球史に残る悲劇から8年──。最後のボビー・チルドレンが感じた「野球とBASEBALLの決定的な違い」とは

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今年もいよいよ開幕したプロ野球。各地で繰り広げられる連日連夜の手に汗握る熱戦に「球春到来」のよろこびを感じる、野球ファンも少なくないことだろう。

だが一方、ユニフォームを脱いだ「元プロ野球選手」にとっては、野球とは別のセカンドキャリアに足を踏みだす、新たな門出の季節。そこには試合とはひと味違うドラマがあるのも確かなのだ。

そこで今回は、そんな「元プロ野球選手」のひとりとして、大学院で修士号を取得した元千葉ロッテマリーンズ・伊藤義弘氏にインタビュー。2010年には日本シリーズの胴上げ投手にもなりながら、翌年に起きた“バット刺さり事故”で選手生命を大きく縮めた伊藤氏が思い描く「第2の人生」をうかがった。 

話す人:伊藤義弘(いとう・よしひろ)さん

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1982年6月2日、福岡県生まれ。右投げ右打ち。東福岡高では2年夏に控え投手として甲子園のマウンドを経験。國學院大を経て、JR東海に入社し、3年目の都市対抗では王子製紙の補強選手としてベスト8入りにも貢献した。07年の大学・社会人ドラフトで4巡目指名を受けて、千葉ロッテマリーンズに入団。即戦力として4年連続50試合登板を達成するなど、“YFK”が相次いで抜けた救援陣の一角を担う活躍をみせた。10年の日本シリーズでは胴上げ投手となるも、12年以降は怪我で低迷。16年オフに戦力外通告を受け、現役を退いた。現在は教員免許の取得を目指して日体大に在学中。

 

ボビーが教えてくれた「野球の楽しさ」

たとえ乱闘騒ぎになっても涼しい顔でインコースをビシビシ突く不敵な投球スタイルで数多のファンを魅了した中継ぎ右腕・伊藤義弘は、一昨年の春に入学した日体大の大学院で、学問としてのコーチング、スポーツ心理学を学んできた。
取り組んだ研究テーマは「プロ野球選手が求める監督像の差異」。修士論文を書くにあたっては、12球団の現役選手全員へのアンケートも敢行した。

 

伊藤:ひとくちに「プロ野球」と言っても、選手それぞれのポジションはもちろん、年齢や立場、所属するチームによっても取り巻く環境は大きく違う。高校を出たばかりの新人や、「1.5軍」と呼ばれるような、なかなか1軍に定着できない中堅どころ、現役最年長の福浦(和也)さんのようなベテランでは、指導者に求めるものもまったく変わってきますよね。
なので、そういう部分に着目して、「日本の最上位とされるNPBのなかでもこんなに違うんだよ」ってことを明らかにすれば、指導するうえでの大事なものも自ずと見えてくるんじゃないかな、と。もちろん、僕自身がプロで得た知見をアマチュアの世界に還元したいって気持ちもありましたしね。

プロ入り当初のロッテを率いたボビー・バレンタイン監督は、「エンジョイ・ベースボール」を掲げてメジャー流の価値観を日本のプロ野球に持ちこんだパイオニア。
それまでをずっと「日本式」で過ごしてきた伊藤にとっても、彼との出会いは衝撃的で新鮮なものだった。

 

伊藤:なんて言うか、「野球って楽しいんだな」って初めて思えたんですよね。僕らのような若手とも常にコミュニケーションを取ってくれる監督でしたし、仮に失敗したとしてもそれがチャレンジした結果であれば「またチャンスはあるぞ」と必ずポジティブな発言で返してくれる。
日本人の監督さんだと、個人名を挙げた選手批判みたいな記事がメディアに載ってしまうことも少なくないですけど、ボビーの場合はそういうこともほとんどなかったですからね。日本人の指導者もこういうふうにやったら、もっと野球やスポーツが楽しく感じられるのになっていう思いは、その当時からあったんです。

