ドラフトで入団後わずか2年で戦力外通告……。元教習所教官の異色投手が見たプロ野球の「理想と現実」

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読者の多くはその名前を聞いても、ピンと来ないかもしれない。

 

彼、信樂(しがらき)晃史は、昨秋、在籍わずか2年で千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受けた元投手。15年のドラフト指名時に話題となった「自動車教習所教官」と言えば、「そう言えば」と思い出す人もいるだろう。

 

続々とプロ入りしてくる選手のうち、およそ75%が10年以内に去っていく世界とはいえ、2年でクビというのは異例のこと。毎年100人近くが入れ替わるプロ野球にあっても、とりわけ厳しい現実を突きつけられたのが、他ならぬ信樂だった。

 

12球団合同トライアウトをひとつの区切りに、故郷・宮崎で“第2の人生”を歩み始めた彼に、はかなくも濃密だった2年間のプロ生活とこれからを聞いた。

 

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▲「51」の背番号をつけたロッテ時代。本拠地ZOZOマリンの1軍マウンドは遠かった

 

訪れなかった「勝負の3年目」

2015年のプロ野球ドラフト会議。

 

ロッテから6位指名を受けた信樂晃史は、「自動車教習所教官」という異色の経歴をもつ新人として、にわかに注目を集める存在になった。

 

所属先の「宮崎梅田学園」は、世間的にはほぼ無名の社会人チーム。真っ昼間の野球居酒屋でCSの生中継を見ながら、“超高校級”平沢大河の交渉権獲得に大喜びしていたかく言うぼくも、TVモニターに映しだされた聞きなれないその名前には「???」となったほどだった。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:あのときはもう、すべてが想定外すぎて(笑)。自分の経歴にそこまで“引き”があるとはまったく思ってなかったから、ちょっと面食らったところもありました。ちなみに、教習所の教官っていうのは、21歳以上で1年以内に6科目の試験に受かりさえすれば、仮に本人がペーパードライバーでもなれるんです。しかもウチの場合、資格があるのとないのとでは、手取りの給料が月に2万円ぐらいは違ったから、これは持っていたほうがトクだなと。普通の勤め人にとって、月に2万ってけっこう大きいじゃないですか。

 

メディア露出の多さは、ドラ1の平沢に次ぐレベル。ピンストライプの背番号「51」は、ファンからもすぐさま、親しみを込めて「教官」とあだ名され、試合を作れる先発投手として期待された。だが……。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:最初は自信もあったんですけどね。でも、「ああしろ、こうしろ」って毎日いろんなことを言われているうちに、フォーム自体が崩れてしまって……。変化球を投げるにしても、自分の感覚としてはボールが指の第1関節ぐらいにしかかからない。球が走らないから、厳し目のコースを攻めようとしてフォアボール。焦って置きに行って打たれる、みたいな悪循環にどっぷりハマっていきました。一時はセカンドにさえまともに送球できない、みたいなときもあったんで、たぶんイップス(※)に近い状態だったんだと思います。

※イップスとは精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレー(動き)や意識が突然出来なくなる症状のこと

 

むろん、彼に対するコーチの指導も「よかれと思って」なされたこと。そこには「なんとか一人前にしてやろう」という親心しかなかっただろう。

だが、それが当の本人にハマるかどうかはケースバイケース。良縁に恵まれるかどうかが「結果」に大きく影響してしまうという意味では「運も実力のうち」なのだ。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:そうですね。言われたことをただバカ正直にやるんじゃなく、自分なりに取捨選択するっていうのも大事だったなって、いまになって思います。それをしなくてパンクしてしまった経験から言っても、聞き流すことも時には必要なんだなって。実際、自分の感覚をある程度優先させるようになってからは手応えもあったんです。けど、「遅れをとった」っていう焦りもあって、今度はそれで腰を痛めて……。で、2年目の後半ぐらいにようやくまともに投げられるようになって、「来年こそは」って感じで思っていたら、その来年がなかったっていう(苦笑)。

 

