小笠原の戦跡ガイド・田中善八さんが語る「硫黄島で見た忘れ得ぬ風景、口にしたもの」

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2011年、ユネスコの世界自然遺産に登録された小笠原諸島。ここは島が誕生して以来、一度も大陸と繋がることがなかったため、島の生物たちは独自の進化を遂げた。よってこの島は貴重な動植物が多いことで知られている。

多くの「メシ通」読者にとっても、スキューバダイビングやホエールウォッチングなど自然を楽しむアクティビティスポットとして連想する方が多いのではないだろうか。

しかしながら、小笠原諸島にはもうひとつの顔がある。それは戦争の遺物が多数残された、いわゆる「ダークツーリズム」のスポットであるということだ。太平洋戦争末期、激戦が繰り広げられ、多数の戦死者を出した硫黄島が小笠原諸島を構成する島のひとつであると知れば、イメージが湧いてくるかもしれない。

この島に住む田中善八さんは現在、小笠原諸島の硫黄島での遺骨発掘収集や、父島・母島で戦跡調査を長年行いながら、戦争の悲劇を繰り返さぬため「戦跡ガイド」として活動している。田中さんの話をもとに、悲惨な戦争の跡をたどりつつ、彼自身の記憶に残る食の話も聞いてみた。

 

話す人:田中善八(たなかぜんぱち)さん

田中善八さん

昭和16年1月24日、福岡県出身。中学を卒業後、各地を転々としながら仕事をし、昭和49年に初めて小笠原諸島父島へ。以来、太平洋戦争における最激戦地と言われる硫黄島での遺骨発掘収集事業や、父島、母島の戦跡調査事業に長年携わる。また、こうした経験から全国各地の戦友会の方々と交流を深め、小笠原諸島の部隊に配属された元軍人から直接聞いたエピソードをまとめ、戦争の記録として残している。一般の方を対象にした戦跡ガイドとしても活動中。

 

小笠原諸島領土返還から6年後、島へ 

田中善八さんは九州・福岡県の生まれである。東京から南へ約1000kmも離れた小笠原諸島に、いつ、どのようにしてやってきたのだろう。

 

田中さん:私は11人兄弟の末っ子として生まれました。中学校を出てから、30歳くらいまではいろんな仕事をやりましたよ。昭和40年代は仕事さえすればメシが食えた時代ですからね。居酒屋の皿洗いから、板前、洋食屋の出前。そういえば横浜鶴見で屋台を引いたりもしました。高度経済成長期、京浜工業地帯のド真ん中でしょ。活気もあって、食うのに苦労はしなかったです。鶴見造船所で手伝ってくれと言われて「はいよー」とクレーンに乗って仕事をしたこともありました。一番長いことやったのは屋台ですかねぇ。正月や縁日に成田山(千葉県)の参道で、よくラーメン作ってましたよ。

 

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日本の青春期といってもいい時代と歩んだ、田中さんの30代。

そんな田中さんの人生に転機がやってくる。昭和49年の1月に小笠原諸島の父島に初めて渡ったのだ。

 

田中さん:小笠原に行きたいと思うようになったのは、アメリカから返還された昭和43年頃ですね。歴史のページがめくられる瞬間を写真に撮りたいと思っていました。本当は1、2年早く行くつもりで予定を立てていたんですが、東京と島を結ぶ定期船の父島丸が岸壁にぶつかってドックに入った時期と重なったりして、昭和49年の1月まで待ったんです。

 

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▲現在運行している「おがさわら丸」から眺める、雄大な太平洋

 

当時の小笠原はまだまだ最果ての島という認識。東洋のガラパゴスと呼ばれる観光地になるにはまだ時期尚早だった。

 

田中さん:父島丸は貨客船なので生活物資と乗客が乗っていました。今のような観光客はいないですよ。島はようやく開発が進められていたので、山で木を切ったり、道路を作ったり、港を整備したりと、工事のために東京で集められた労働者ばかりでした。記憶があいまいだけど、昭和49年は民宿が1軒もなかったんじゃないかなぁ。ふらっと島に来た人間が宿泊できるところはなかったから、早々に帰ろうかなと思いました。

 

しかし田中さんの人生は、ある人との出会いで風向きを変える。 

 

田中さん:そんなとき、たまたま硫黄島出身の人と知り合ったんです。その方が建設会社の社長で「あんた1人ぐらい食わしていけるから、ちょっとの間でも島で仕事してみないか」と言われて。それで2週間後には硫黄島に行くと決まって、しばらく滞在することになったんです。

 

