宿泊料3万7000円を払って食べるカレーは将棋界で「神グルメ」として知られていた

将棋マニアの中で語り継がれる絶品グルメがある。「陣屋のカレー」もそのひとつ。名勝負、名棋士たちを支えたその味とはいかなるものなのか? 本来は宿泊客限定のところを今回特別にご提供いただいた。

エリア秦野市その他(神奈川)

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※当記事は緊急事態宣言以前の2020年3月に取材しました。なお、旅館や棋士に関する情報は2020年9月時点のものです

 

「陣屋カレー」という将棋界の神グルメがあるのをご存じだろうか。

そもそも将棋の世界では観戦を主な楽しみとするファン層「観る将(みるしょう)」がいる。その観る将の楽しみの一つが、対局中の棋士が昼食や夜食に何を食するのか、おやつは何かという「グルメ」なのである。

棋士の中には、肉豆腐定食に餅を追加する者、冷やし中華を二杯食べる者などもいる。加藤一二三・九段が現役時代、40年間もうな重を愛し続けたことは観る将の基礎知識だし、藤井聡太棋聖が最年少タイトル保持者となった対局で味噌煮込みうどんを食べたことは多くの一般メディアが報じた。

これらはファンの間で話題になったり、同じお店で同じメニューを注文したりするほどの評判になる。

 

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本題に移ろう。神奈川県の鶴巻温泉には、囲碁・将棋のタイトル戦で数多の名勝負が繰り広げられる「陣屋」という老舗旅館がある。古くからの将棋ファンにとって、陣屋の名前は升田幸三元名人が関わる「陣屋事件」で有名だ。

だがしかし、近頃の将棋ファンにとっての陣屋は幻のカレー「陣屋カレー」で有名ではないだろうか。

この陣屋カレー、当初は対局日に関係者しか食べられなかったメニュー外の食事だった。それが宿泊時のルームサービスとして提供されることになったものの、同館は二人部屋でも一泊一人37,000円から、という高級旅館(2020年3月取材時点)。まだまだ高嶺の花だ。

このたび、同館のご厚意でカレーを食べさせていただくことが叶った。客室の様子などを含めてレポートしていきたい。

 

米長永世棋聖のリクエストがきっかけに

小田急線鶴巻温泉駅から徒歩数分。敷地1万坪の陣屋は入り口から本館の玄関まで1~2分はかかる広さだ。

緑と水が豊かで、そもそも別荘地だったということが頷ける。

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▲敷地に入ってから真っ直ぐに進み……

 

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▲階段を左に折れ

 

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▲更に進んで初めてロビーのフロアへの入り口にたどり着く

 

ロビーは中腹の階にあり、宿泊室は更に上にあった。

ゆかりの深い升田幸三元名人の写真なども飾ってあり、将棋ファンが宿泊しに来たら、館内を歩いて回るだけでも楽しいだろう。

そもそもなぜ高級旅館の陣屋で庶民的な料理のカレーが名物になったのだろう。

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四代目女将の宮崎知子さん(写真上)が語る。

「母(先代)からは、米長先生がカレーをリクエストされたのがきっかけだったと聞いております。当時はご提供しておらず、母が自分で作ったそうです」

米長先生とは、日本将棋連盟元会長の米長邦雄永世棋聖のこと。

www.shogi.or.jp

現役時代は名人をはじめタイトルを合計19期に渡って獲得した大棋士だ。特に棋聖位は通算7期獲得し、永世棋聖の称号を得ている。メディアにもよく登場し、将棋界と外の世界をつなげる人物だった。

囲碁・将棋のタイトル戦では多くの関係者が来場する。また、対局は何時に終わるという保証がなく提供のタイミングなどが難しいこと、対局日の昼休憩は1時間しかないため、

「手早く召し上がれてお腹のもちが良いもの」

として定着していったそう。タイトル戦の日には来館する関係者の2.5倍分ほどの量のカレーが平らげられるとのこと。

その後、宿泊客などからの問い合わせも多く、ルームサービスとしてメニュー化。現在は厨房の料理人が作って提供しているそうな。

そんなお話を聞いて、いよいよ噂の陣屋カレーとご対面だ。ワクワクがとまらない。

 