あらゆることに「俺が悪い」と応じる日本ハム・栗山英樹監督のような人物もいるにはいるが、それはまだまだ少数派。先頃、DeNA・筒香嘉智選手が子どもたちへの指導法に対して踏みこんだ発言をしたように、ことアマ球界では暴言や体罰がまかり通る上意下達の風潮がまだ根強い。

 

伊藤:とにかくボビーは「プレイヤーズファースト」。選手がいかにピークでパフォーマンスを発揮できるか、怪我をしないようにできるかを第一に考えてくれる監督でした。秋季練習で「投げない」ことを褒める監督なんて、日本人にはそういない。「シーズンは終わったんだから、まず身体を休めることが大事だろ。休んで回復したら、キャンプまでにトレーニングをしろ」っていうのが、彼にとっての当たり前だったんです。
ただまぁ、彼の言う「エンジョイ・ベースボール」を実践するためには、しっかりとしたコンディショニングが必須条件でもあったので、要求されるハードルはかなり高かったですよ。試合前夜に深酒をしたり、調整を怠ったりする選手には当然厳しかったですし、いたずらに甘やかすだけじゃない、規律もそこにはありましたから。

 

根深き日本スポーツ界の精神論

まず「楽しむ」。そのために「規律」がある。バレンタインの哲学は、シンプルで明快だった。「規律」を重んじるあまりに、いつのまにか本来あるべき「楽しさ」をかき消してしまう旧態依然とした日本の部活動、スポーツ教育とはまさに対極。
そこにこそ「根っこはある」と伊藤も言う。

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伊藤:これも僕自身、研究したことではあるんですけど、海外と日本ではそもそもスポーツの定義が違うんです。野球やサッカーといった海外のスポーツの多くが遊びの延長や祭事から発展したものであるのに対し、日本はもともと「武道」の国。野球がアメリカから入ってきたのが、ちょうど富国強兵の時期とも重なったことで、旧来の武士道精神の鍛錬と結びついてしまったんですね。だから「練習はしんどくないと意味がない」なんていう精神論がまかり通る。精神を鍛えることと野球が上達することは決してイコールじゃないんですけどね(笑)。

 

本場アメリカのスポーツ界にも、指導者による暴言や体罰のたぐいはもちろんある。だが、NCAA(全米大学体育協会)に代表される統括組織が、そういった指導者の資質をも常に厳しく監視する。
日本とは比べものにならないほどの報酬を得られる一方、ひとたび問題を起こせば、資格そのものを剥奪されることもあるのが、アメリカにおける“普通”でもあるわけだ。

 

伊藤:僕は高校が東福岡なんですけど、高校3年間の体育の教科担任が、当時着任したばかりだった藤田(雄一郎、現・ラグビー部監督)先生だったんです。体育の先生って、金八先生で言うところの竹刀をもって生活指導みたいなどこか「怖い」イメージだったんですけど、藤田先生はまったく違って。
その後、ラグビー部をあれだけの強豪へと育てあげられたことから考えても、あのとき感じた「楽しさ」とボビーの野球には、共通する部分があるはずだ、と。大学院で研究してきたテーマには、そういう僕のなかでの実体験も大きく影響してるんです。

 

悲劇が変えた選手としての運命

一方、プロ野球選手としての伊藤のキャリアは、果たしてどうだったのか。
運命を大きく変えることになったのが、2011年9月1日の日本ハム戦(@QVCマリン)。1年目から4年連続での50試合登板を達成し、防御率2.29と抜群の安定感を誇っていた伊藤を悲劇が襲う。試合中、打者の折れたバットがマウンドにいた伊藤の足に刺さるというイレギュラーな事故に見舞われたのだ。

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▲背番号「30」は渡米した“幕張の防波堤”小林雅英から引き継いだ

 

