「空爆や砲撃、地雷などの被害で手足が損傷したり、銃弾や破片物が身体に突き刺さったりした患者さんが、老若男女関係なく運ばれてきます。救急が頻発して、徹夜であたることもときにはあります」
そう話すのは国境なき医師団(略称:MSF)の手術室看護師、白川優子さんだ。
国境なき医師団は世界約70の国と地域で医療・人道援助活動を行う民間・非営利の国際団体。世界の紛争地や被災地、難民キャンプへスタッフを派遣、命の危機にある人びとに緊急医療を提供したり、貧困に苦しむ人たちに保健医療サービスを持続的に提供している。
ひとたび派遣要請があると白川さんは3、4カ月の単位で紛争地へ赴く。そして、各国から派遣されてきた外科医らとチームを組み、負傷した人たちに施す手術に取り組む。
平和な日本からは想像がつかない、過酷な紛争地で送る日常とはどんなものなのか。現地での知られざる食事情は? 大手メディアではなかなか報道される機会の少ない紛争地のリアルな現状を白川さんに語っていただいた。(フリーライター・西牟田靖)
話す人:白川優子(しらかわ ゆうこ)
埼玉県出身。国境なき医師団所属。国内外で看護師としての経験を積んだ後、2010年に国境なき医師団に参加。これまでシリア、イエメン、パレスチナ、イラク、南スーダンなどの紛争地や、ネパール大地震など自然災害の被災地に赴き、数々の医療現場に携わる。2018年6月に向かうイラクのモスルで17回目の派遣となる。7月6日には初の著書『紛争地の看護師』(小学館)が発売される。
どの患者さんから処置するのか
── まずはお仕事のことについてお聞かせ下さい。派遣される主な場所が、世界各地の紛争地とのことですが、これまでどんなところに行かれたのでしょう。
西アジアのスリランカ、パキスタン、中東のパレスチナ、シリア、イラク、イエメン、アフリカ東部の南スーダンなどです。これまでの8年間で16回派遣されています。最初に派遣されたスリランカをはじめ、派遣される国や地域は情勢不安定もしくは紛争下に置かれていることが大半です。
── 紛争地をあえて選んでいるとか、興味があってこういう仕事をされているわけでは……。
いえいえ、決してそういうわけではありません(笑)。紛争地では病院が破壊されていたり、医療関係者が避難したりして、医療が受けられない人たちがいます。そういった場所にこそ医療ニーズがあり、人道援助が必要なんです。
── 空爆や砲撃、地雷などの被害を受け、手術が必要になった方が運ばれてくるとのことですが、どんな処置をされるんですか?
銃弾や爆発時の破片を摘出したり、手足を切断したり、重傷を負った身体の処置など、状況に応じてですね。残念ではありますけど、処置が間に合わず亡くなられることもときにはあります。血だらけで一刻の猶予もない患者さんが運ばれてくればそちらを優先して処置し、深刻でない方には待っていただくこともありますね。
たくさんの人々が一気に運ばれれば、誰から処置するのか、苦渋の選択を迫られる。その順番が生死を決することもままあるからだ。
自分に足りないのは経験よりも語学力だった
── そもそも白川さんがこの団体のことを知ったきっかけはなんだったのでしょう。最初からMSFの看護師を目指していたんですか?
