エッセイストで書評家、食文化に関する著作の多い平松洋子さんが、先ごろ『忘れない味「食べる」をめぐる27篇』(講談社)を上梓した。
佐野洋子や吉本隆明、川上弘美といった作家たちが過去に発表した短編小説やエッセイ、詩歌、漫画などから27篇を選りすぐり、その一部を収録。いわば「食の本のダイジェスト」的な内容で、読書ガイドの要素も含んでいる。サブタイトル「食べることは生きること」にもあるように、どの話も実に味わい深く、食を通して人生そのものが見えてくるのが面白い。
「メシ通」でスタートした読書企画「食べる・らいぶらりー」。今回は、収録作品27篇の中から5作品を選び、それぞれが放つ魅力について平松さんに話をうかがった。
話す人:平松洋子(ひらまつ・ようこ)さん
エッセイスト。東京女子大学文理学部社会学科卒業。食文化や文芸を中心に執筆活動を行う。『買えない味』(筑摩書房)で第16回Bunkamuraドゥマゴ文学賞、『野蛮な読書』(集英社)で第28回講談社エッセイ賞受賞。近著に『そばですよ 立ちそばの世界』(本の雑誌社)、『食べる私』(文春文庫)など。
【1冊目】益田ミリ『マリコ、うまくいくよ』新潮社
【あらすじ】社歴2年目、12年目、20年目の、同じ職場で働く3人のマリコ。「今日も会議で意見が言えなかった」「会社用の自分に、自分がのっとられそう」「後輩は増えるけど、年上の実感ってない」……。それぞれの立場で揺れ動くマリコたちの姿を描いたお仕事漫画。
『マリコ、うまくいくよ』© 益田ミリ ©新潮社
──『忘れない味〜』に収録されている唯一の漫画作品です。作品中に出てくるちょっと毒気のあるつぶやきから、このマリコさんのことが気にかかり、親本が読みたくなりました。登場人物である三人のマリコさんは、互いに世代差を感じ「わからないわ」とイラッとしながらも言わずにガマンする。台詞と内面の落差から、三人のマリコさんそれぞれに対して「わかる、わかる」とうなずいてしまいます。そもそも、益田さんの作品を加えようとしたのはどうして?
平松さん(以下敬称略):まず漫画を一つ入れたいと思っていたんですね。益田ミリさんのこの作品は、会社という共同体の中でお互いに逃げられない、人が集団でいるときの否応のない違和感やズレなどの真情を描き出しています。いま食べ物をめぐる漫画が流行っていますが、そうしたものとはかなり違う。
──確かに違いますね。食べるという行為やその滑稽さについて描かれています。
平松:会社という組織に入って、同じ環境に身を置くことによって、一人ひとりが「似たもの」になっていく側面があるわけですよね。と同時に、同調圧力のようなものを感じることがあるかもしれないし、いろんな負の感情も生じてくる。この漫画では仕事よりもむしろ「社内の昼食時間にごはんを一緒に食べる」時間を通して、お互いがナマっぽく触れ合っている。ラストのマリコのつぶやきには、その不条理にも似た感覚が描きだされていますよね。
──確かに『忘れない味』の解説の中で、平松さんは〈会社で毎日机を並べていても、おたがいの胸中は 闇のなか。それぞれ自分を飼い慣らしながら生きている。〉〈自分を突き放さなきゃやっていられないときがある。〉と指摘されていますね。
平松:漫画の舞台は「会社」ですけれど、会社に限らず、人との距離感で最近ちょっとシンドイかなぁともやもやしている読者がそうそう! と膝を叩いたり思わずニヤリとする、そんな漫画なんじゃないかと思います。
【2冊目】吉本隆明・ハルノ宵子『開店休業』幻冬舎文庫
【あらすじ】吉本隆明が雑誌『dancyu』に連載していた食エッセイ集。父母の故郷天草の雑煮、今はなき三浦屋のレバカツ、母にねだった塩おにぎり、少年期の大好物焼き蓮根、自ら絶品と称した手製の豚ロース鍋……。食を通じて蘇る記憶はどれも鮮やかに「家族の日常」を浮かび上がらせる。あわせて長女・ハルノ宵子が愛情とユーモア溢れる筆致で晩年の父の姿をみずみずしく綴る。『忘れない味〜』に収録されているのは、吉本隆明「梅色吐息」とハルノ宵子「最後の晩餐」。
