▲写真集『ROMÂNTICO』より
「生きている」と胸を張って言えますか
すごい写真集を見つけてしまった。
タイトルは「ROMÂNTICO」。ポルトガル語で「ホマンチコ」と読む。日本語に訳すと「劇的」「ロマンティック」という意味だ。
撮影は伊藤大輔さん。TBSのテレビ番組『クレージージャーニー』にも登場したので、ご存じの読者もいるかもしれない。
東京での会社員生活を捨て海外へ。
劇的な人の生きざまを追い求めて、足掛け15年間を費やして作られたこの本は、リオデジャネイロのファヴェーラ(ブラジルでのスラムや貧民街を指す言葉)、メキシコシティの娼婦、そして、キューバのボクサーたちの写真で構成されている。
▲写真集『ROMÂNTICO』より
なかでも、10年におよぶファヴェーラ生活のなかで撮られた写真には息を飲む。
市街を望む丘の上に隙間なく建てられた家々、バンダナで顔を隠し銃で武装したギャング、深夜のクラブで絶頂する若者たち。登場する誰もが発する熱、生の匂いにヤラれてしまう。
「死」を身近に感じることのできる人間だけが、その反対の「生」をより濃く生きようとするものなのかもしれない。
あとがきに記されたこの一文につかまれたのは、なにかと生ぬるい東京でふ抜けた毎日をなんとなくやり過ごしている自分自身へのいら立ちゆえだろうか。
そして、思った。濃密な生をタフに生き抜くことを求められる場所には、命を支えるメシがあるはずだと。
そこで、伊藤さんご自身のこれまでや、写真家としての活動の軌跡、ファヴェーラでの生活や食事について話をうかがってきた。
野球選手としての挫折から写真家へ
▲写真集『ROMÂNTICO』より
「食についてなんて語れるかな?」
笑いながらそう言って迎えてくれた伊藤さん。ガッチリとした体格、厚い胸板、精悍(せいかん)な顔立ち。話を進めるなかでその理由がわかってきた。
── 写真家になるまでの来歴を教えてください。
伊藤:大学までずっと野球をやってきたんです。高校は進学校で、仙台っていうと育英高校があるでしょう。育英には勝てなかったけど、いい線はいってた。それで大学は野球推薦、セレクションを受けたけど、地方のベスト8レベルじゃ全然ダメ。そこで初めて挫折感を味わったんです。浪人して入った大学で体育会野球部に入ったんだけど、合わなくて辞めて。準硬式で野球は続けたけど、中途半端な自分がずっと嫌で鬱々(うつうつ)としてました。
── 卒業後は一度就職されたのでしたね。
伊藤:野球のつながりでリース会社に就職しました。有楽町のサラリーマン。でも、会社のしきたりがダメだった。それと、働いてみて「俺はやっぱりブルーカラーだ、事務所でパソコンいじるより現場で動き回るほうが得意だ」って思ったし、野球っていう目的がなくなって心に穴が空いた状態で「なんかやらなきゃ」って思っていたんです。そんな時に、たまたまアルゼンチンに住んで写真を撮っているカメラマンを知って「こういう仕事も成り立つんだ!」と。それで入社1年目の2月に辞めてスペインに飛びました。
── それまで写真は撮っていたんですか?
伊藤:全然やったことなかったですよ。海外に行ったこともなかったし。写真をやるっていうのは会社を辞めるための口実で、今思うと何も考えてなかったですね。
── えっ! 就職氷河期ど真ん中の時期ですよね。海外旅行も写真の経験もないまま会社を辞めてスペインへって、よく振り切れましたね。
伊藤:若かったし「俺、人生でまだ野球しかやってないじゃん、もうひとつくらい試させろよ」って思ってたから。
── スペインからどうして中南米へ?