7歳ごろ、テレビでMSFのことを知りました。「本来、人間には国境などない」という志のもと医療を提供し続ける団体の姿勢に、憧れに似た感情を抱いたんです。それ以来、MSFで活動したいという思いをずっと持ち続けていました。
── 世の中、迷い迷って結局自分がやりたいものが見つからない人が大半ですよね。白川さんはその逆で、医療を志すより先に「MSFで仕事をしたい」という明確な目標があったと。
自分のやりたいことが早いうちにわかったという点では、確かに迷いはなかったのかもしれませんね。
── では、MSFに入るまでにどんなキャリアを積んでこられたのでしょうか。
高校を卒業し看護学校を卒業した後、日本で看護師になりました。まだ国内で経験を積んでいるときに1999年、MSFがノーベル平和賞を受賞したという報道を見て、日本の事務局に面接を受けに行ったんです。ところが、そのときは採用に至りませんでした。というのも当時の私には語学力が欠けていたんですね。そこで留学資金を貯めて30歳のとき、オーストラリアへ渡って、大学で看護学を学んだ後、現地の病院で働いて語学力を身につけて永住権を取得したんです。MSFに入ることができたのは、その後ですね。
シリアでは秘密裏に活動を行う
── 紛争地での負傷者を救おうとすれば自ずと、戦闘現場の近くに滞在し、手術を行うことになると思います。近くだと対応しやすい反面、危険にさらされることが多くなるように思えます。MSFスタッフの安全は確保されているのでしょうか。
私たち医療スタッフには、頼りになる縁の下の力持ち的なチームがついています。彼らが支えてくれるので安全が保たれていますし、食や住まいの面に関しても問題はありません。我々医療チームが医療活動に集中できるような環境作りが徹底されているということですね。
── その縁の下の力持ち的なチームというのは……。
MSF内のロジスティックやアドミンといったチームの方々です。ロジスティックは、物資の調達、セキュリティ管理、病院建設、車両管理、通信、水・衛生管理を担うスタッフです。アドミンは現地採用のスタッフの雇用を担当するという人事や経理・総務を担当します。彼らあっての医療活動なので、絶対に欠かせない存在ですね。
── とはいえ、どんなに安全な場所にいても「絶対」はないのが戦争の怖さです。
確かに、ライフルを突きつけられそうになったり、そばで空爆があったりといったことはありますよ。シリアでは、シリア政府から自国内での医療活動の認可を得られなかったため、民家に隠れたり、洞窟の中などで医療活動に及んでいました。
── シリアといえば、それまでの平和だった国情がまるでウソのように2011年以後は血で血を洗うような殺りくが行われています。そんな中、イスラム国(IS)という過激派が急速に勢力を伸ばしました。シリア国内の惨状は報道で知るところですが、実際ラッカへ行ってみて何が大変だったと感じましたか。
シリアには4回派遣されました。2017年にはイスラム国(以下IS)が本拠地と称したラッカに行きました。ISに支配されたラッカ市民は逃れようとしてもなかなか市外へ逃れられなかった。というのも要所要所に地雷がしかけてあったからなんですね。
そんな中、地雷や空爆の被害を受けた一般市民が毎日毎日、ひどい状態で運ばれてきました。これまでどんなときも「日本に帰りたい」と思ったことはなかったんですが、ひっきりなしに運ばれてくる患者さんと、止まることのない手術室の忙しさにさすがに心が折れそうになりました。ここまで追い込まれたのはかつてありませんでしたし。
ただ、そのときに思ったんです。「私には帰国日が設定されているけど、現地のシリア人医療スタッフにはない」って。実際、自国が紛争状態でも毎日毎日シフト通り出勤してくる。あえてとどまって医療活動を続けている彼らの姿を見て、逃げずにやり通さなければならないと強く思いました。
▲2017年のシリア、ラッカにて。写真は白川さんがミッションを終え、帰国する直前に撮影されたときのもの。それまで忙しすぎて、こんな風になごやかに食事を取ることすら出来なかったという
── ネットではISの蛮行が報じられ始めていましたが、現地ではどういう受け止め方だったのでしょう。
ネット上では「イスラム国強硬支配」「斬首」「手を切る」といった言葉を見かけて知っていましたが、具体的な実情までは把握できていなかったと思います。でも、それはほんの数キロ先で、私たちが活動しているのと同時に起こっていたことなんです。
メンタルを保つ秘訣(ひけつ)は「ためこまないこと」
ところで白川さんご自身は、派遣先の過酷な経験談とは裏腹に、人を包み込むような柔らかい笑顔の持ち主だ。語り口も軽やかだし、冗談も嫌いではない雰囲気。おごりや尊大さなどはみじんも感じさせない。
この笑顔が紛争で傷ついた人たちを安堵(あんど)させるのかもしれない。
── アフリカの南スーダンも大変だったようですね。この国は2011年に独立を果たしますが、南北スーダンの間で国境争いが続いたり、国内での内戦が激化したりしています。派遣された日本の自衛隊の問題などが議論されていますが、南スーダンの実情自体が報道されるケースはあまりありません。
私が派遣されたのは2014年、首都のジュバから北に約650キロ離れた、スーダンとの国境近くの街、マラカルです。大きな戦闘があった後に2台の4輪駆動車に分乗して、マラカルの市街地へと出発するというとき、他の援助機関はちゅうちょしていたんです。しかし、私たちはチームのリーダーが行くと決めたからには迷いはありませんでした。2台に分乗して出かけたのは、攻撃されて全滅してしまうことを防ぐためです。
ただ、実際行ってみると街の状況は我々の想像を超えていました。数日前までは15万人の都市だったマラカルが、私たちが訪れたときにはゴーストタウンとなって、路上には無残な死体が転がっていて、犬や鳥が群がっていて……。
── たくさんの遺体を目の当たりにして、さぞや無力感があったかと察します。しかも、自分にも身の危険がある。こんな状況で正常な精神を保つのが難しいですよね。なにかメンタルを保つ術は?
