日本中の人たちが食べるものに困っていた、戦時中。配給も限られており、その中でもどうにかお腹を満たし、少しでもおいしく・楽しく食べるために趣向を凝らした料理が存在する。
それをまとめたのが、『戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る(岩波書店)』(以下、『戦下のレシピ』)だ。ドラマ『ごちそうさん』(NHK)や、映画も話題になったマンガ『この世界の片隅に』(双葉社)などの参考資料にもなった名著である。
当時の料理を実際に食べると何を感じられるのか、『はだしのゲン』(集英社など)を読んでいた子ども時代から気になっていた。
いま作れば、当時の食生活と切実さを肌で感じられるはず。
ごはんがドーンと増える?「楠公飯」
『戦下のレシピ』は、女性誌に載ったメニューを中心に掲載している。
最初は『主婦之友』昭和19年4月号で後藤貞子氏が紹介する玄米の炒り炊きだ。
通称・楠公飯(なんこうめし)とも呼ばれ、前述の『この世界の片隅に』にも登場した料理。少ない玄米がたくさんのごはんになる魔法のようなメニューである(あくまで見た目の上だが)。
まずは玄米を炒って、それをたっぷりの水につけて一晩寝かせる。
翌日見ると、玄米が倍くらいのかさになってパンパンにふくれ上がっている。そこからはふつうに炊き上げれば完成だ(筆者は鍋炊き派)。
炊き上がった。茶色く、黒く、かさが大幅に増したちょっと得体の知れないごはん。恐る恐るお茶碗へ盛ってみる。
茶わんを動かすたびに、ぶよぶよとごはんも揺れる。不安がいっぱいのまま、こわごわと口に運んでみた。
▲臭みなどはなく、思いのほか抵抗なく食べられた
おいしいとまでは言えないが、意外と食べられなくはない。ホントに腹ペコのときはこれを食べてもいいかな……と思える。
炊き増えしているので密度が低く、口に入れるとあっという間になくなる印象だ。柔らかくて食べやすいので、玄米を食べやすくする方法としてもいいかもしれない。
▲みそ汁など、味がついたほかのものが恋しくなる
あくまで見た目上ではあるが、ごはんが倍ほどの量にふくれ上がるレシピ。当時の人にとってはそれが、現代の人が思う以上に大きな意味のあることだったのではなかろうか。
食感と見た目はいいが……「里芋おはぎ」
次は『主婦之友』昭和16年5月号で磯野百合子氏によって紹介された里芋お萩(おはぎ)だ。もち米が不足する中で、里芋がその役割を果たす料理である。
まずは研いだ米一合(約150g)に里芋(375g ※『主婦之友』記事中では100匁と表記)の皮をむいて適宜切って入れ、水360mlを加えて普通のごはんのように炊き上げる。
▲炊きあがり後、蒸らしたらすりこぎで潰して混ぜる
▲丸めてきな粉や黒ごま、青のりなどをまぶせば完成
▲見た目は悪くない
さっそくいただこう。口に入れたときの第一印象はいい。食感はだいぶおはぎでもちもちとした食感が楽しめるし、炊いた里芋の香ばしさも漂ってくる。
しかし、徐々にきつくなる。おはぎ本来の砂糖の甘さがないと、おいしさがここまで無くなるのかと思ってしまった。食べられなくもないが口に運び続ける動機が見つからず、よっぽど腹が減ったときぐらいなら……という感じ。
▲まだマシなのが黒ごま
▲青のりがいちばんしんどく、きな粉はその中間といった趣だ
見た目はいいし、食感も悪くない。しかし本来使う食材がなくなると、肝心の味の完成度に影響することを痛感した。
ひたすら煮込んで作る、「代用醤油」
最後は『主婦之友』昭和20年8月号掲載の代用醤油を作ろう。食材だけでなく、調味料まで足りない中で苦肉の策として用いられたレシピだ。濃い塩水で昆布などを炒り、大豆とともにしっかり煮込めば完成する。
室内に代用醤油の強いニオイが立ちこめていく。液体の多くは沸騰時に蒸発してしまったので、取れた醤油は少なめである。フタがあれば違ったのかも。
▲寿司につけて食べると……
口にしてみると、とにかく「濃い塩水」という感じだ。強い塩味なので醤油の代わりにもなるしこれはこれでおいしいが、ダシの旨味などはあまり感じない。
ここまで塩の味が突出して強いのだから、もう単なる「塩」をつければいいのではないか。貴重な燃料を使ってまで手間をかけて作る必要はないのではと思った。もっとも当時は塩ですら不足していたようだが。
果たしてこのようなメニューが出てきたワケは何だったのか。『戦下のレシピ』の著者・斎藤美奈子さんにお話を伺った。
▲『戦下のレシピ』を書いた、斎藤美奈子さん
戦時中でも懸命に料理したワケ
斎藤さん(以下、敬称略):日本ってもともとそんなに料理熱心じゃなくて、昔の家は台所がないんですよ。
──そうなんですか?