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▲小笠原島内にはこのような軍事用の壕が今もたくさん残されている

 

硫黄島で目にした激戦の爪痕

父島からさらに約280km南にある硫黄島。クリント・イーストウッド監督の有名な映画作品を引き合いに出すまでもなく、硫黄島といえば「激戦の島」というイメージを抱く人がほとんどだろう。

ここは戦時中も約1,000人が暮らしていた島だが、アメリカによる空襲で集落は焼失した。当時は本土防衛の最重要拠点とされ、島に駐留していた日本軍は、戦況が悪化し、補給物資がない中、島の地形が変わるほどの爆撃を受けながら、最後まで徹底抗戦して玉砕した。戦死者は日本側約20,000人、アメリカ側約7,000人にも及ぶ。太平洋戦争の中でも屈指の激戦地であり、悲劇に見舞われた島といっていい。

島はアメリカ占領後に日本へ返還されたが、硫黄島はその全域が海上自衛隊の航空基地となったため、民間人の入島は現在に至るまで制限されている。 

そんな硫黄島に渡った田中さんは、ある仕事で現地へ渡る。それは旧島民のご遺骨の収集作業だった。

 

田中さん:かまぼこ兵舎(断面が半円形の細長い兵舎が連なる風景)で海上自衛隊員50人ぐらい寝ているところに、私ともう1人が寝泊りして、3度の飯を食わしてもらって仕事をしました。戦争が激しくなる前に、硫黄島で埋葬され現地に残されたままになっていた旧島民のご遺骨を集め、本土に送り届ける仕事です。ボロボロになった旧島民墓地に行って墓をひっくり返すとサソリやムカデがうじゃうじゃいました。岩陰や山のへりに目をやると、お骨が転がっている、そんな状況です。ツルハシとかスコップなんか使いませんよ。掘り起こさなくてもあるんですから。落ちているのを一つひとつ拾いあげていきました。今、その場所は硫黄島島民平和記念墓地公園になっています。

 

想像以上に身に堪えたのが、硫黄島の厳しい自然環境だった。

 

田中さん:硫黄島はその名のとおり、火山ガスが噴き出しているので、場所や風向きによっては息さえまともにできません。「防毒ガスマスクをしろ」と言われれば、私なんかは必ず着けるんだけど、他の人間は息苦しいからってはずして仕事をするんです。本当はダメなんだけどね、体を壊してしまうから。

 

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▲壕の中でガイドを行う田中さん

 

生存者が敵味方を超えて再会を果たす

硫黄島での作業は、ガスマスクとゴーグルをつけて、頭にライト、手にもライトを持ち、壕に入っていく。そして白い袋にご遺骨を拾い入れる。

 

田中さん:中は暑いし、本当に大変な作業です。火山ガスが充満した壕の中を入っていくと、瀬戸物の手榴弾を持って、土の壁にもたれかかったまま白骨化した方もいました。自爆するための手榴弾だと思います。ヘルメットをかぶっていたご遺骨には頭の毛がびっしり残っていたこともありました。足の骨も手の骨もぐにゃぐにゃになって、よじれた状態で出てくるケースもあって、それはご遺体を埋められるとき、ブルドーザーで寄せ集めて埋めたからだそうです。惨いことです。悲しい気持ちになりました。実は私の兄貴も30歳になる前に北ボルネオで戦死していますから。

 

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▲当時の日本兵が使っていた陶器(父島にて撮影)。

 

田中さん:認識番号があれば、ご遺骨がどなたかわかることもあります。真鍮(しんちゅう)で作った番号が彫ってありますからね。身元が特定されたご遺骨は一旦火葬して、家族にお返しできました。でも……ほとんどは誰だかわからないですよ。

 

田中さんは、硫黄島で遺骨発掘収集の他に、自衛隊の物資や建築資材などを船から陸にあげる仕事に携わり、今から8年ほど前まで硫黄島と父島を行き来していた。そんな日々の中でどうしても忘れられない光景がある。

 

田中さん:昭和49年の6月26日に、硫黄島で戦った日米の元兵隊さんで生き残った方々が再会するという行事があったんです。再会した時は、みんな抱き合い、お互いに水を飲みあって、大泣きでした。「この野郎!」なんてののしる輩は1人もいません。対面して嬉しいっていうのは違うし、でも憎しみが湧くわけでもない。ただお互い生きてこられてよかった、って思ったように感じましたね。

 

こみあげてきたのは当事者だけじゃない。かたわらにいた田中さんも思いは同じだった。

 