伊藤:向こうで知り合った同年代のスペイン人に興味が持てなかったんです。日本人と同じような環境で育っていて、話してることも生ぬるくて。こっちには格好つけて日本から出てきたからもう戻れないっていうプレッシャーがあるのに「お前らの恋の話なんて聞いてるヒマはない」って思いましたから。
── (笑)。
伊藤:気づいたら周囲は中南米人ばかり。狭いアパートを5人くらいでシェアして住んでいて、貧乏なんだけれど、貧乏ゆえのサバイバル術というか、楽しむ術を知っていた。たとえば、お金はなくてもギター1本あればパーティーになる。コードが正確かなんて気にせずリズムで楽しむ。そういうたくましさがいいなって思ったんです。それに、もっとぶっ飛んでるものが見たかったから。
住んでわかった「スラムで生きる」ということ
▲写真集『ROMÂNTICO』より
彼らのサバイバル力に引き込まれていった伊藤さんは、まずは1年かけて南米を1周。
続いて10カ月間中米を回り「旅で撮れる写真には限界がある、実際に住まないとダメだ」と痛感。リオデジャネイロのファベーラに腰を据えることを決める。友人の家を間借りして、ファヴェーラの作法、そこで生きるイロハを教えてもらいながら撮影を始めた。
とはいえ、スラムと聞けば「貧困」「暴力」「犯罪」といったネガティブワードが自動的に頭に浮かぶ。しかし、伊藤さんによれば、話はそう単純ではないらしい。
── でも、どうしてよりによってファヴェーラに?
伊藤:ハードルが高いから(笑)。住む前からファヴェーラの悪名高いうわさは聞いていたんです。それに、ギャングの写真を見ていても、警察の側から撮った写真は意外と……ねえ。まあ、言葉はできるようになっていたし、仲良くなれば撮れたりするんじゃないか、それをやったら価値があるんじゃないかって、簡単に考えていたんですよ。
── 実際のファヴェーラはどんな場所なんでしょう? 日本での報道を見ている限り、おいそれとは立ち入りがたい危険な地域に思えます。
伊藤:1000以上あるファヴェーラごとに危険度は違うし、状況にもよりますね。統治が行き届いている所もあれば、抗争が泥沼化している所もある。時期によっても違う。俺が住んでいた「バビロニア」というファヴェーラは、海が見える高台の快適な場所。それでも年に1回はドンパチがあるんだけれど。
── おもに撮影をされたのはリオ最大のスラムと言われる「ホシーニャ」でしたね。
伊藤:ホシーニャはけっこうやばい場所です。
── 身の危険を感じたことはあったでしょう?
伊藤:みなさんが想像するほどはないですよ。ギャングの子を日中に撮影中、ストロボの調子を試していて友達とはぐれちゃった時に、ヤツらに襟首をつかまれて、仲間が集まっている場所に引っ張って行かれて。「コイツ写真を撮ってましたけど、どうしますか?」ってボスに引き渡されたことはありましたけど。
── それは普通に怖いですよ。
伊藤:でも、何を話しているかはわかるし、自分がジャーナリストじゃないことを証明できればいいから。
── どういうことですか?
伊藤:ゴルゴ13みたいに遠くから狙うジャーナリストがいるんです。ギャングの顔は新聞社とかに売れるんですよ。でも、俺はそうじゃない。ここに住んでるし、友達の名前はこうでって冷静に受け答えしたらわかってくれて。カメラも返してくれました。
── ギャングも一生活者ですものね。
伊藤:そう。ただ、そこでビビって逃げちゃったりすると撃たれる。たとえば何も知らないドイツ人とかが来て、怖いから逃げて撃たれたとか。でも、それは当たり前ですよ。彼らからすれば「俺の顔を撮って逃げたんじゃないか?」って思うじゃないですか。俺は住んでいたからそこをわかってやっていたというか。
── 無秩序に危険な場所ではないと。
伊藤:ルールだけ守ればね。だから、みなさんが考えるほど危い所じゃない。流れ弾だけですよ。ギャングと警察の抗争とかが起きた時にたまたま外にいたらアウトっていう話で。
99%の穏やかな日常と、1%の闇
▲写真集『ROMÂNTICO』より
ファヴェーラにはそこで生きていくためのルールがある。そして、僕ら同様に穏やかな日常も。伊藤さんの話を聞いて、そのことを初めて知った。もちろん、ぼんやりと生きていけるほど安全ではないだろうけれど。
── 「ファヴェーラのルール」について教えてください。
伊藤:ギャングの居場所を警察に教えないとか、写真を撮らないとか、ファヴェーラ内で盗みはしないとか。ファヴェーラではギャングが警察としての役割も担っているんです。だから、むしろ警察の介入で余計に治安が悪くなることもある。結局撃ち合うわけだから。だったらギャングが統一してくれていたほうがいいこともあるんですよ。向こうは警察もめちゃめちゃなんで。
── 住人はどの程度貧しいのですか?
