「パソコンがあったら自室にずっと引きこもっていたかもしれません」
「男の墓場プロダクション」の代表であり、漫画家、タレント、映画監督など数多くの肩書を持つ杉作J太郎氏。“食ヒストリー”を通して、氏のマルチな才能はどうやって育まれたのかを探ってみました。
── まずはどんな少年時代だったか教えていただけますか?
漫画が好きでしたね。水木しげるさんとか望月三起也さんとか。あと松本零士さんの『男おいどん』。原作で映画『チョコレートデリンジャー』を撮ったから言ってるわけじゃないですけど、吾妻ひでおさん。エッチな漫画でいうと、永井豪さんよりも吾妻ひでおさんのほうが好きだったかもしれません。永井さんのはバイオレンスが強かったんですよ。吾妻さんのほうが不条理な感じ。僕は不条理なほうが好きだったのかもしれません。漫画や読書が好きな、文化系の子どもだったと思いますね。
── 小さい頃から漫画を描かれたりしていたんですか?
絵が好きでよく書いてましたね。中学生になってくらいからは、学校の友達と一緒に漫画を描いたりもしてましたね。3、4人で書いて、見せ合ってました。僕が一番下手で、劣等感を持っていたのは覚えています。ちなみに一番上手だったやつは、電通にいきましたね。いまは付き合いはないですけど、あれだけ上手いやつはセンスがあったんだなって今でも思います。ホント、あの頃からインドア派でしたね。パソコンがあったら自室にずっと引きこもっていたかもしれません。
── 漫画とかたくさんあるようなお家だったんですか?
いや、ないですね。全部僕のですよ。親が読んでいた小説はありましたけどね。でもそれも時代小説とかで、僕はあまり読まなかったですね。それで、中学生くらいからは映画館によく行くようになりました。テレビを見たり映画を見たりして。高校生くらいになると、勉強もしないでテレビばっかり見てるからよく怒られましたけど。
── 当時は娯楽といえばテレビでしたよね。今ならネットがあるけど。
昔はテレビの放送が夜の12時半~1時くらいに終わってましたけど、最後まで見てましたから。その当時の親に対しての言い訳でね、「僕は将来、映画とかテレビを作ったりする仕事に従事したいので、僕がしているのは勉強だ」って言い張ってましたね。そういう意味では正直に生きてきたとは思います。
── 夢をかなえたわけですしね。
いや。むしろ、その時の言い訳を、本当にするために行動してきたのかもしれない。その時に口から出まかせを本当にするために、いま頑張っているのか……本当に信念を持ってやってきたのかは古すぎてもうわからないですけど(笑)。けど、当時、本当にそう思っていたのは事実です。
「僕の勉強は、テレビを見ることだから」
── わりと「勉強しろ」という親御さんだったんですね。
しろというか、「お前、勉強しなくていいのか」ってね。「しなくていいんだ」って言い張ってましたけどね。僕の勉強は、テレビを見ることだからって。
── 映画はどんなものがお好きだったんですか。
子どもの頃は怪獣映画でしたね。ゴジラ、ガメラ、ウルトラマン、ウルトラセブン、キャプテンウルトラ……その時代ですけど。ちょうどそれが小学校1年生くらい。3年生くらいで仮面ライダー。まさにテレビ特撮の第一世代ですね。ゴジラはもうコメディーみたいな感じになってましたけど。
── 男の子は大好きですよね、特撮モノ。
最初は映画って、怪獣や怪人が出てくるようなものじゃないと見られなかったんですよ。大人が見るような映画は怪人も怪獣も出てこないから、つまんないと思っていました。ところが、中学生くらいになってくると、東映の映画を見ていると、怪人怪獣なみの役者がいるわけですよ。「人間でも怪獣みたいな人がいる!」って思ってですね。たぶんそれからずれたんだと思いますね。だからなるべくしていきついたといいますか、もちろん他社の映画も見てましたが、中学生くらいからは東映専門になるわけです。役者さんの顔が、一番すごかったので。物語的にも、怪人や怪獣に近かったですし。
── 怪獣映画としてヤクザ映画を見ていたと。
そう、生易しい映画なんかじゃ移行できなかったと思うんです。
── ご両親と映画に行ったりとかは?
