骨髄移植から余命二日の宣告 ──。「ほぼ詰んだ」状態を経験したからこそ気づいた「口からモノを食べる尊さ」

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競泳日本代表の池江璃花子選手のニュースがきっかけで、骨髄バンクへの問い合わせや登録が相次ぐなど、国内ではにわかに白血病や骨髄移植に注目が集まっている。

しかし、血液の病気や、骨髄移植のリスクについてどれほどご存じだろうか。

 

【骨髄移植】
骨髄から採取した骨髄幹細胞を注入移植して造血機能の回復をはかる治療法。再生不良性貧血・白血病・原発性免疫不全症・放射線障害などに用いる。同種移植と自家移植とがあり、前者では組織適合性の一致をたしかめ、免疫抑制剤投与などで拒絶反応を防ぎ、後者では患者骨髄血を冷凍保存して用いる。(広辞苑第七版より)

 

今回お話をうかがった矢作理絵さんは経験者のひとり。「特発性再生不良性貧血」という100万人に5、6人の割合で発症する血液難病の治療のために骨髄移植を行った。

アパレル業界でフリーランスのバイヤーとして海外を飛び回っていた彼女が突然、この難病にかかってしまったのは33歳だった2011年の夏のこと。発症後は都立病院の血液内科病棟に入院、入退院を繰り返しながら4年間にも及ぶ闘病生活を送ることになる。入院中は二度にわたって死の淵をさまよった。

骨髄移植とはどんなプロセスを経て行われるのか。治療の過程で彼女はどんなものを食べてきたのか。いかに彼女は「ほぼ詰んだ」状態から生還し、日常を再び手に入れたのか。「自分なら」「家族なら」そんなif=もしもを想像しながらしばしお付き合い願いたい。(フリーライター・西牟田靖)

 

何かの役に立てれば

初対面の矢作さんは、マスクをしていなかった。担当編集者や私の雑菌を拾い、症状を重症化させることは絶対に避けねばならない。 そう思いマスクを用意していただけに、 私たちは拍子抜けした。

彼女が2016年に出した著書『ポンコツズイ 都立駒込病院血液内科病棟の4年間』(集英社)には、発症して4年間の様子が記されており「普段でも食事のとき以外は常にマスクオン」と記されていた。逆に言えば、現在それだけ彼女は回復してきているということで、私はホッとしたのだった。

ポンコツズイ 都立駒込病院 血液内科病棟の4年間

ポンコツズイ 都立駒込病院 血液内科病棟の4年間

  • 作者: 矢作理絵
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2016/01/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作さん(以下敬称略):いまはすっかり社会復帰できているせいか、本心では「病気を抱えた人」という目線で見て欲しくない部分もあるにはありますが、この本に記した闘病の事実は紛れもなく自分が生きてきた歴史の一部でもあるわけで、こんな私の話でもなにかお役に立てることがあればと思い、取材をお受けすることにしました。

 

ちなみにこの顔のアイコンは、矢作さんの友人であり、本の中にもたびたび登場する“クッキーアーティスト”COOKIEBOY氏によるもの。彼女のチャーミングな表情がクッキーで絶妙に表現されている。著書の表紙の人体図もCOOKIEBOY氏が手掛けた。

cookieboy.net

 

病名は「特発性再生不良性貧血」

矢作さんが身体の異変に気がついたのは、2011年夏のことだった。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作さん(以下敬称略):足をやさしくかいたところがアザになったり、生理が終わっているのに異常出血したり、貧血の連打に襲われたり。ベルリンへの出張中のことです。一度、帰国して翌々日にニューヨークに飛んだところ、今度は、転んで膝を打っただけで両膝に直径約10センチの紫斑ができてしまいました。これはちょっとマトモじゃないな、とやっと気づき始めたんです。

 

異変に気づいたにも関わらず、矢作さんはすぐに病院には行かなかった。忙しさから、治療を後回しにしてしまったのだ。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:時間を作ってクリニックへ飛び込んだのはその年の10月。そのとき足はすでにドット柄。採血すると皮膚の下でぶよぶよと鮮血が広がりさらに大きなあざができました。その大きさは注射針を刺したあたりを中心に直径8センチほど。診察を担当してくださった医師は症状の重篤さを察知し、すぐに紹介状を書いて下さいました。