いくら大学、社会人を経た即戦力とはいえ、わずか2年での「戦力外」はさすがにレアケース。本人やその周囲にとっても、まさに寝耳に水の降って湧いた話ではあったという。糸口が見つかりかけた矢先の無情な通告。当然、頭は真っ白にもなった。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:会議室みたいなところに呼ばれて、「契約しないから」ってただそれだけ。当初のリストには名前がなかったみたいで、近しい関係者の方もビックリしていましたね。もちろん僕自身にも悔いはたくさんあります。でも、一度は「辞めよう」と決めた野球で、最後はプロにまで行けたわけですから、そのことに関してはホントに財産だなって思います。もし「教官」になる道を選んでなかったら、卒業と同時になんとなく就職して、なんとなく毎日を過ごしていただけだと思うんで。

 

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宮崎梅田学園での社会人時代。2年目の急成長でJR九州の補強選手に選ばれた

 

野球との決別から一念発起

大学時代。福岡大の3年生だった信樂は、好きだった野球と一度は決別。同級生の梅野隆太郎(13年ドラフト阪神4位)がドラフト候補として騒がれるのを横目に見ながら、一般学生と同じように就職活動に明け暮れた。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:僕がプロに入ってからは彼とも“和解”しましたけど、当時は野球に対する温度差がスゴくて、ちょっとついていけなくて(笑)。彼は2年のときにはすでにジャパンに選ばれていたんですけど、そこから帰ってきた直後ぐらいから、輪をかけて意識が高くなっちゃって。もともと練習がそんなに好きじゃなかった僕は、それに対する反発もあって「もういいや」ってなってしまったんです。

 

県下屈指の強豪校・日南学園に進んだ高校時代も、1学年上には、中﨑雄太(08年ドラフト西武1位/16年戦力外)&有馬翔(同ソフトバンク4位→楽天/14年戦力外)らの逸材はいたし、1学年下には、いまやカープの“方程式”の一角を担う中崎兄弟の弟・翔太(10年ドラフト広島6位)もいた。プロにまで入る同世代の姿は、これまでにも多数見てきたはずだった。

 

だが、20歳前後と言えば、自分の可能性も含めていろんなことが「わかった気になる」年頃。将来を約束された同期との歴然とした差に、一線を引かれたような気になった。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:4年生の1年間は、同じ大学内にいても意図的に違う場所にいて、違うことをしていました。だから、梅野がドラフトで指名されたときも、テレビでよく見る祝福の光景の中に、僕はいなかったんです。彼からも直接「おまえらは来んな」って言われていたぐらいでしたしね(苦笑)。で、就活もうまくいかなくて、とりあえず地元に帰ろうって思っていたときに、梅田学園から誘ってもらって。もう一度、真剣に野球と向き合おうって決めたんです。

 

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▲力のあるボールを投げこんだ躍動感あるフォームは、プロでは一転、ナリを潜めた

 

宮崎梅田学園は、県勢初の都市対抗出場を目指して09年にクラブチームから企業登録へと変更した社会人野球の新興勢力。元プロの指導者はいたが、ドラフトにまでかかった選手は彼が唯一という、地域に根ざしたごく普通の企業チームでもあった。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:一度は諦めた身の上なんで、2年やって声がかからなかったら辞めようと思ってました。で、その2年目に運よくJR九州の補強選手に選んでもらって、都市対抗の本戦にも出場できた。プロに行けたのは、あそこがすべてだと思います。ロッテで一緒になった有吉(優樹/16年ドラフト、ロッテ5位)さんのことも当時から知っていましたけど、彼のいた九州三菱(自動車)あたりだと、ウチと対戦しても“有吉クラス”はまず出てこない。強豪からすると、それぐらい眼中にない格下チームでもあったんで(笑)。

 

同期との関係を悪くするほど「嫌いだった」練習にも、一念発起してひたむきに打ちこみ、本気で「上」を目指した社会人での2年間。地元・宮崎で野球を見つめ直したそうした日々があったからこそ、腐っていた時期を乗り越え「自分は変われた」と彼は言う。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:「練習嫌い」だったことは自分でも公言していましたし、ロッテではインスタで寮の後輩とジャレあってる動画とかを配信したりもしていたので、「成績も残していないのにチャラチャラして」みたいに思われていたところも、きっとあるとは思うんです。ただ、自分の中ではオン・オフの区別はきっちりつけて、やるべきことはやってきた。そもそもファンの人に喜んでほしくて発信していたSNSで「毎日しんどいです」「ツラいです」なんて言っててもしょうがないですしね。