どうやら、味というものは成分の総和ではなく、また成分の強弱で決まるものでもないということが、われながら怪しいけれど、ぼんやりと未解決の宿題として残っていて、食べ物の色、味、状態には単純な因果関係を強調すべきではないという疑問が、私の食べ物に対する考察を一歩進めるかもしれないという希望を抱いている。
〜吉本隆明「梅色吐息」(『開店休業』プレジデント社に収録)より
二〇一二年一月の内科の定期健診の日、“舎弟”ガンちゃんと協力して、父としては早いお昼前に起こし、気分を守り立て病院へと連れて行った。帰宅し食欲が無いと言うので、(父が言うところの“軽め”の)『きつねどん兵衛』に、温泉卵と茹ほうれん草を入れて出したのだが、父は途中で手が震えて箸を落とした。半分ほど食べて奥の客間に寝に行ってしまった。ちょっと異常を感じてガンちゃんと顔を見合わせた。その夜から父は熱を出し、三日後には救急車で病院に運ばれた。その後二度と父は固形物を口にすることは無かった。だから父の“最後の晩餐”は『きつねどん兵衛』なのだ。
〜ハルノ宵子「最後の晩餐」(『開店休業』プレジデント社に収録)より
──吉本隆明というと、文章が難解な思想家という印象があったのですが、最後の著作となった『開店休業』は意外なほど平易な文章で読みやすい。さらに、漫画家で長女のハルノさんが「追想」というかたちで、吉本さんの食べ物に関するエッセイの一つひとつに娘の視点で文章を寄せています。平松さんは今回、この『開店休業』の中から、吉本さんの絶筆となった最後の一篇と、対をなすハルノさんの文章を選ばれていますね。
平松:わたしは、吉本さんがこの文章を「dancyu」に連載されていたときから読んでいたんですが、そのときからご自身がすでに目の状態がよくなくて、生原稿(自筆の原稿)を解読するのが大変だったようです。ハルノさんにお会いしたときに「担当編集者はあの父の原稿をよく解読できたものだ」と感心していらしゃいました。
──最後まで手書きの原稿だったんですね。
平松:はい。この本は、食をテーマに据えた吉本隆明が自分の記憶を通して、人間はどのようにして成り立っているんだろうかと思索しつづけた足跡そのものなんですよね。自分の身体性から離れないという意思表明を感じます。
──対して、長女のハルノさんは20年近くにわたってお母さんの介護もしてこられました。家では一階にお父さん、二階にお母さんが暮らしていて、生活時間は逆転しているし、親子生活のリアルな部分も垣間見られます。
平松:ずっと両親を間近に見てきたハルノさんの文章には、家族でしかありえない時間のやりとりが一つひとつにありますよね。どれを抜き出そうか迷いましたが、吉本さんが最後まで書かれた集約の重みを考えると、やはり最後の一篇だなと。
──父の書いたものに対して、娘が補足する。合作という形式になっていて、記憶のズレとかがかえっておもしろい。
平松:父娘の合作であり、思想家と漫画家の合作でもあるわけですが、介護される側とする側の関係など、いろんなものが交錯している一冊ですよね。父親の書いたものから触発された心情や、父の記憶ではこう書いているけれども事実はこうではなかったという微妙な違和感も含めて、時間の押し引きが独自なものを生み出している。憎まざるユーモアが漂っているうえ、読み返すたびに鳥肌が立つ素晴らしさです。
──わたしが一冊の本として『開店休業』を読んでみたいと思った一番の理由は、平松さんが解説の中で〈父の仏壇に水を供えるとき、ハルノさんは氷を一個入れる。その透明感に打たれる。〉と書かれていた。その意味を知りたいと思ったということもありました。興味をもたれる読者がおられたら、ぜひ本を手にしてほしい。それはさておき一冊通して読むと、吉本さんは長年台所を担当する「主夫」ではあったけど、まったく美食家ではなかったということが意外でした。