 

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▲現在の矢作さん。平日はフルタイムで働いている

 

夕方近くになり駒込病院へタクシーで向かう。この病院の正式名称は〝がん・感染症センター都立駒込病院〟。骨髄移植の実施例が全国トップクラスの、重症患者を専門に治療する病院のうちのひとつであった。駒込病院では、採血管8本分を採血され、さらにマルク(骨髄穿刺)が実施された。矢作さんの著書によると、マルクとは次のようなものだ。

 

腰のあたりを全体的に消毒され、緑色のシートをかけられ、局所麻酔を数回打たれ、マルク針という日曜大工に使うような器具を腰の骨に押し込んでいく。(中略)(器具はギュッギュッグリグリと繰り返し)骨を抜けてブラックホールみたいなところに到達する。
(中略)
先生の声「イチ、ニッ、サン」でヒュッと骨の中から骨髄液が抜かれる。(著書『ポンコツズイ』より抜粋、以下同)

 

一連の検査後、いったんは自宅に帰って翌日出直したところ、そのまま入院。度重なる採血と骨髄採取という検査三昧の日々を経た13日目、ようやく正式な病名が判明する。

特発性再生不良性貧血──。

それは難病指定されている血液の病気だった。骨髄の中の造血幹細胞が何らかの理由で壊されてしまう自己免疫疾患で、白血病とも似て非なるもの。すでにステージ5という最重篤な状態であった。

 

ウサギの抗体が効いてくれない

治療までの間、一時的に退院となるも、彼女の生活は一変した。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:免疫力が低いので人混みは極力避けること。どうしても人前に出なきゃならないときは必ずマスクを着用。運動は極力控え、自転車もダメ。けがをして30分以上経っても血が止まらない場合は病院に電話すること。脳出血に至る場合があるので、頭は打たないように。あと食事に気を付けて、特に生ものなどの菌ものは避けるように。この病気は医療費助成の指定難病なので区に申請してください。……などもろもろ言われて。今さっきまで普通に自由に生活していたのがウソみたいでした。

 

2011年12月には「ATG療法」のため、同病院に再度入院する。ATG療法とは、動物性タンパク質(うさぎの抗体)を体内へ注入し、造血幹細胞を侵害しているリンパ球を抑制することで造血機能の回復をはかるという治療法だ。入院中は1日12時間の静注点滴を5日間続けた。治療の効果が期待できれば、血球が回復してくるはずだった。

矢作さんは外の世界にいったん戻り、治療の成果を心待ちにした。その間、大量の免疫抑制剤やステロイドの投与による副作用にも悩まされた。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:口の中に大きな口内炎が5つくらいできたりしました。とにかくなにをしても痛い。キシロカインという液体状の麻酔薬を綿棒で患部に直接塗ると、ほんの束の間の3分ぐらい口の中を麻痺させることができる。それに頼りながら食べ物や飲み物を強引に喉に押し込むんですが、薬のケミカルさが混ざってとんでもない味になるんです。それでも病院食から解き放たれ、友人と外でテーブルを囲めることがうれしく仕方なかったですね。

 

一般的に軽症度での治療効果は高く、2〜3カ月で効き目が表れると言われていた。

最重症の彼女にとってはなかなか厳しい現実だったものの、骨髄移植にまつわるリスクを考えると、医師側もATG療法の効果を期待して待ち続けた。

 

残された道は骨髄移植だけ

しかし、期待していたATG療法の効果が表れない。そんな彼女に残された選択肢は骨髄移植だった。

最初の入院から1年後の2012年10月、矢作さんは医師に寛解(かんかい)をめざすための次の治療として、骨髄移植の患者(レシピエントという)登録を提案された。

彼女に骨髄提供の意思を示したドナーがいるという報告を受けたのは、登録から5カ月後の2013年3月のことだった。人種の多い欧米とは違い、島国の日本は非血縁ドナーの合致率は高いとはいえども、なかなか見つからずに待ち続けるケースも多い。これ以上ないほどの吉報だった。