伊藤:ブラジルは格差が激しいからお金持ちから比べれば貧乏は貧乏です。でも、俺は彼らが貧しいとは思わない。ご飯が3度食べられて、餓死するレベルじゃない。時間はあるし、けっこうぜいたくな暮らしだと思いますよ。キューバとかから比べればね。それに、みんな家はある。リオの市内にホームレスはいても、ファヴェーラにはいない。そもそも、そういう人たちが家を建てて住み始めたのがファヴェーラですからね。
── 経済的に底辺の人が死に近いというわけではないんですね。
伊藤:経済力は関係ないですね。流れ弾に当たるか当たらないかの運というか。ファヴェーラにいる限りはいつどこで銃撃戦が起こるかわからない。起こった時に道にいたらっていう感じなんで、経済力は関係ないです。
── 実際に銃声を聞いた時にどう感じましたか?
伊藤:「本当に軽いノリでここまで来てしまったな」とは思いました。それまでは、危ないと言ったって死にかねないような目には合わなかったから。そのへんで銃撃戦をやっていると、友達を構っている余裕なんてないんですよ。
本能的に他人の後ろに逃げようとする。ただ、誤解して欲しくないんだけど、ファベーラの人たちの99%はいい人だし、99%の穏やかな日常はあるんです。だけど、1%の闇。それはその時に初めてわかりました。こういう所なんだって。本気でね。
貧乏人はご飯にフェイジョンをかけて食う
▲写真集『ROMÂNTICO』より
ただでさえ写真がタブーなファヴェーラにカメラを持って飛び込んだ伊藤さん。
『ROMÂNTICO』を見れば、その撮影の困難さが、部外者が気安く「わかる」と言えるレベルじゃないことが伝わってくる。伊藤さん、そしてファヴェーラの住人たちのタフな毎日を支えたのはどんな食事だったのだろう。
── ファヴェーラで始めて食べた料理を覚えていますか?
伊藤:下宿先のお母さんが作ってくれた「フェイジョン」っていう黒豆料理です。本当の家庭料理。黒豆を煮込んでご飯の上にかけて食べるんです。塩味で、ニンニクとかをガッツリ入れて。ブラジルでは、この黒豆が「強さの秘訣(ひけつ)」って言われているんですよ。貧乏人はご飯にフェイジョンをかけて食うっていう。これに肉をガッツリ入れると「フェイジョアーダ」になる。あとは野菜があって、肉が1枚でも付いていればいいっていう。
── 初めて食べた時に違和感は感じませんでしたか?
伊藤:全然。見た目の黒さに抵抗がある人はダメかもしれないけど、普通に食ってうまい。ただね、毎日食えるかっていったらどうかな? っていう話で、ファヴェーラの住人たちは毎日フェイジョンだけど、俺はそこまで好きじゃないとは思います。
── 地元の人は毎日?
伊藤:家庭の状況にもよるけれど、本当の貧乏人は毎日フェイジョンですよ。3食フェイジョン。圧力鍋で作るんですけれど、どの家でもお母さんの作り置きがあって。それを温めてご飯にかけて食べる。俺はちゃんと下宿代を払っていたから、肉が付いてきましたけど。
▲写真集『ROMÂNTICO』より
── フェイジョン以外に各家庭で食べられているものはありましたか?
伊藤:「モコトー」っていう牛のアキレス腱が入ったスープとか、あとは、「カンジカ」っていう砂糖の入った甘い雑炊みたいな料理とか。俺がいた家は、日曜はお母さんに休んでもらいたいのと、胃を休ませようっていうこともあって、それだけを食べるような家庭でした。
── 外食はどんなお店に?