伊藤:折れたのは自分でもわかったんですけど、ヘッドがこっちに向いてたからセカンド方向に飛んでいくものだと錯覚して、目を切っちゃったんですよね。そしたら、自分のほうに飛んできて……。あの年は肩ヒジも全然痛くなかったし、僕のなかでは最高の状態で投げられていたシーズンでもあったんですけど、いま考えればやっぱりバットが刺さった影響は大きかったかな、と。
目標にしていた「5年連続50試合登板」の可能性がなくなるまでは、早く投げたい一心でめちゃくちゃ焦りもあったから、足首の可動範囲が戻りきるまえにゲームにも復帰して、そのせいで、腰、ヒジ、肩と痛めて、脇腹の肉離れまでやっちゃって。後半の5年間はほぼ、手術してはリハビリして、っていう毎日でしたね。

 

なかでも、伊藤を苦しめたのが故障が相次いだ時期に発症した仙腸関節炎。患部をかばいながら過ごしたことによって崩れた身体のバランスが、脊椎の根元で骨盤の骨をつなぐごくごく小さな関節に多大なる負荷をかけたのだ。

 

伊藤:一歩踏みだすごとに腰が痛んで2ヵ月ぐらいまともに歩けなかったんですよね。手術をする選択肢もあったけど、メスで開けてみないとどっちに転ぶかわからないレベルと言われてしまって。でも、そんなことで復帰がさらに遅れるのは嫌だったから、監督やコーチ、トレーナーから紹介してもらった治療院に片っ端から行ったんです。最終的には兵庫県の明石市にあるカイロプラクティックがハマって、そこから急激によくなりましたけど、あのときは治療のためだけに何百万(苦笑)。
投げられない、トレーニングもできないっていう状態からとにかく脱したくて、新しいアクションを起こすことに躍起になってたんですね。

 

怪我をして以降は、アスリートフードマイスターの資格を持つ妻のサポートが大きかった。プロスポーツ選手である以上、体調がどんな状態であっても食事は常に健康管理の柱となる。

 

伊藤:食事面で言うと、妻がかなり栄養面を考えてくれました。鶏のささみや免疫力を高める葉酸を多く含んでいるブロッコリーなんかは毎日食卓に並んでましたし、その都度いろいろ調べてサポートしてくれましたしね。

 

イチファンの立場からすると想像を絶する過酷な毎日。だが、伊藤の気持ちは折れなかった。
「投げられるようにさえなれば絶対にまた上に行ける──」。その揺るがぬ自信が、ともすれば悪循環へと陥りがちな日々のモチベーションとなっていた。

 

伊藤:人生にはいいときも悪いときもありますし、僕は物事はなんでもポジティブに考えるタイプなんで、いまはそういう時期なんだなって。当時は「試合単価でいったらもしかして涌井(秀章)より上なんじゃないか」ぐらいに考えてましたね(笑)。
そもそもプロは実力だけがモノを言う、すべてが自己責任の世界。世のなかのどこを探してもないそんなサバンナみたいな世界で、好きなことを仕事にしていたわけですから、落ちこんでる場合じゃないんです。なので、プロに入った瞬間からジャイアンツのテストで不合格って言われるまで、野球に対するモチベーションはいっさい下がらなかったです。向上心は常にある。ただ、体の痛みはどうしようもないってだけでね。

 

実はバスケがしたかった少年時代

ちなみに、いまでこそ学問の道にまで進む“野球人”の伊藤も、少年時代は「野球が好きではなかった」という。プロを意識したのも社会人になってから。ドラフト指名も社会人3年目と遅かった。

 

伊藤:僕は『スラムダンク』の愛読者でもあったから、とにかくバスケがしたかったんです。でも、通ってた小学校は1学年2クラスしかないのに、なぜかソフトボールチームが2つもある学校で、必然的にソフトボールをやることになって。
中学では「さぁ、バスケ部に入ろう」と思ったら、野球用具を一式そろえてた親から「だったら家を出ていけ、勘当する」と言い渡されて(笑)。で、「高校になったら今度こそは」と思っていたら、最後の中体連で自分のエラーで0-1で負けて、その悔しさもあって自分から野球をするって言ったんです。