ドナー側のスケジュール調整を含め、移植は2013年4月17日と決まった。移植前準備で、約1カ月前の3月19日に再入院となった。

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▲移植手術にむけての事前検査のさなか、外泊許可を得たうえで友人たちに箱根の高級有名旅館へと連れて行ってもらった。写真はそのときにいただいた京料理

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:友人たちは先の長い入院生活をかわいそうに思ってくれたのか、「おはぎ(矢作さんのニックネーム)の最後の晩餐だからって」という感じでネタになってました。

 

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f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:とても有名な宿らしいんですけど、自分たちには格調高すぎて……。

 

いざ大一番! の前に問題発生

移植準備のために入院し、体をくまなく検査する過程でさまざまな壁にぶつかった。もともと視力2.0の右目が網膜剥離の一歩手前と診断され、加えて脳神経外科のMRIで頭頂部右側に4センチほどの影が。「脳腫瘍の疑いアリ」という、思ってもみなかった診断が相次いだ。

それだけではない。血小板減少が著しいこの病気では、生理での出血多量を防ぐためホルモン抑制剤で生理を止めることも多い。止めたまま移植中の大量抗がん剤投与で卵巣機能が失われてしまうことはやむを得ない。それは、将来の出産を諦めざるをえないことを表す。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:出産の可能性を残す方法も提示されました。しかし「その必要はない」と当時、冷静に判断したんです。今になって、それで良かったのか考えてしまいますけどね。

 

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▲前処置に入る前日、友人たちが集まってデイルーム前で前夜祭を開いてくれた。この9日後に容体が急変、ほぼ全員が病院へ呼び出されることを誰も予想していなかった

 

骨髄移植5日前には前処置として致死量の抗がん剤エンドキサンの投与を4日間し、同時に1日に3リットルほどの水分を点滴で入れ、抗がん剤の毒素を排出していった。

簡単にいえば、他の人間の骨髄(髄液)を受け入れる前に、一度自分の骨髄を薬でまっさらの状態にしておかねばならない、ということだ。ゆえに当然リスクも伴う。

どんな治療も人によってさまざまだが、前処置のつらさは想像以上だった。白目が内出血するほど嘔吐(おうと)し続けたり、トイレに行く途中に意識を失いかけたり、心臓に異変が起こり始めたり、幻覚を見たり。さらには放射線治療の前に弱気になり放射線治療の中止を懇願するなど、前処置の段階で出た副作用は過酷を極めていた。しかし、彼女が極限状態に陥るのはこの後のことだ。

 

移植後、予想だにしなかった副作用が……

2013年、4月17日。骨髄移植当日は合計7Gy(グレイ)の放射線を照射された後、17時から移植を受けた。首から挿入している中心静脈カテーテルを通してドナーの提供した骨髄液が矢作さんの体に一滴、また一滴とゆっくり入っていった。そうまさに、著書『ポンコツズイ』の表紙そのまんまの状態だ。

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骨髄の量が残り半分ぐらいになったとき、発疹の熱感を感じるようになる。アレルギー反応が出たのだと直感したが、抗ヒスタミン剤とポララミンステロイドを投与しながらなんとか乗り切った。

そして注入開始から6時間後の0時18分、体には十分過ぎるほどの1050ミリリットルすべての骨髄液が矢作さんの体に注入された。

しかし、移植後3日目に入ろうとする24時ごろ、容体は急変する。家族や友人たちが後に「あの日」と呼んで振り返る出来事が起ころうとしていた。

 

呼吸がままならなくなり、酸素マスクを着けられた。

(中略)
体が言うことをきかない。というよりも、どんなに体勢を変えても楽になることがなかった。とにかく、身の置き所がなかった。ありったけの力を振り絞って、足をバタバタさせて酸素マスクを外してぶん投げた。

(中略)
大きな声を上げてベッドから飛び降りようとした。エンドキサンが引き起こす副作用の中で0.1%程度という稀な急性心不全を引き起こした。心臓内の圧力が上昇し、心拡大を起こし、心機能障害をもたらした。(中略)体全体の水分排出ができなくなり、呼吸困難となった。

 