伊藤:地元の定食屋さんには行きました。フェジジョンに飽きていても、お店のものはピリッとして肉も入っていてうまい。「ピメンタ」って言うんですけれど、カラシを混ぜて食べたりもする。白い豆に魚介を入れた海鮮フェイジョアダもありました。あとはシンプルに肉ですよね。肉。牛肉。
── 日本食を食べることはありましたか?
伊藤:お金がある時にはたまに。旅行者を捕まえてガイドして小銭を稼いでたんで、そういう時にごちそうになることもありました。あと、市場に行くとマグロを売っていて、ブラジル人ってトロは食べないんですよね。
だから、トロを安く切り身で譲ってもらって、ご飯を炊いて、酢飯を作って寿司にして食べてました。ブラジルは日系人がいるから醤油もスーパーに売ってましたしね。今は向こうにも寿司屋さんがあるんで、トロも赤身も値段は変わらないんですけれど。
── 日本食の食材は手に入りやすい環境なんですね。
伊藤:「SHOYU」で通用しますから。果物の柿もブラジル人に「KAKI」って言ったらそのまま通じます。日系人がブラジルで作ったんでしょうね。それと、豚肉は安いからスーパーで買ってきて食べたり。ブラジル人は、肉と言えば牛肉で、豚をあまり食べないんです。帰国して向こうの食材を懐かしく感じることがありますよ。日本で売っている肉は薄いから。
── ファヴェーラの人々の食生活全般で驚いたことはありましたか?
伊藤:貧乏人の知恵っていうか、ちゃんと料理をしておいしく食べる術を持っていますね。それと、話がズレるかもしれないけれど、日本人って酒を飲むときにちゃんぽんとかするじゃないですか。ビールから日本酒に行って、とか。日本ほどお酒の種類がないこともあるんですけれど、向こうでは二日酔いにならないように銘柄も変えない。そうすれば頭が痛くならないとわかっているから。
── なるほど。限られたお金でどれだけ健康に生活を楽しむか、その術が根づいてるんですね。
伊藤:そこはプロ並みだと思います。生活に関わるあらゆる作業にその術がある。
「自分は貧乏人だ」って認めている者の強さ
▲『ROMÂNTICO』より
「ひとつ釜の飯を食う」というおなじみの表現。
これは、同じ環境で生活すれば人は親しい関係を結べる、ということを示す慣用句だ。でも、こと異文化圏においては、そう単純にことが運ばないこともあるようだ。
── 現地の人と仲よくなるために、食事やお酒を共にしたりはしましたか?
伊藤:顔を覚えてもらうまではしましたよ。ただね、ずっと付き合っていると疲れるんです。
── どうしてでしょう?
伊藤:はっきり言うと、おごってあげないとダメなんですよ。外国人は金を持ってるからってことで。びっくりしたのは小学1年生くらいの子どもが「わたしは貧乏な階層の出だから」って普通に言うんですよ。子どもがそれを認めてる。金持ちからはもらって当たり前だと。
「アジュダ」って言うんですけれど「助けを乞う」っていう。俺もファヴェーラの住人で、彼らと同じレベルで生活しないとやっていけないのに、あらかじめこちらがお金を出す前提で話が進んでいたり。
── 同じ場所に住み、同じものを食べて、同じ目線で写真を撮ろうと思っているのに「お金を出す者/出さない者」みたいな部分で厳然とした線を引かれるのは寂しいですね。
伊藤:そんな寂しさはいくらでも味わってきましたよ。「何年一緒にいても結局はそこかよ」みたいな。内側に入れば入るほどそういう面が出てくるから、お金のことでは本当に疲れました。だから、もう1回住みたいとは思わないです。
▲写真集『ROMÂNTICO』より
── それも彼らのサバイバル術、したたかさなのかもしれないですね。極端な格差社会で自分の境遇を肯定して生き抜いて行くための戦略。
伊藤:「自分は貧乏人だ」って認めている者の強さなんだろうなって。でも、その考え方を理解するのは、日本で生まれ育つと案外難しい。フェヴェーラの住人の間にそういう線引きはないんです。