斎藤:ふつうの農家だと、いろりでごった煮※を作って済ませるとか。でも栄養学がメディアや女学校を通じて普及したことが料理をしっかり作る契機になったの。立って働くキッチンも出て、いろんな家庭料理をするようになったのが昭和のはじめぐらいですね。
※野菜・肉などいろいろな材料をいっしょに煮込んだもの
──料理をする環境が整った。
斎藤:そう、料理がやっと文化になった。『主婦之友』のような女性誌らによって「手作り料理は母の愛情」って概念が生まれたのはこのころで、中流家庭にもお手伝いさんが普通にいて、膨大な手間をかけて料理を作っていたの。
▲『戦下のレシピ』表紙。写真のメニュー(『主婦之友』昭和16年5月号より)は戦意を高揚させるための「軍艦サラダ」など。太平洋戦争に突入すると、このような手の込んだ料理を作る余裕はなかった
──「手作りでなきゃダメ」って観念はここからなんですね。電化製品もないし苦労しただろうなぁ。
斎藤:そう。料理に手間をかける文化が下地にあったから、戦時中ですら時間をかけて作っていたのね。そもそも食材を食べられる状態にするまでにも労力がかかって。玄米も一升瓶に入れてから棒で2時間突いて、ようやく七分づき※のお米にしていたから。
※胚芽の部分を7割程度剥離した精米のこと
──よくそこまで……!
▲『戦下のレシピ』(岩波書店)より
斎藤:さらには粉にしないと食べられない素材が大変で。ゴリゴリ1日じゅう粉を挽いて、できる料理もモサモサ、ドロドロしている感じだから、ぜんぶ頼りない食感で。
──カリッ、サクッは無いわけか……すいとんとかは象徴的ですね。
斎藤:うん。でもすいとんは温かいだけで、もうごちそうだったんですよね。
▲すいとんのレシピ/『一千万石目標節米調理法』(糧友会)より
かけても大して変わらなかった?「代用マヨネーズ」
▲『戦下のレシピ』(岩波書店)より
──ちなみにこの麺飯丼は、なぜごはんとうどんを混ぜているのですか?
斎藤:米も麺も少しずつしかないから、家族で食べられるまとまった量を作るなら混ぜざるを得ないのね。
──配給品だけで、どうにか食べるものを作ると。
斎藤:「冷蔵庫にある材料でどうにか作る」のと同じなので。ほかにも、めざしを開いて蒲焼きにするとか、おじやをお好み焼きのように焼くとか、苦肉の策が多くてね。
──……! いまある食材で何とかごちそうを再現しようとするものが多いですね。
斎藤:うん。ふだんはもっと質素でふかしただけのサツマイモ、少し醤油と菜っ葉の入った薄いおかゆとか。でも、そこで「もうちょっとおいしくしませんか」と提案をしたのが『主婦之友』のような雑誌だったんですよね。
▲『配給食品の栄養とその調理』(国立栄養研究所)より
──ちなみに斎藤さんは、書籍とは別で「代用マヨネーズ」なるものを作ったそうですが、いかがでしたか?