移植後の副作用が最悪の形で表れ始めていた。

痛みをやわらげるためモルヒネが投与されるが、状態はなかなか好転しない。あまりのつらさに、安楽死などによく使われる筋弛緩剤の投与を望もうとしたほどだ。

まさに、いつ終わりが来てもおかしくない状態。矢作さんの元へは、夜中にもかかわらず、病院から急報を受けた両親や親戚、友人たち10人が集められた。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:思い返しても不思議な感覚なんですよね。ベッドがゆっくり回転しながら浮き上がって、体がどんどん天井に近づいて。「ああ、もうそろそろかな」って思ったら、友だちに手を握られながら名前を呼ばれてストンと落ちる。そんな感覚がずっとあって、なかなか逝けないなぁみたいな感じでした。「早く連れてって」っていう感じで、もう諦めていたんでしょうね、あのときの感情は。

 

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▲「何個病気やるの?」とか「病気のデパートじゃん」「また、おはぎ劇場かよ」と友人たちがシリアスにならないよう、どんな病状にもあえて突っ込んでくれた。ツライときほど、ネタ扱いしてくれたことで自分も客観的になれて救われた、と語る

 

結果的に、限界まで下がっていた彼女の血圧は上昇を始め、「お別れ」にきたはずの親族や友人たちはいったん帰されることに。

このときの一部始終は、友人たちによって「あの日」もしくは「おはぎ劇場」と呼ばれ、いまでも語り草になっているそうだ。

 

余命2日の宣告

一難去ってまた一難というべきか。「あの日」ほどの異変は起こらなかったものの、その後は小康状態が続き、かねてからの懸念要素だった心臓と肺の水は引かなかった。

呼吸機能に異常が出ていたため、病院内で最強の酸素吸入器が使用されることになる。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:すごい圧の高濃度酸素、加湿された空気を鼻から入れていくんですが、あまりにも勢いよく出てくるので、その都度タイミング合わせて吸い込むのがなかなか難しいんです。呼吸ができなくて、エビ反り状態。なんとか肩で呼吸してたような感じで、苦しかった。こんなに辛いんだったらもういいよって。ここでも気持ちが負けてました。

 

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▲移植後10日目の4月27日に酸素マスクを装着。サチュレーション(酸素飽和濃度)をあげるべく治療を続けていた頃

 

異変が起こったのは移植後13日目、4月30日。酸素吸入器から噴き出される酸素を吸い込むリズムがつかめず、一睡もできないばかりか、真夜中に呼吸困難に陥ってしまう。吸っても吸っても空気を飲み込めない感覚。心肺機能は限界に達し、急性心不全を起こしていた。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:このとき先生に言われたんです。「矢作さんの心臓と肺の状態だとあと頑張って2日ぐらい。薬でなるべく痛みと苦しさを取って2日間過ごすか。それとも呼吸が戻ることを期待して気管挿管するかどちらにしますか」って。

 

気管挿管とは全身麻酔で意識レベルを落として口から喉を通して挿管するもの。人工呼吸器で肺を人工的に動かして心肺機能の回復を待ち、呼吸状態が改善すれば管を抜くという処置だ。逆に改善しなければいわゆる「植物状態」が続くということもあり得る。

諦めて二日過ごすか、植物状態となるリスクを承知で気管挿管するかという究極の選択。いきなり余命2日と言われたところで、どうメンタルを保てというのだろう。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:なんとなく想像はついていました。このままいったらもうダメなんだろう。もう長くないって。だから「あと2日」と言われたときは、けっこう冷静でした。1年半、こんなに頑張ってきたのにラスト2日でおしまいだなんてばかばかしい。だったらもっと頑張ったらいいんじゃないかって。

 

葛藤の末に彼女が出した結論は「賭けてみる」。生きる可能性を信じた。

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▲5月1日(移植後14日目)、気管挿管され、人工呼吸器による管理が始められた。(矢作さんの母親がiPhoneにて撮影)

 

呼びかけられて目が覚めたのは、自発呼吸が安定してきた5月8日になってからだ。徐々に意識レベルを戻し、意識が明瞭になった翌日、気管抜管した。それは移植日から22日目のことだった。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:呼吸器を外されたとき咳が止まらなくなりました。あのとき首をえぐられるような痛みにびっくりしました。意識が戻ったあとは、胃と腸がぎゅっと握りつぶされるような痛みが何日も続きました。喉の奥も痛かった。