素人レベルですが、ヨガをやっています。私、そのときどきで素直に感情を出すタイプなので、そもそもストレス自体がたまらないのかもしれません。
── 感情を出すからストレスがたまらない?
はい。というのも私、しゃべるのが好きだから、良いことも悪いことも全部ワーッとしゃべって発散しているようなところがあって、決してためこんだりはしないんですよ。うれしいときは喜ぶ、面白いときは思いっきり笑う、悲しいときは泣く。もちろん、愚痴りたいときは思い切り愚痴る(笑)。
── 感情を吐露するにも、受け止めてくれる相手が必要ですよね。
そうですね。仕事のときは一緒に活動している海外派遣スタッフたちを捕まえて、おしゃべりをするんです。彼らの存在は大きいですよ。私もそうですけど、自分たちの国で医療をしていればいいのに同じ思いを抱いてわざわざ紛争地までやってきて、危険な中、熱意を持って活動している。同じゴールや理想を持ってやっていますからチームの絆って大きいし、強い。だから現地の状況が過酷でも、そんな簡単には心は折れないんです。
▲束の間の食事タイムは貴重な時間。ちなみに、手で食べるのが当たり前の国ではもちろん手を使う。慣れるとスプーンなんかで食べたくなくなるんだそうだ
飽きてきたら日本食「もどき」を……
── では、ここで食についてお聞きさせてください。MSFは医療を提供する団体とのことですが、患者さんたちに食事を提供することってあるんですか?
あまり知られていないことなんですが、実はMSFはどんなプロジェクトでも、患者さんに医療と同時に食事を提供することもあります。着の身着のままで命からがら逃げてきた人たちが十分な食料を持っていることは少ないですから。
── 私もそこは知りませんでしたが、医療と食はとてもリンクしていますよね。では現地で、どんな食べ物をどのような方法で提供しているんでしょう。
MSFが現地で雇用した調理人が、朝昼晩と、患者さんの食事を作っています。ぜいたくなものはできないかもしれないけど、なるべく栄養面と味に配慮して作っていますね。例えばアフリカの南スーダンだったら、キヌアのようなつぶつぶした茶色いタネのようなものに、葉ものをのせて彩りを加えた料理を作っていました。
そのほか、栄養治療食といって、ハイカロリーなピーナッツのペースト状のものを栄養失調の子どもなどに食べさせることもあります。普通の食事でお腹いっぱいにさせるよりも、まずはそれだけを食べさせて、体力の回復を図るんです。栄養失調というのは病気なので、これは食事というよりは治療ですが。
▲MSF日本事務局に展示されている栄養治療食
── ご自身の食はどうなっているのでしょう。医療スタッフ側の栄養面もきちんと管理しないと、本末転倒になってしまいがちですよね。
病院の調理スタッフとは別に、私たちスタッフ向けには宿舎付の調理スタッフが食事を作ってくれます。現地の方が作るので、当然ながら食事内容は地域によって全然違いますね。それに、我々医療スタッフ側の事情もあります。というのも、ホントに多国籍チームなので、「野菜しか食べられない」「宗教上●●肉だけはNG」「▲▲アレルギーが」みたいに、各々ホントに事情があるんですよ!