斎藤:酢と油を片栗粉で溶いたようなものですよね。どろっとしたドレッシングみたいで、別にかけなくてもいいって感じ(笑)。塩だけでもいい。
──(笑)。当時は食べにくいものを何とか食べるために作られたそうですが……。
斎藤:あればまだマシだったとは思う。なんで代用マヨネーズが作られたかっていうと、戦争の末期には野菜を生で食べることが奨励されたから。苦くて筋張っている雑草なんかを食べるためにも作られたのね。
女性誌が農業雑誌に?
──本にはそんな風に、戦争が進むにつれ食卓がひっ迫していくさまが書かれていますね。
斎藤:戦争においては戦況と食卓の貧しさはリンクしていて、そこを意識して説明しています。
──読んでいくと、戦況が悪化した1943年には配給が滞って、1944年からは生命の危機に日々さらされるようになったとありますが。
斎藤:婦人雑誌も1944年ごろからは、家庭菜園の記事ばっかりですよ。
──切実ですね。
斎藤:手芸やってる場合じゃないから、半ば農業雑誌です。「ウチではイモが育ちません、どうしたらいいでしょうか」なんてQ&Aもあるし。
終戦後の1年がいちばんキツかった
──戦争が終わったあともひどかったと聞きますが……。
斎藤:そう、終戦後の1年がいちばん食糧難で。外地(本土以外の日本領土だった土地)にいる600万人ぐらいが日本に戻ってきたのに、大凶作で配給もひどくて。謎の粉みたいなものが配給されるんだけど、それすら加工して食べるのに苦労していて。どんぐりも食べたみたい。
──焼け石に水ですね。
斎藤:主食として「海藻めん」まで登場して。カロリーなんかほぼ無いよね……。
▲ 配給だけでは足りず、ヤミ物資に頼らざるを得なかった。それを没収する警察官とMP(進駐軍の憲兵隊)
──ちなみに、いまだからこそ使えそうなレシピはありますか?
斎藤:ダイエットには乾燥野菜やこんにゃく麺、こんにゃく餅とかが使えそうね。あとはおから。もともと家畜の餌だったけれども、貴重なたんぱく源になったの。
──おから、食材として大出世したんですね。
斎藤:そう。カロリーが低いから仕方なく食べられていたものだけれども、いまは痩せたい方に喜ばれそうね。
食べられないと精神を病む
──斎藤さんがこの『戦下のレシピ』で伝えたかったことは?
斎藤:庶民の戦争とは「食事が取れなくなる日々」であることを、知ってほしいです。
──ふだんの食事がうまく取れないと、気持ちが参ってしまいますからね……。僕らはコロナ禍の自粛生活ですら、スーパーには食材があったし。
斎藤:食べたいものを普通に食べられるからね。戦時中は夜中に空襲警報でたたき起こされるし、日々疲弊している中でがんばって作った料理なのに食べられるのはわずかで。おいしいものを食べることは体にも心にも影響が大きいですし。
──生きる支えですからね。
斎藤:食がどれだけ人の精神を支えているか。それが最後のよりどころだから、失われるのはもうダメでしょう。
▲隣組による配給
食べることは「最後に残るもの」
──人間にとって食べることとはなんだと思いますか?
斎藤:いちばん根源的で人間らしい文化。まさに「最後に残るもの」です。
──『進め!電波少年』(日本テレビ系列)での猿岩石のヒッチハイク企画でも、有吉さんが「最後は食」と言っていたのを思い出します。
斎藤:だからこそ配給に並び、調理するのに何時間もかけて、食べるためにすごいエネルギーを使っていました。
──がんばりましたね……。
斎藤:「よく生き延びたよみんな」って思う。あとこの本を書くことによって、戦争体験者たちの重い口が開いて。
──出版がきっかけで。
斎藤:若い人に話してもうっとうしいと思われるって、彼らも感じているから。だから意外とみんな語ってないんだよね。
──この本が、当時の料理を語ってもいい下地を作った。斎藤さんが戦争を体験していなかったから書けたのかも知れませんね。
終戦から75年が経とうとしている今、風化しつつある戦争の記憶。当時のメニューを再現することによって、「食は人にとって最後のよりどころである」事実を考えることができた。ぜひ「節約レシピ」から、戦時下の声なき声を聞いてほしい。