田中さん:私は片腕を飛ばされた日本の守備隊の一員だった方に付き添って立ち会ったのですが、当事者じゃない自分ですら自然と涙が溢れて出てきましたね。終戦の時、私が5歳で、兄弟の上から3人が兵隊に行って、そのうちの上から2番目が戦地で亡くなっているから、兄貴が生きていたらと思うとね、胸がいっぱいになります。小笠原に来てよかったなって思うのは、遺骨を拾って誰かわからないけど内地へお連れしてあげられたことです。 

 

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▲壕の中には機関砲が。ここまでそのままの形で残っているとは、と多くの参加者が驚きを隠せないという

 

戦跡ガイドとしての使命 

現在の田中さんは、小笠原諸島の父島に残る戦跡を案内するガイドとして活動を続けている。起伏の激しい山の中を歩き、ときには急な斜面を上り下りしながら語り継ぐのは、戦時中の兵士たちが体験したであろう過酷な日々だ。

 

田中さん:戦跡ガイドをやろうと思ったのは、遺骨発掘収集での経験が大きいですが、それだけじゃなくて、戦友会の方々やそのご家族との交流も動機になっています。今、福島県の喜多方で桶屋さんをやってるおじいさんがいるんですが、その方は父島の釣浜の部隊にいたっていうんですね。話を聞くと当時のことを鮮明に思い出して事細かく教えてくれるんです。あの浜で同じ部隊の戦友とふるさとの話をしたとかね。 

 

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▲植物の生えていない尾根を歩く。ガイドとは、すなわち体力勝負の仕事に他ならない

 

さらには遺骨発掘収集での自身の体験と、戦友会の元兵隊さんたちから直接聞いたエピソードも欠かさない。

 

田中さん:「親子爆弾」っていうのがあるらしくて、1個の爆弾が落ちてくる途中に、竹とんぼみたいなのがついた小さい爆弾に分かれて、風に乗ってあちこちに無数に落ちてくる話とか、父島と兄島の潮の流れを知っていたアメリカ軍は、そこに機雷をたくさん仕掛けていった話も聞きました。その機雷がいまだに海底に転がっていて、たまに上がってくるとニュースになってますよ。気持ちが良いものではないです。 

 

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▲壕の中で大砲の説明を行う田中さん

 

どこまでも生々しい兵士目線の話だからこそ、訴えかけてくるものがある。

 

田中さん:父島の守備隊の人たちから聞いたのは、アメリカ軍の飛行機は、パイロットと目が合うほどの低空で撃ってきたそうです。こっちは弾がないのを知っていたから。日本軍としては父島より50kmほど南にある前線の母島を優先したくて、鉄砲の弾から食料から、母島の方へいっぱい送っていたから父島は手薄になっていた。アメリカ側はそのことを把握していたんでしょう。実際に母島で道路工事をやってると壕の中から、いまだに新しいキンピカの弾が、ごそっとまとまって出てくることがあるんです。後からどんどん裏付けとなる遺物が出てきて、「あぁこりゃ元兵隊さんが言ってたそのまんまだな」と。

 

そんな田中さんのガイドを目的に小笠原へ多くの日本人が訪れる。 

 

田中さん:小笠原に限ったわけじゃないけど、戦地でお父さんやおじいちゃんを亡くしたっていう家族の方がたくさん来てくれます。うちの人もこうだったのかなぁと話をされていきますね。小笠原の部隊に所属していたことがわかっていれば、どんな部隊だったかとか、番号だとかを聞けば見当がつきますから、関わりの深い場所へご案内できます。「陸軍だけど部隊が分からない」というご遺族なら陸軍の野戦病院跡地へ案内したり、海軍と言われれば海軍の慰霊碑にお参りにご案内したりね。今は父島の二見湾が一望できる大根山に陸海軍の合同慰霊碑が作られているから、そこに行くとご親族やご友人の皆さんは「来て良かった」と感謝されますね。

 

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▲田中さんのリアルな情景描写に聞き入る参加者

 

食だけは困らなかった硫黄島での日々

さて、本記事は「メシ通」だけに、食にまつわる話も田中さんに聞かねばなるまい。自身の人生を決定づけた硫黄島ではどんな食生活を送っていたのだろうか。

 

田中さん:硫黄島に滞在中、アメリカ人が近くにいたりするんだけど、言葉が通じないんですよね。一緒に食事をすると、この肉は硬いとか柔らかいとか言ってたね。伝わっているのかどうかわからないけど(笑)。キリンとか、サッポロとか、日本のビールをお土産に持っていくと、アメリカのウイスキーが2ケースも貰えることがありましたね。アメリカへの憎しみとか、そういうのはないですよ。遺骨発掘収集の仕事をアメリカ人が手伝ってくれることもあったからね。一礼してカゴを持って拾ってくれた。戦争の辛い歴史をお互いに理解したうえで、今を生きているわけですから。