それでも、ありがたいことに現地の調理スタッフは結構メニューを工夫してくれるんです。主食を、米とパンとそれぞれ作り分けたりしてくれたりとか。ときには欧米人を喜ばせようとピザに見立てた料理を作ってくれたり、その国の文化にはないような食事を出してくれるんです。その心意気が素晴らしいから、細かいことなんて全然気にしません。
▲2015年、イエメンにて。手術室の外科スタッフが食事会をしたときのもの。どれもカレー風に煮込んだ味付けで美味だった
── なるほど、それは助かりますね。でも、いくら心のこもった食事とはいえ飽きてきたり、日本食が恋しくなったりするのでは。
おっしゃるとおりです。同じメニューが続いて飽きてくるのか、違うものを食べたいと思うことがどうしてもありますね。そんなときのために、日本から持ってきたスティックのかつおだしやふりかけの「ゆかり」を使って、現地で調達したキュウリで漬物もどきを作ったり、寿司もどきを他国のスタッフに頼まれて作ったりするんです。「もどき料理」、工夫してけっこう楽しく食べていますよ。
あと私はラーメンが大好きなので、以前はカップ麺を3つほど持ち込んで、たまに食べたりしていましたが、1つ食べるごとに「あと1カ月は食べられないなー」と思って、残りの2個が気になってしまうので(笑)、さすがに持って行くのはやめました。隠れて自分だけ食べるのも申し訳ないですしね。
── スタッフの皆さんと一緒に食事されるんですか?
食べられるときは一緒に食べますが、私たち医療チームは常に緊急オペで呼び出される可能性がありますので、なかなか一緒には食べられないですね。
イエメンで手作りのクリスマスパーティーをやったときは申し訳ないことをしました。ロジスティックチームを夜の11時まで散々待たせたのに、食べ始めたら、また手術室に呼ばれてしまって。「ごめんなさい、行かなくちゃ」と言って会場から抜けるしかありませんでした。
▲2016年、イエメンにて。食料に事欠く中、現地スタッフは白川さんの送別会のためにわざわざケーキを用意してくれた
パン、ゆで卵、紅茶で1日をしのぐ
── 発展途上国では嘔吐(おうと)や下痢に悩まされがちなイメージがありますが。
初めての派遣先だったスリランカ、2回目のパキスタンのときに、少し食あたりになりましたが、その後は大丈夫ですね。非衛生的な水に腸が慣れたからだと聞きましたが、本当なのかなぁ。確かにベテランになればなるほど、お腹を壊さない傾向はありますけども。
── 食料や水自体がこと欠いてしまうリスクはないんですか。
あります。2014年に南スーダンのマラカルで活動したときがそうでした。飛行場が封鎖されて、食料や物資の定期供給が途絶えてしまった。おまけに気温は50℃以上でしょ、ストックしていた食料がみるみる傷んでいって。パンはカピカピになって、トマトも腐り始めたんです。そのとき食べられたのは、かろうじて原型をとどめていたニンジンと魚の缶詰ぐらいでしょうか。気がつけば体重が8キロほど減って40キロにまで落ちてしまっていました。
いちばん困ったのが、ストックした水が切れてしまったこと。そこで、国際赤十字がナイル川から給水した水を提供してもらったんですが、飲み水として使うことに抵抗がぬぐえませんでしたね。ロジスティックのスタッフがいくら塩素で消毒しても、透明にはならず、茶色いまんま。(給水元の)川にたくさんの遺体が流されていたと聞いていましたし。
▲南スーダンにて。これはまだストックがストックとして意味を持っていた頃。トマトもまだまだフレッシュだ
── 食事情の悪化が、そのまま国の悲惨な経済状況を表していた。
まさにそうですね。2010年代のイエメンもそうでした。当時、あの国は国家経済が破綻に近い状態で、行くたびにどんどん貧しくなっていきました。