 

その感覚こそ、彼女が死の淵から帰ってきたからに他ならなかった。あれほど嫌がった痛みは「戻ってきた」証拠でもあったのだ。

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▲抜管後しばらく声が出なくなり、抗がん剤の副作用なのか手のけいれんがひどかった中、看護師や親と意思疎通を図ろうとして必死で書いたノートのやりとり

 

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▲「意識がもうろうとしていたので今見返しても支離滅裂なのですが、よくみると自分なりにいろいろ感情をぶつけてるんだと思います」と本人は振り返る

 

「口からモノを食べる」という尊さ

ところで、骨髄移植の前後、食事はどうだったのだろうか。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:前処置2日目の4月13日から5月末までの1カ月半ぐらいは絶飲絶食状態。栄養をただ単に管で胃に流し込んでいるだけでしたね。抗がん剤の副作用がひどすぎて、尋常じゃないぐらい嘔吐(おうと)を繰り返し、何も口にできなかったんです。その間に体重は53キロから38.5キロへと激減していました。

 

5月末頃から、吸い飲みを使って少しずつ水分を口から摂取できるようになってきた。そこですぐにわかったのは、抗がん剤の副作用で味覚障害が出ていたことだった。例えばポカリスエットにすごくしょっぱい食塩水の味を感じたり、ミルクティーがとんでもなく甘い味がしたり、何を飲んでも甘いかしょっぱいかしかわからなくなっていた。

 

食事は6月初旬に重湯からスタートし、3分粥、5分粥へ。そして中旬になり、(中略)固形物が再開になった。

 

アメリカ育ちの矢作さんはハンバーガーなど、アメリカン・ジャンクフードが大好物だった。しかし、味覚障害を起こしてからはすっかり薄味好みになり、薄味のスポーツドリンクですら水で割って飲むほどに。

 

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f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:味覚障害を起こしてたときはよく「エアごはん」みたいなことをやってましたよ。頭の中でその食べ物の味を思い浮かべて食べるんです。だけど実際に味が分からないから、何食べていても一緒なんですよ。舌も腫れあがっていて、食感も分からなくなっている感じだったんですよ。食べても食べてもかんでいる感じがしないし、何か口の中でぶつかっちゃってて。それでも、食べられるようになってからはとにかく食べました。人間は口から入れて食道を通って胃に行って、という一連の流れが回復のためになにより大事なんです。実際、口から重湯を入れた瞬時に、その次の日はもっと食べれるようにって、どんどん回復していったので。

 

この尊さは、当たり前のことが失われて初めて気づくのかもしれない。

矢作さんはその後、懸命なリハビリによって、急ピッチで回復。6月末頃には歩行器なしで点滴台だけで歩けるようになり、7月11日には115日間の入院生活を終え、退院した。

 

「いただいた骨髄」とともに生きていく

退院後は実家で療養生活に入った。とはいえ、外には出られないし、温度を感じる感覚が狂って暑さと寒さが交互にやってくる。食事しても味がわからない。それでも半年ぐらいすると、体力が少しずつ回復し、味覚がだんだん戻ってきた。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:おいしいものがおいしかったり、「あっ、これ好きな味だ」って気がついたり。味がわかるようになってうれしかったし、治ってきたんだなって自覚が持てました。そうなると、あれも食べてみたいこれも食べてみたいっていうふうになって、すごくたくさん料理を作るようになりました。例えばリゾットとかラザニアとか。我ながら、かなり上達したと思います。

 

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▲リハビリが「料理をすること」だったので、母親と近所のスーパーによく通っていた

 

ただし、生ものや菌類はずっと禁止されていた。免疫抑制剤の服用がまだ続いていたので、食べるとひどくお腹をくだしたり、敗血症になる可能性が高かったためだ。人と会話するときも含め、生活はマスクオン。食事は口に運ぶときだけぱっとマスクを取って、口に入れるとまたマスクを戻した。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:2年前の1月、今の職場で働き始めたぐらいの頃になってようやく徐々に生ものを口にするようになりました。免疫抑制剤が外れて1年ぐらい経ってから、恐る恐る食べ始めたんです。早い人は移植後半年ぐらいで生ものを食べられるんですが、私は遅くて4年近くかかりました。というのも、免疫抑制剤を他の移植者に比べ、かなりの量を長期的に使っていたんですが、急には中止できない薬のため、1ミリグラムずつ徐々に摂取量を減らしていったからなんです。