怪獣映画とかは、両親と行っていたと思いますよ。でも、中学になってから、ヤクザ映画なんかはひとりで行きましたね。子どもながらに分かっていたんだと思います。親に言ったら行かせてもらえなくなるって(笑)。
── ご両親は、ヤクザ映画を見ないタイプだったんですか?
いや、見ていたとは思いますけど、ちょっと中学生には早すぎたというか……基本的に内容もいやらしいですしね。ポルノすれすれの内容ですから。だから、映画を見に行く時も、東宝の金田一耕助とか、松竹は寅さんとか、そういうのは友達と見に行った記憶がありますけど、東映はいつもひとりで見てましたね、こっそり。誰も一緒に行ってくれなかった。で、高校3年くらいになったらチラホラと「見てる」ってやつも出てきましたけど、たぶん、みんなずっと、こっそりひとりで見に行ってたんですね。
いまだにあれよりおいしいものを食べたことはない
── ご家族で外食に行かれた記憶とか、ありますか?
ものすごい子どもの時は、街中にレストランみたいなのってあったじゃないですか。今でいうファミレスみたいな。そういうところに家族で行っていた記憶はありましけど、それは小学校の低学年くらいまでのことだと思いますね。僕、早熟だったと思うんですけどね、だから小学校3年生か4年生くらいになると、もう嫌でしたね。そもそも、親と外に出るのが嫌で、一緒にいるところを、誰かに見られたりしたくなかった。
── 親と出掛けるのはカッコ悪いっていう照れですかね。
変な自意識があったんだと思います。家の中では普通ですけど、とにかく親と一緒にいるのを友達に見られたくなかったですね。男子には多いと思いますけどね。家族の一員みたいな自分、親と一緒にいて、子ども子どもした自分を見られたくないってことだと思うんですけど。だから、家族で外に食事に行くようになったのは最近ですね。いまはもうさすがに親と一緒にいるところを見られても、どうでもいいんで(笑)。
── じゃあ、食事はいつもお家だったんですね。どういうものを食べてらっしゃいました? お母様の得意料理とかって。
子どもの頃の話ですよ。母親がマドレーヌを焼いていたんですよ。あれはおいしかったですね。親には褒めたことないですけど、大人になってから洋菓子店やなんかでマドレーヌを食べたんですけども、いまだにあれよりおいしいものを食べたことはないですね。
── 手作りマドレーヌ! お菓子をお作りになるお母様だったんですね。
作ってくれてましたね。あと、うぐいす餅。これもね、面と向かって褒めてあげたことはないんですけど……褒めてあげたらいいと思うんですけど。ぼく時々、和菓子屋でうぐいす餅を買ったりしてましたけど、全然おいしくないんですよね。あのね、白い餅に緑の粉をつけたりしてるのも、あるんですよ。
── ありますね。中にあんこがはいっていて。
でも家のはね、餅の中に抹茶を練りこんだりしていましたから、完全にもとの餅が緑なんですよ。それにきな粉がついて、中にはあんこが入っていてね。この、家で食べるマドレーヌとうぐいす餅、今まですっかり思い出すこともなかったけど、これはおいしかったですね。ホントに忘れてましたけど。
嫌がっても嫌がっても、出てくるんですよ!
── お母様って、どんな方だったんですか?