最初は週に一回ほどは自然発生的に、現地のスタッフと車座に座って食事会をするぐらいの余裕がありました。ところが2016年になると、お昼休憩で家に行った後、何も食べずに職場に戻ってくる。そんなスタッフが目立ちました。そのころは普段の食事にしても、パンとゆで卵と空き缶に入れた紅茶だけ。思い返してみても、ギリギリの状態でした。
▲2016年のイエメン。現地スタッフはこれだけで1日をしのいでいた。奥に見える棒状のものはパン
▲2017年、手術室で現地スタッフと紅茶を空き缶で回し飲みしながらみんなで仲良く空腹を満たした。このポテト&ティータイムを白川さんが略して「PTT」と呼んだところ、スタッフの間でちょっとした流行語に。「今日もやっぱりPTT?」と仲間同士で笑いながら苦しい状況を乗り切ったという。 人間、どんな過酷な状況でもそのときなりの楽しみを見い出さないと、とてもやっていけないのだろう
たった1個のリンゴ、1杯のお茶で気持ちが救われた
── 食事もままならない中、心が殺伐となりかける中で「あのときの1食のおかげで心身ともに救われた」という思い出は?
2012年でのシリアでしょうか。私たちはシリア政府に隠れて、民家を改造した病院で医療活動をやっていました。外観の見かけは民家ですが、患者さんたちもたくさん来られます。もちろん救急車も来ます。
ここでは近隣の人たちの支えがあってこその活動だったんですよね。その証拠に、隣の家とは低い壁で隔てられていて、そこに住むおばあちゃんが、いつも私たちに無言で差し入れをしてくれたんです。リンゴのときもあるし、イチジクやザクロのときもあって、それが本当においしかった。くじけそうなときは余計にね。おばあちゃんを塀越しにお見かけしたとき、「シュクラン(ありがとう)」と言うと、照れていましたが。
▲2012年のシリア某所にて。隣の家のおばあさんが差し入れてくれたリンゴ。これがどれほど心を豊かにしてくれたことか
── そんなお話を聞いてしまうと、もう普通のリンゴの写真には見えませんね(笑)。
2015年のイエメン北部の山岳地帯を訪れたときも忘れられない思い出です。あのときはどこもかしこも空爆でやられていて、病院の周りが家を失った人たちのすみかになっていました。あのおじさんは50代ぐらいかな(写真下、中央)。私たちが診療を行っていてすごく忙しかったんですが、おじさんが真剣に手招きをするんです。ナニゴトかと思ってついて行くと、コップにおいしい紅茶を入れてくれて。やはりお国柄なんでしょうか。おじさんのもてなそうという気持ちにジーンとしましたね。よくよく話を聞いたら、サウジアラビア国境近くの村が空爆を受けてひどいことになったので避難してきたとのことでした。
▲2015年にイエメン・サウジアラビア国境近くの山岳地帯で、避難民のおじさんから思わぬ歓待を受ける。コワモテに見えて、その実メチャクチャ優しい人だった
── 戦争で故郷を追われている人たちなのに、遠くからの客人をもてなす心を忘れないんですね。そんな人たちが苦しまないような世の中になっていくことを私も祈っています。では最後に、今後の目標を教えてください。
2018年6月から約3カ月間、イラクのモスルに行ってきます。この街は2014年以降ISに支配されていたんですが、昨年、イラクの政府軍が奪還したんです。この街へ赴くのは3度目ですが、あれからなにがどう変わったのか、医療活動を行いながら、自分の目で確かめたいと考えています。
白川さんは、自身初の著書『紛争地の看護師』(小学館)を7月6日に発表する。
その本を一足先に読ませてもらい、心の深い部分を揺さぶられた。大けがをした方や手の施しようがなく亡くなったりした方、その家族たちの悲痛な叫びが、行間に込められていたからだ。
手術室看護師という立場だからこそ書けたこの本、読者の皆さんもぜひ手に取って欲しい。
白川優子さんの著作はこちら
取材協力・写真提供/国境なき医師団