俺はファヴェーラ育ちじゃないけれど、やっぱり対等になりたいじゃないですか。人生の時間も労力も費やしているし。そう思って対等を目指して行くんだけれど、最後の最後でやっぱり、っていうね。
── 死に近いゆえに濃厚な一瞬を生きる環境では、食べ物がすごく大事なんじゃないかと思うんです。ファヴェーラの人々の生きざまと食事について、なにかつながりを感じたことはありますか? 陳腐な思いつきで恥ずかしいんですけれど、たとえば抗争前にギャングたちが食べる晩餐とか。
伊藤:わからないけど、きっとみんなお母さんのフェイジョンを食べたいんじゃないですか。
── そうですよね。「ママのパスタは世界一」じゃないけれど、母親が毎日作ってくれた手料理。フェイジョン、ソウルフードですものね。愚問でした。
伊藤:すみません。食に関してはあまり語れなくて。味にうるさかった父親への反動で、出されたものはなんでもこだわりなく「うまい」って食べるようになって。それと、お金のない時代がすごく長かったから、基本的に食えればなんでもいいって感じなんですよ。
── とんでもありません。十分にうかがえました。メシは、シンプルに「食ってうまければよし」ですよ。そこしかない。
僕らには「ホマンチコ」が足りないんじゃないか
▲『ROMÂNTICO』より
伊藤さんの写真は、淡々としていながらも、シビアな環境でタフに生きる人たちのエネルギー、温度、命のきらめきのようなものを感じさせる。そしてつい、経済的には格段に豊かであるにもかかわらず、将来を憂い、沈んだ表情をする僕ら日本人の姿を対比して浮かべてしまう。その違いがどこにあるのかについても。
── 決して恵まれていない境遇にあっても『ROMÂNTICO』に登場する彼ら彼女らのほうが、僕たち日本人よりもエネルギッシュに生きているように感じます。どうしてだと思いますか?
伊藤:やっぱり、普段から銃撃戦があって、死んでる人を身近に見ているからでしょうね。「今日を生きる」ってよく言うじゃないですか。将来のためじゃなくて、この今を生ききるみたいな。向こうではけっこうみんながそう言っていたから、当たり前のことなんでしょうけれど。
── 頭だけじゃなく、経験として、身体でそれを理解しているんでしょうね。みんな、先のことなんて考えられないだろうし。
伊藤:考えてないですよ。先が考えられないぶん、生きることがより濃くなる。この写真集ではそういうことを言いたい気持ちもあるんです。
仕事のこまごました内容や職場の人間関係にいちいち文句をこぼしたり、未来を必要以上に心配して落ち込んでいる人は、一度ブラジルに行ってホマンチコしてこいよ! って(笑)。
── (笑)。僕ら中年世代だけでなく、十代や二十代の若い子たちにのなかにも、いたずらに将来の不安を感じて、肝心の「今」をおそろかにしている人は少なくない気がします。
伊藤:ファヴェーラの男たちはけっこう自由にやっちゃってる。迷わずにそれぞれが好きなことを具体的にやる。俺はそういうシンプルな世界が見たくてブラジルに行っていた部分があります。『ROMÂNTICO』を撮ったのも、若い頃にグズグズ悩んでたことが関係しているのかも。あの時期がなければ、ここまでやっていなかったかもしれないですね。
僕らには、いや、少なくとも僕にはホマンチコが不足しているのかもしれない。
伊藤さんの話を聞いていて思った。
うまいメシを食って、好きな異性と愛し合い、笑って、泣いて、迷わずに好きなことをやる。一瞬のきらめき、絶頂さえ感じられれば、人生なんてそれでいいのかもしれない。
プロフィール
伊藤大輔(いとう・だいすけ)
1976年仙台市生まれ。明治大学卒業後、スペイン・バルセロナのIDEPで2年間写真を学ぶ。その後中南米に渡り、ブラジル・リオデジャネイロのスラム街で活動を開始し写真家となる。
書いた人:渡邊浩行
編集者、ライター。アキバ系ストリートマガジン編集長を経て独立。日本中のヤバい人やモノ、面白い現象を取材するため東へ西へ。メシ通で知ったトリの胸肉スープを毎日飲んでるおかげで、私は今日も元気です。でも、やっぱりママンの唐揚げが世界一だと思ってる。