 

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だが、入学した東福岡は、2学年上に村田修一(日大→横浜、巨人)や捕手の大野隆治(日大→ダイエー)、1学年上には田中賢介(日本ハム)らがいた黄金世代。初めて触れた高校野球のレベルの高さには、ただひたすらに圧倒された。

 

伊藤:同級生には負けてると思わなかったけど、先輩たちがスゴすぎて、最初に思ったのは「3年生になったときにこのレベルになれるのかな」でしたね。ただ、もともと負けず嫌いな性格なので「絶対エースになってやる」とは思ってて、結果的には肩を痛めはしましたけど、3年になったときには背番号「1」をもらいました。
その頃の僕はとにかく「負けたくない」一心で、野球を続けてて。ピッチャーをやりたいって思ったのも、甲子園の中継でいちばんテレビに映るからだし、野手は8人いるけど、ピッチャーはひとり。そのひとりになるために誰よりも練習をしたんです。そしたら大学に入る頃には、野球をするのが当たり前になっていて。その適性を見抜いてた親、スゴいなって心底思いましたよね(笑)。

 

國學院大を経て、JR東海に進んだ時点でもまだプロは念頭にはなかったが、曰く「想像していた環境と違った」ことで生来の負けず嫌いが顔をのぞかせ、一念発起。3年目にして王子製紙の補強選手として都市対抗でベスト8入りを果たし、ドラフト指名を勝ち取ることにも成功する──。

 

伊藤:2年目のときに予選でバンバン投げてたのに、本戦で投げさせてもらえなかったのが悔しくてね。カープのスカウトさんは最後まで「プロ志望届を出さないか」と言ってくれてたんですけど、それを「出しません」って断って。「都市対抗で投げてないのにプロに行くのは心残りになるから、来年ドラフトにかからなくてもいいからもう1年やります」って言ったんです。
プロで中継ぎ一本にしたのは、自分がプロで生きていく道は中継ぎだっていう意識があったから。シーンとした状態から試合を作るより、ある程度テンションが上がってる状態で出ていくほうが向いているって自覚があったんです。おそらく大学・社会人出身の選手は、そういう適性や培ってきた自分のスタイルに確信を持ってないと、多かれ少なかれ失敗します。高卒と違って、残された時間はそんなに多くないですから、助言のすべてを受け入れて惑わされてちゃダメなんです。

 

「野球ってそんなにスゴくない」

晴れて修士号を取得した伊藤は、残る教職課程の単位を履修するためこの春も変わらず日体大に通っている。バレンタインや藤田雄一郎といった名将との出会いを糧に、自身の理想とする指導法を現場レベルで実践するのが当面の夢だ。

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伊藤:この歳で大学院生になっていちばんよかったのは、「野球ってそんなにスゴくない」と知れたこと。お金は人より稼げるかもしれないけど、野球にそこまで興味がない大多数の人にとっては、イチローさんや大谷翔平選手レベルになって初めて「あぁ」となるぐらいの縁遠い世界。実際、体育大の学生でさえ「柳田悠岐? トリプルスリー?」となりますしね(笑)。スポーツ栄養学の授業なんかを聴講すると、現役時代に知っておきたかったと思うことも多いですけど、野球界から離れて、いかに自分の生きてきた世界が狭かったかを実感できただけでも、すごく大きかったと思ってます。

 

10年日本シリーズでの奇跡的な“下剋上”から、早8年半。
「胴上げ投手」伊藤義弘の第2の人生は、指導者として現場に立つそのときに向かって、着実にその歩みを進めている。

 

書いた人:鈴木長月

鈴木長月

1979年、大阪府生まれ。関西学院大学卒。実話誌の編集を経て、ライターとして独立。現在は、スポーツや映画をはじめ、サブカルチャー的なあらゆる分野で雑文・駄文を書き散らす日々。野球は大の千葉ロッテファン。

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