 

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▲現在服用しているのは、甲状腺ホルモンを補充する薬、腎臓、心臓の薬など。「カリメート(上の顆粒)や沈降炭酸カルシウムは腎臓保存療法の上で必須の薬。これがあるからおいしいものを食べられています」と本人。すべて致死量の抗がん剤投与による副作用からの臓器不全の対処療法の一環だという

 

今でも食事制限はあるのだろうか。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:実はほとんどないんですよ。薬の力を借りてはいますが、味の濃いものも含め食べ過ぎない程度にいろいろ食べてます。本来、食べることが大好きなのに、30代の大半、闘病して食べられなかった。そのリバウンドかもしれませんね。好きなもの? うーん、スペイン料理とかシンガポール料理でしょうか。いただいた骨髄でこうやって生活ができていることで、食べる喜びを病気になる前よりもすごく感じています。

 

いただいた骨髄──。

 

そう、矢作さんの体にはある意味でまったく別人の血が流れているといってもいい。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:確かに体質は変わったと思います。例えば髪質がそうで。移植前は直毛だったのに、移植後の抗がん剤の影響で髪が一時的になくなった後は、すごい天然パーマが生えてきてしまって。あと長期にわたるステロイドの服用で花粉症や金属アレルギー、アルコールアレルギーもなくなったり。だけど年数が経つと元の体質へ徐々に戻っていくようですね。髪は直毛に戻って、あまり歓迎はしないけど花粉症も戻ってきているきざしがあります。一時的に抑えられていたんでしょうね。

 

聞けば聞くほど見事な回復ぶりだが、今でもやはり制限されていることや抱えている困難さはある。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作:免疫抑制剤のために長期的に服用していたステロイドの副作用で骨密度が低くて、スポーツはあまりできないんですよね。あと血液の兵隊がそろいきっていないというか。人間の血ってそれぞれの役割を持つ連合軍みたいなもので、風邪のウイルスや麻疹・風疹などそれぞれの病気に対して闘う部隊が違うんです。だけど私の部隊は健康な人よりも兵隊の人数が少ない。移植前までに長年かけて作ってきたさまざまな抗体がリセットされているので、皆が子どものときにかかるはしかや風疹、おたふく、みずぼうそうにかかってしまうリスクも常に抱えています。

 

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▲親友が行ってくれた41歳の誕生会で味わった料理の数々。以前のように頻繁に国外を旅できない分、いまはいろんな世界の食事を味わうのが楽しいのだそうだ

 

現在、矢作さんは一般企業に勤務している。

 

f:id:Meshi2_IB:20190223164944p:plain矢作さん(以下敬称略):以前はアパレル業でいろんな国を飛び回って仕事するようなフリーランスだったんですが、身体の調子の問題で以前同様の仕事はもはやできません。なので今は子どもの頃の海外生活で習得した英語をいかし、英会話スクールで教えています。この仕事を始めたのは17年の1月からですから、もう2年ちょっとになりますね。

 

そんなわけで、矢作さんの体験談を聞いてきたわけだが、ここまで読んで下さった読者の皆さんには、やはり彼女の自著『ポンコツズイ』にリーチしてほしいというのが率直な気持ちだ。壮絶な闘病、骨髄移植の現状はむろん、シビアな現実を笑い飛ばすような彼女独特のユーモアや、個性的過ぎる家族・友人らは、えもいわれぬ魅力を放っている。ありがちな「涙の感動ストーリー」とはまた違った意味で、ポジティブに生きるヒントを与えてくれるに違いない。

 

書いた人:西牟田靖

西牟田靖

1970年大阪生まれ。家族問題から国境、歴史、蔵書問題まで。扱うテーマが雑多なフリーライター。「僕の見た大日本帝国」(角川ソフィア文庫)、「誰も国境を知らない」(朝日文庫)、「わが子に 会えない」など著書多数。2018年には「本で床は抜けるのか」が文庫化された。

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