平松:どんなものにも必ず「味の素」をかけて、真っ白にしてしまう(笑)。晩年は目が弱っていらしたとのことですが、それをハルノさんは「ああ」と思いながら、忍耐強く見守っている。吉本さんはとにかく揚げ物が好物で、もともと吉本さんが食事当番をするようになったのは、いくら気遣っても食生活を改めない夫にあきれて「もうつくらない」と奥さまが家事放棄したからなんですよね。
──その経緯、本に出てきますね。
平松:ええ。夫の体調を慮って献立とか考えていたのに、吉本さんはすごく揚げ物が好きで、外で一人隠れて食べていた。レシートが出てきたら、鳥のから揚げだとかずらずら並んでいて、信じられないくらいのカロリー数だったという。
──思想の巨人というパブリックイメージとは別の人間臭い面が窺い知れる逸話です。一方で、食を思想的に捉えようともしている面もうかがえます。〈思想家、吉本隆明は、味というものは感覚的、総合的なもの、だからいちばんわかりにくくむずかしいとかんがえた。最後まで食べ物を手放さなかったのは、食べ物がみずからの思考を揺さぶり、その先へと推し進める手立てと位置づけていたからではないか〉と平松さんは記されています。
平松:本書で表される吉本さんの思考の軌跡や人間味の手触りから学ぶこと、教わることがとても多かったんです。これ以外にも食に関する著作があり、機会があったらそれも読んでほしいですね。
【3冊目】中島京子『妻が椎茸だったころ』講談社文庫
【あらすじ】 亡き妻の残したレシピをもとに、椎茸と格闘する泰平は料理教室へ通うことに。先立たれた男の気持ちを少しユーモラスに切なく綴る表題作ほか、5つの短編集。泉鏡花賞受賞作。
──亡くなった妻は、前世では「自分は椎茸だった」とレシピ帖に書き残していました。夫は当初、何をいっているのかと思いながらも台所に立ち続けるうちに、少しずつ妻のことを理解していく。涙腺を刺激する作品です。
平松:生きているときには互いに知り得なかった部分を、料理を通して夫婦の深い領域に触れています。でも、すごくシュール。たとえば、夫が料理教室の先生に「妻は、椎茸だったことがあるそうなんです」と言うところ。なぜそんなとっぴなことを言うんだろうと自分で不思議がる夫に、先生は驚きもせず受け入れ「自分にもジュンサイだった記憶がある」と、遠い昔をたどるようにその光景を話し始めます。すごい会話ですよね(笑)。
──これはいったい、どういう展開になるのだろうと思いました。
平松:わたしも海に行ったら、200年くらい前は貝だったんじゃないかしらと感じたことがあるから、そんなにとっぴなことだと思わないんです。ないですか? 理屈を超えて説明できないもの、でも確かなものってあるんですよね。
──まさに小説でしか表現できない、ニュアンスなのかもしれませんね。
平松:主人公の夫が先生に「またいつかお会いできますか」と聞くと、「一期一会ですから」。一度きりですと、ぴしゃりと受け返す。なのに、その言葉のなかには「またどこかでお会いできるかも」と含みが残されているんですよね。中島京子さんの魔法です。
全部で三冊。驚くほど昔のものは見当たらなかったが、十年ほど前のものは見つかった。もしかしたら、娘が家を出て、二人暮らしになったころから、書き始めたのかもしれない。そもそもの初めから、ノートはレシピだったり、愚痴だったり、自慢だったりした。食べたことのあるものと、ないものがあったが、むしろ食べたことのないものに興味が湧いた。そこに、泰平の知らない妻がいるような気がしたからだ。生きていた頃に知っておけばよかった妻、でももう知ることのできない妻、妻自身が秘密にしておきたかった妻、それらがゆっくりと立ち上がる気がした。
〜「妻が椎茸だったころ」(講談社文庫)より