 

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▲かつて参謀本部があった場所を案内

 

過酷な環境のせいか食料調達もかなり困難かと思いきや、意外に充実していたようだ。

 

田中さん:大変だったのは……ヒマなときですかね。時化(しけ)で船が硫黄島に立ち寄れないから、ただ耐えるだけなんですよ。雨風が強いから他の仕事もできないし。ただね、食事だけは困ることはなかったです。自衛隊に備蓄がしっかり用意されてるんです。米、野菜、肉、魚、だいたいのものはありました。野菜は冷凍のものがあり、キャベツ、インゲン、ピーマンなどがすぐに手に入って、味噌汁や炒め物に使っていました。

 

中には“自家菜園”を試みる強者もいたのだとか。

 

田中さん:自衛隊員の中には、宿舎の部屋で野菜を育てる人もいます。ペットボトルなんかの空き容器を縦に切って、綿を入れて、水を浸して、もやしの種をまいておくんです。ある程度育ったら、つまんでハサミで切ってそのまま食べちゃう。家の中にネットを張ってエンドウ豆を育てたりしてる人もいましたね。

 

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▲旧陸軍病院戦没者の名が刻まれた碑

 

「まだ終わってはいない」 

令和元年、御年78歳になる田中さんだが、まだまだ戦跡調査に対する意欲は失われていない。

 

田中さん:今も硫黄島に行って遺骨発掘収集を続けられていますが、父島と母島の遺骨収集は完了したということになっているんです。でも、私はどちらの島も遺骨収集と戦跡調査は終わってないと思いますね。戦友会の元兵隊さんに「戦友の○○さんは父島のあそこに埋葬したんだよ」と教えてもらっても、いざ行ってみたらジャングルになっちゃって探しようがない状態で、そのままになっていたりする。戦後、生き残って本土に復員するとき、仲間のご遺体の全部を火葬できず、手首のみ火葬して内地に持ち帰ったと言う人もいますし。つまり他のところは残ったまま、ほぼ手つかずなんです。

 

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自身いわく「やろうと思ったことは、とことんやらないと気が済まない性格」。だからこそ、戦績調査もとことんやり続けるつもりだ。

 

田中さん:必ず自分の足でジャングルに入っていって、この目で見た戦跡を地図に書きとめているんです。長いことやってるけど、今でも新しい発見があるので、そのたびに書き足しています。ときどき防衛省の防衛研究所の人とかお役所の方が確かめに来てますよ。この地図をもとに東京の人が資料としての戦跡地図を作っているんでしょう。誰かがやらなきゃいけないことだと思っています。

 

今回、小笠原で田中さんの話を伺って、あまりの情報量に圧倒されつつ、そのほとんどを知らなかった自分の至らなさが歯がゆくてたまらなかった。

小笠原諸島は、東京の竹芝桟橋から定期船の「おがさわら丸」で約24時間かかる。便数の関係上、最低でも5泊6日かけないと行けない場所だ。船代だけでも5万近く。それでも訪れる価値のある島だと強く思う。

透き通るような海と、新鮮な魚介類、絵に描いたような亜熱帯の楽園。そして、それらの底に眠る戦争の記憶。田中さんのような方々のおかげで、この島は重層的な魅力を放っているといっても過言じゃない。

 

田中さん:原爆ドームが残る広島の方々が戦跡を見たいと言って、たくさんいらっしゃるんですが、やっぱりこれだけたくさんの戦跡が残っているのは、日本全国小笠原だけなんじゃないかなと思うわけです。
確かに、小笠原諸島が世界遺産になることで観光客が増えて、戦跡ツアーガイドをやる人も増えましたよ。ただ、勉強しないで何も知らずにガイドをやるのは、島で戦死した方々、生き残った方々に失礼なことだから、今はそれが少し心配ですね。二度と戦争なんて起こしてはいけません。本当に起きたことをきちんと伝えていってくれる人が現れないと、私もまだまだやめられないなぁと感じています。

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書いた人:すずきたろう

すずきたろう

1983年生まれ。ライター。26歳のとき、某政府系金融機関を退職して、売れっ子芸人を志すも、存在していたのかどうかもわからないほどに売れず挫折。縁あってライターに。口癖は『会社では一番面白かってん!』。

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