伝説の陣屋カレー、その味わいは……

ルームサービスでご提供くださるとのことで、「菊の間」でカレーを頂くことに。

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畳からは、い草の安心できる香りが。そして障子越しに聞こえる水のせせらぎの音。日常的な食べ物であるカレーを食べに来たとは思えない非日常の空間だ。

床の間がある畳の部屋に重厚感のあるテーブルと椅子が置かれ、着席を促されカレーを待つ。

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待つことしばし、登場したのが、この陣屋カレーだ(写真上、30食限定2,000円、宿泊客のみに提供)。

通常はビーフカレー。主催者との要望に応えてチキンカレーを用意することもあるそうだ。

白い平皿に盛られたご飯。カレーソースポットに溢れんばかりに注がれたビーフカレーからは肉や野菜が見え隠れする。そして何種類もある薬味やトッピング。普段の僕なら薬味やトッピングだけでご飯をお代わりしてしまうのではないだろうか。

そこに、こんなカレーが付いているだなんて!

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なにか奇をてらった作りをしているわけではない。しかし、

「タマネギを飴色になるまで炒めた上で、その日、他のメニューで使われる食材から適したものをチョイスして具材としています」(宮崎さん)

ということで、食材の贅沢さ、作り方の丁寧さは抜群。ちなみにタイトル戦の際にはタマネギを100個以上は使うとのこと。大仕事だ。

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やや辛目に仕上がったルーはとろみと奥底に甘味を感じる。これはタマネギのものだろうか。

ポットに入っているときにはよく分からなかったが、ご飯にかけてみて激しく主張し始めたのは、ゴロリとした牛肉の塊。これがいくつも入っている。

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肉を口に含んでみる。

スプーンですくったときよりも大きく感じる肉塊が口の中に満ちる。脂少なめで柔らかな食感は肉質の良さを感じさせ、秘伝のスパイスを使った甘味あるルーとの組み合わせは満足度が高い。

牛肉を食べている実感がひと噛みごとに伝わってくる一品だ。

 

トッピングも神レベルだった

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次に薬味・トッピングを見てみよう。

左上から時計回りに半熟卵、レンコンチップ、オニオンチップ、チーズ、福神漬け、らっきょう、そして中央がにんにくチップだ。

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目を引くのは半熟卵。この半熟具合が絶妙だった。

黄身が流れ出るようなことはないのだが、とはいえまったく固まっていない。白身は黄身より固いのに、でも殻を割ったら手で持つことはできないだろう、というレベルで柔らかい。

これをスプーンですくうと、こぼれないのだ。

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レンコンチップはカリカリで、奥歯で噛んだときのパリパリとした響きが口内を駆け巡るのが気持ちよい。カレーの薬味としてだけでなく、箸休め(スプーン休め?)として食べるのもアリな一品。

オニオンチップの歯触りはサクサクとしていて、熱を通したタマネギ特有の香りで思わず深呼吸をしてしまう。

このような一手間も二手間もかかった薬味・トッピングが用意されているのも陣屋カレーの特徴の一つだろう。

存在感の強いチーズをかけるタイミングは後半か、ご飯をお代わりした後が良い、など、経験値が高まるにつれて食べ方の工夫もいろいろとできそうだ。

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このカレー、食べ始めると止まらない。

少し固めに炊き上げたご飯は、タマネギの甘味を活かしたスパイシーなカレーとの相性も絶妙。

これを日常的に食べられれば囲碁や将棋が二段くらい強くなること間違いなしだ。

 

タイトル戦にふさわしい歴史と風格

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▲立派な庭園もあり、散策するだけでも楽しい敷地内

 

陣屋の敷地は鎌倉時代の侍所別当(さむらいどころべっとう=軍事・警察の組織の長官)であった和田義盛の陣地だった土地。旅館としては大正7年に三井財閥の別荘として始まった。

