さらにライターや編集者として活躍しつつ、家庭を持った。

2011年には、ここまで記してきた稀有な経験を記した手記『脱北、逃避行』が大宅壮一ノンフィクション賞の候補に。惜しくも受賞は逃したものの、その衝撃的な内容は大きな話題をさらった。

脱北、逃避行 (文春文庫)

脱北、逃避行 (文春文庫)

  • 作者: 野口孝行
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/10/10
  • メディア: 文庫
 

 

野口:最初に単行本で出版されてその後文庫化するにあたり、食べ物の描写はかなり削りました。というのも単行本の執筆時は記憶が鮮明だったってこともあって、食事に対してすごく執着心があったし、それが面白いと思ったので食べ物についてやたら熱心に書き込んでるんです。だけど、文庫化の際、再読するとすごく卑しい感じに思えて、食べ物に関する部分をかなり削りました。自分が40代になって食への執着が薄れてきたこともあるかもしれません。

 

さて、時計を現在の2019年に戻そう。あれから16年あまり。当時と今ではさまざまな状況が変わっている。

 

野口:今も支援団体には籍を置いていますが、私自身は具体的な活動をまったくしていない状況です。そういえば、釈放されて以降、中国には5年間の渡航禁止になったんですが、その後は個人的に香港や北京に何度か出かけているんですよ。いつか、あのときの中国東北部から東南アジアへのルートをたどってみたいですね。南寧の看守所を訪ねてみたいし、そこで一緒に過ごした仲間にも再会してみたい。まぁ看守所は2004年当時、すでに相当ボロかったから、同じ建物はもうないかもしれませんが。

 

失意の中、獄中で体験した苦悩の日々。そんな過酷な体験を一度味わったら、日常のたいていのことは耐えられるのでは? そんな質問を最後に投げかけてみると、彼は笑いながら答えた。

 

野口:いやいや、全然。今を生きるだけでも精一杯だし、あのときと同じようにしんどいことも現実ではたくさんあります。ただ振り返ると、人生の試練ともいえるあの期間で、食事に救われた部分は大きかったのかもしれませんね。今でも、看守所でさんざん食べさせらたレタスのスープを自分でよく作るし、あの魚生のレシピが知りたいなぁって思いますから。

 

 

書いた人:西牟田靖

西牟田靖

70年大阪生まれ。国境、歴史、蔵書に家族問題と扱うテーマが幅広いフリーライター。『僕の見た「大日本帝国」』(角川ソフィア文庫)『誰も国境を知らない』(朝日文庫)『本で床は抜けるのか』(中公文庫)『わが子に会えない』(PHP)など著書多数。2019年11月にメシ通での連載をまとめた『極限メシ!』(ポプラ新書)を出版。

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