──ミステリアスで妖しげで、その真意を主人公とともにしばらく考えてしまいます。
平松:人類が死に絶えてしまったとき、椎茸がそっと生えていて、その近くにはジュンサイがいる。作品を読むと、そんな場面が浮かんできます。現世を超えたところに人間を集約させていくというか。生とか死とか、家族といった枠組も解体してみせる。これは小説ならではの試みだと思います。それで、何回読んでも最後のところで感極まってしまう。音も何もないところで、人が菌類になって風に揺れている景色が目に浮かぶんですよね。
──それにしても、厨房に立つことがなかった男が料理家の女性に手ほどきされながら、ちらし寿司を作っていくのを読むうち、今晩は「これだな」と思っちゃうほど、料理自体にもそそられますよ。
平松:そこも魅力ですよね。中島さんのこの小説は、料理を普段ぜんぜん作らないという男性が読んでも引き込まれるのではないでしょうか。
【4冊目】高橋久美子『いっぴき』ちくま文庫
【概要】元チャットモンチーで、文筆家の高橋久美子によるエッセイや短編小説、寄稿文などをまとめた1冊。日常の何気ない出来事や心の機微が、ときに静謐で、ときにみずみずしい文体で語られる。
──今回『忘れない味〜』に収録されている「仲間」は、若い夫婦の日常や結婚式をどうしたかを綴ったエッセイです。ふたりはともに自宅で仕事しながら妻は深夜に仕事し、夫は早朝から台所に立つ。料理好きな夫はシンクをピカピカにするのも好きで、彼女は彼のことをミステリアスだと思いながらそれをヨシとして暮らしている。自伝的な内容だと思いますが、その絶妙な距離感に惹かれます。
平松:たとえばワインに対して、ダンナさんはワインセラーを持つくらいこだわりが大きいんだけど、妻はそうでもない。おたがい侵食しあわず、関係を大事にしよう。そういうことを声高にならないトーンであらわしていて、ああ、いい夫婦だなぁって。たとえば、夫婦が食事する際、同じ空間を共有しているから食べるものも同じでなきゃいけないとは限らないでしょ。おたがい仕事をもっていたら疲れ具合とかも違うし、食卓を別にすることがあってもおかしくはないと思うんです。
──たしかに。ここでは「食事は妻(女性)がつくるもの」という感覚もない。かといって「役割分担」でやっているわけでもない。「好きだから(料理やシンクの掃除を)やっている」というのが伝わってきて、若い人には共感度も高い気がします。あと、結婚式をする/しないという話から、招待客のテーブルには夏みかんを飾ろう(高橋さんの実家は愛媛の農家)と準備していく様子がすごくいいんですね。
式の途中、花束贈呈に甥と姪が持ってきてくれたのは野菜の花束だった。実家の畑の野菜があまりに綺麗だから花束にしたいと母が愛媛から作って持ってきてくれたものだ。アスパラの花や、にんにくの芽、レタス、ブロッコリー、ミニトマトや菜の花なんかも刺さってそれは生命力に溢れた美しい花束だった。二次会でどんどん皆に食べられて、次の日にはすっかりなくなった。
〜「仲間」(『いっぴき』ちくま文庫に収録)より
平松:食べることは生活そのものだから、育ってきた環境だとか、家族との関係、両親の仲はどうだったのかも見えてくる場だと思うんですよね。結婚式って「永遠を誓いますか?」「はい」と関係を規定することからスタートすることが“常識”になっているけれど、そうではなくて、ふたりで「行けるところまで行こうよ」というユルさが気持ちいい。
──その代わり、たがいに1行ずつ詩を読み上げることを提案する。嫌がる彼を説得しての本番の場面がいいです。
平松:同じ方向を向きながら、どうやったら楽にやっていけるかを調整しあっているのかな。一緒に探り合う関係がいいですよね。風通しの良い人間関係を築くためのヒントがたくさん詰まっていると思いました。