将棋の対局が初めて行われたのは大正15年と言われ、現在の名前になったのは戦後とのことだ。

囲碁や将棋のタイトル戦の舞台になったのは300回を超える。

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昭和27年に行われた将棋の第1期王将戦で、ファンには有名な「陣屋事件」が起こった。升田幸三元名人(当時は八段)が陣屋での対局を拒否し、一時は1年間の対局停止処分と第1期王将位の剥奪が決定(後に処分取消し)する事件だ。

写真の色紙はその後に升田元名人が来館した折に執筆いただいたものだとのこと。将棋の歴史がうかがい知れるようでとても興味深い。

 

将棋のタイトル戦では、陣屋は第6局・第7局といった終盤戦の舞台になることが多い印象だ。

現代の7番勝負では、どちらかが4連勝や4勝1敗という星取りになると第6局・第7局は行われない。逆に第6局・第7局は途中に引き分けが無い限り、必ず少なくともどちらかは3勝し、タイトル獲得に王手をかけた状態での戦いになる。

二度の持将棋(引き分け)があったために第9局までもつれ込んだ2020年の第5期叡王戦では、第6局開始時点で双方2勝2敗2持将棋となり、7番では決着がつかないことが確定した。いよいよ決着するかもしれない第8局の舞台として陣屋が選ばれている。

対局が行われない(何十人もの利用がキャンセルになる)かもしれないという融通が利き、対局が行われるならばタイトルが懸かる大一番となるのは、主催者と陣屋の信頼関係があり、クライマックスにふさわしい品格がなせる技だ。

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タイトル戦が行われる松風の間も見学。ここは一般客も宿泊できる。

松風の間は、明治天皇が宿泊するための客室だった。黒田藩が大磯に建てたものを移築したという。歴史ある部屋に宿泊できるのも陣屋の醍醐味だろう。

気品と風格漂う空間。将棋界を代表する羽生善治九段はこの部屋で、昭和の大棋士と呼ばれた大山康晴十五世名人が持つ通算タイトル獲得数80期という大記録に並んだ。自分も将棋ファンだからか、足を踏み入れたただけでずっしりとした空気を感じた。

 

新時代を迎える棋界でも輝く名物メニュー

囲碁・将棋界(棋界)は新しい時代を迎えている。

特に、将棋の様々な最年少記録を塗り替え続けてきた藤井聡太王位・棋聖は、ついに最年少で二冠王・八段昇段した。2020年9月14日・15日には藤井棋聖が木村一基王位に挑戦していた王位戦の第6局で、陣屋での対局が予定されていた。7番勝負の第6局だったため、4勝0敗のストレート決着となったこの期の王位戦では、藤井二冠の陣屋登場は実現しなかった。

「藤井先生が挑戦されたら、メディアもファンの方もこれまでとは大きく異なるでしょう。その中で先生方にも対局に集中していただけるよう、私どもも新たなチャレンジが必要になりますね」(宮崎さん)

囲碁でも平成元年生まれの井山裕太四冠を追うのが平成9年生まれの一力遼碁聖、平成11年生まれの芝野虎丸王座・十段と世代闘争全体が若返っている。中邑菫初段が10歳0ヶ月でプロ入りしたことも話題になった。

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しかし、どんな棋士や関係者も、そして棋界のファンである宿泊客も、陣屋を訪れたらカレーが食べたくなるだろう。

歴史ある高級旅館で食べる、庶民的でありながらも素材も手間暇もかけたカレー。

陣屋カレーは棋界グルメの名人位に君臨し続けている。

 

※当記事は緊急事態宣言以前の2020年3月に取材しました。なお、旅館や棋士に関する情報は2020年9月時点のものです

 

店舗情報

陣屋

住所:神奈川県秦野市鶴巻北2-8-24
電話番号:0463-77-1300
電話受付時間:9:00〜18:00
定休日:なし

www.hotpepper.jp

 

書いた人:奥野大児

奥野大児

馴染んだ店で裏メニューを頂けるのが至高と思っている呑兵衛ライターでブロガー。店主と仲良くなるのが得意らしい。グルメ、旅、歴史、IT、スマホなどなど多ジャンルで書きます。

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