 

早すぎた「通告」を、“オフ”の彼がとる言動と結びつける向きもたしかにあった。「結果も出ないうちから〜」うんぬんも、もっともな意見ではあるのだろう。だが、野球選手が「夢を売る商売」であるなら、SNSを通じて垣間見える貴重なオフショットもまた「夢」の一部。苦悩を見せずに、明るく振る舞い続けた彼の思いは「せめてもの」プロの誇りと言えなくもないはずだ。

 

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▲現在の勤務先では、スクールに通う子どもたちの送迎が主な仕事

 

目指すは地元のアマ指導者

故郷に戻った信樂は現在、宮崎市内でスイミングスクールとフィットネスジムを運営する「21フィットネスクラブ」で、送迎バスの運転手兼指導補助として勤務する。

 

ロッテでも同期入団の原嵩(15年ドラフト6位)や岩下大輝(14年ドラフト3位)ら年下の同僚たちからは、ことのほか慕われた明るく面倒見のいい性格。本人は「実は人見知りで、教えたりするのは苦手」と笑うが、彼の行くところには自然と子どもたちの輪ができる。

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:もし縁があったら、どこか近くの高校とかで教えたり、将来的にはまた野球に関わる仕事がしたいとは思っています。でもいまは、そういう僕の気持ちもくんだ上で、「ここを踏み台にしてくれてもいいから、ウチにおいで」と言ってくれた会社の役に立つことが先決かなって。野球関連の部署があるわけではないので、できることも限られていますけど、毎日なんとかやってます。

 

ところで、昨年末。ロッテファンのあいだでは、彼がインスタグラムに投稿したとある写真が話題になった。そこに映っていたのは、実家の酒店「酒のしがらき」で、自身がプロデュースしたという地元産のポーク100%ウィンナーをPRする彼の姿。これには「実家を継いだ」と早合点した人も少なくなかった。

 

 

f:id:Meshi2_IB:20180306090842p:plain信樂:そうかもしれないですね(笑)。でも社長の祖父も、実質的にお店を切り盛りしてる親父もまだまだ元気なんで、まだしばらくはいいかなと思ってます。あんまり距離が近くなりすぎると余計なけんかも増えるし、やっぱり甘えも出ちゃうんで。

 

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▲祖父の代から営んでいる実家の酒店。昔ながらのよろず屋だ

 

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▲お店を切り盛りするご両親。アポなし訪問にも、にじみ出るロッテ愛! 息子愛!!

 

昨年、子どもが産まれ、自身も親になった。将来的には「家業を継ぐ」ことも視野にはある。しかし、彼はまだ26歳。選択肢を自ら狭める必要もまったくない。

 

プロでは1軍昇格さえかなわなかった。39試合に登板したイースタンでの2勝4敗、40奪三振、防御率6.01という平凡な数字が「プロ野球選手・信樂晃史」のすべてではある。

 

だが、「プロ野球選手だった」という経験そのものは、他では得がたいなによりの糧。故郷に根を張る決意を固めた彼の“第2の人生”には、それこそ無限の可能性が詰まっている──。

 

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【信樂晃史(しがらき・あきふみ)】

1991年12月26日、宮崎県生まれ。右投げ右打ち。日南学園高、福岡大、宮崎梅田学園を経て、15年のドラフト6位で千葉ロッテに入団。史上初の「自動車教習所教官」出身プロ選手として話題となった。17年オフに戦力外通告を受けて、現役を引退。現在は地元・宮崎の『21フィットネスクラブ』で勤務する。現役時代は、スリークォーターから投じる150km/h近い球威あるストレートとツーシームを武器とした。

 

お店情報

酒のしがらき

住所:宮崎宮崎市月見ヶ丘2-2-15
電話:0985-51-2102
営業時間:8:00〜20:00
定休日:第1・第3日曜日

 

写真提供:信樂晃史

 

書いた人:鈴木長月

鈴木長月

1979年、大阪府生まれ。関西学院大学卒。実話誌の編集を経て、ライターとして独立。現在は、スポーツや映画をはじめ、サブカルチャー的なあらゆる分野で雑文・駄文を書き散らす日々。野球は大の千葉ロッテファン。

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