──ところで平松さんは高橋さんという作家の存在を知っておられたんですか? 実は私、チャットモンチーというバンドの存在すら知らなくて。
平松:わたしは『いっぴき』の文庫本で知ったんですね。素敵な文章を書く方だなぁと思って、新たな出会いがうれしかったです。この本を勧めるとするなら、これから結婚する人や、結婚を迷っている人、結婚生活に戸惑っている人でしょうか。そうか、これでいいのかと思えたら、いろいろ楽になるんじゃないかなと思います。
【5冊目】平松洋子「黒曜石」橙書店
【概要】熊本市にある橙書店が発行する文芸誌「アルテリ 二号」に収録された随筆文。平松氏がシカ猟に同行したときの模様が描かれており、冒頭では喉を撃ち抜かれて倒れたメスシカに近寄っていく張り詰めた場面から始まる。
狩猟の現場に同行するのを望んだのは、そもそも私自身だった。これまで何度もクマやイノシシの狩猟の現場に居合わせたことはあったが、山に入る第一歩からすべての行動をともにしたいと願ったのである。当初の出発点はシカ肉を食べることだったが、野生のシカ肉を食べるなら獲るところ、獲るなら自分の足で歩いて会うところから始めたい。労苦や対価の話ではなく、野生の肉を食べる行為は、ほんらい歩く行為と結びついていなければフェアではないという思いが、私にはあった。自覚的に野生のなかへ身を投じて、野生に生きる動物と何らかの関係を結ぶ資格を得たいのだ。
〜「黒曜石」(橙書店)より
──これまで狩りのドキュメンタリーとかは見たり読んだりしましたが、この一篇が刺激的なのは、市井の生活者の目線で追いかけ、見ていること。独特の緊張感が伝わってきて、ドキドキしました。猟師たちの背中を追いかけながら、頭の中がフル回転している。同時に、改めて「肉を食べること」の意味を考えさせられました。
平松:ひとことで「肉」といっても、畜産された肉、野生の肉、その意味は大きく違います。そのことについて考えを巡らせて書いた一篇です。
──1頭のシカを射止めるまで、半日くらいひたすらついていかれますよね。
平松:あのときは7時間くらい山中を歩いたんですが、けっこうツラかったですね。猟師や獲物と一定の距離をとりながらついていくというのは想像以上に難しくて。もちろん音を立ててはいけないし。気配を消さなきゃならない。
──狩りの最中は何を考えているんですか?
平松:考えるというより、獣の気配に集中して、ひたすらそれを感じとろうとしていますね。周囲を見ながら、さっき下の方にいたときには笹が食べられた痕跡があったけど、こっちの方はまだ食べられた形跡がない。ということは、この周辺にいるかもしれない、とか。四六時中、気が抜けません。
──日常生活では経験しないことですね。
平松:猟師さんたちに、まず迷惑をかけてはいけないというのがありました。鴨猟に同行したときは、前もって「匂いのするものは厳禁、シャンプーなどはしないで来てほしい」と言われました。猟師さんたちは、わたしたちの何十倍もの経験値を総動員しながら動いているわけですが、ずっと神経を研ぎ澄ましていると素人なりに「現れそうだな」という気配が感じられることもありました。
『忘れない味』には、佐野洋子、伊藤比呂美、野呂邦暢、林芙美子、町田康、吉村昭、南伸坊、川上弘美らの作品が収録されている。
どこから読んでもいい。読めば、さらに深く味わいたくなる読書の手引きでもある。
書いた人:朝山実(あさやま・じつ)
1956年、兵庫県生まれ。インタビューライター。地質調査員、書店員などを経て現職。人ものルポと本関係をフィルードに執筆。著書に『イッセー尾形の人生コーチング』(日経BP社)、 『アフター・ザ・レッド 連合赤軍兵士たちの40年』(角川書店)、『父の戒名をつけてみました』『お弔いの現場人 ルポ葬儀とその周辺を見にいく』(中央公論新社)など。「弔い」周辺のインディーズを取材中。帰阪すると墓参りは欠かしても「きつねうどん」と「たこ焼き」を食べにいく。