もともと、編み物学校の先生をしてたんですよ。僕は小学生くらいの頃にはもう辞めちゃってましたけど。だけど、僕がもっと小さい頃は、家にあるものを母親が作っていたと思うんですよ。家のドアノブとか。
── ドアノブカバーとお菓子作り! いかにも昭和のお母さんって感じですね。
お菓子以外だと、太巻きがおいしかったですね。子どもの頃はよく作ってくれて。ごぼう、アナゴ、卵、人参とか入ってましたね。あとはサンドイッチもおいしかったな。卵が薄く焼いたのが入ってたんですよ。今ってわりとそういうサンドイッチもあるじゃないですか。見つけると「あっ、これ家のと同じだな」って思います。キュウリと卵とハムだったと思いますけど。マヨネーズ味で。あれはもう何十年も食べてないけど、おいしかったですね……でも、普段食べていた料理を思い出せないのって、なんでですかね。
── なぜでしょうね、あまりに日常すぎて忘れちゃうのかもですね。
太巻きのことは、覚えてますけどね。そのせいか、いまだにスーパーなんかで、太巻きを買うことって、多いですね。あとは夜の歓楽街とかで、お弁当屋さんなんかがない場所だと、お寿司屋さんに入って太巻きを巻いてもらったりしますね。持って帰ってホテルで食べる、とか。
── 歓楽街のお寿司屋さんって、深夜もやってること多いですよね。
そう、1,500円くらい出すと巻いてくれるんですよ。割高ですけどおいしいですよ。たぶん、酢飯が好きなんですよ。だからばら寿司も好きでした。具は普通でしたけど。海老と錦糸卵と、グリーンピースとね。
── グリーンピースが入ってるんですか!?
グリーンピースがよく入ってたね。グリーンピースご飯もよく炊いてましたし。グリーンピースご飯は嫌でしたね。
── 子どもは、あんまり好きじゃないやつですよね。
食べてはいましたけど。でも文句は言ってたかもしれません。出てくるとがっかりだったので。あっ、それで思い出しました。一番嫌だったのは蕗(フキ)です。蕗の煮物が出たら僕はもうほんとにテンション落ちてました。思えばあれ、親は好きだったんでしょうね。嫌がっても嫌がっても、出てくるんですよ! でもそれがね、いくつくらいですかね。30歳くらいのころかな。
── 蕗はちょっとエグみがあって、子どもには食べにくいですよね。
その頃はもう家を出て東京にいたんですけどね、突然嫌じゃなくなるんですよね。それで、あの頃なんであんなに嫌がっていたのかなーって。今ではもう理解できないです。あんなに嫌だったんですよ。特に朝の食卓とかに出ると暗黒ですよ。死にたいくらい嫌でした。きんぴらごぼうも嫌いでした。ごぼうも大嫌いで。好き嫌いが多かったのかもしれませんね。
── 和食の多いお家だったんですね。
あれは僕が小学生くらいの頃ですけどね。料理のレパートリーを増やしたいと思ったのか、もっとおいしいものが作りたいと思ったのか。もしくは父親が何か言ったのかもしれませんが、母親が料理教室に行き始めたんですよ。
──いろいろなことに意欲的なお母様だったんですね。
何年間かその料理教室に通っていたんですけど、その頃食卓にあがっていたのがですね、豚肉に七味を中心とした、変わった香りのついたものがたくさん入ったタレに漬けるか塗るかして焼いた料理があったんです。あれもおいしかったですね。それは後も食べたことないですし、名前も覚えていないですが。
おかんの「謎メニュー」
── 謎メニューですね。
でも料理教室で習ったと言っていたので、なにかではあると思うんです。醤油と、あれはなんの味だろう。生姜焼きではなかったですね。唐辛子とかの味が多くて。でも、辛くはないんですよね。豚肉もわりと小さめで、同じサイズに切ってあった気がします。松屋にある豚のバラ焼き定食くらいの大きさで。あれはおいしかったけど、親にいってもたぶん覚えてないだろうなぁ……。記憶で描きますね。のりがあった気がするんですよ。で、唐辛子。
── それ七味ですよね。みかんの皮とか胡麻とか……。
そうそう、そういう香りの強いものがたくさん。
── 甘みはあるんですか?
甘くないんです。これはおいしかったし、いまでも食べてみたいんですよね。でも、大人になってから「食べてみたい」って言ったことがある気がするんですよね。でも、覚えていませんでした。
── お母様の中で一瞬のブームだったんですかね。
いや、年齢のせいかもうちょっと物忘れがすごいんですよ。もうたぶん一生思い出さないでしょうね。
── もうどこに行っても食べられないってことですかね。永遠に失われてしまった味ですね。
僕が思い出せば……いや、でもどのあたりの部位の肉だったかも思い出せない。でも脂身はなかったですね。そもそもうちの母親は、豚の脂身が大嫌いだったんですよ。牛も赤身や脂の取れてるロースしか出てきませんでした。脂身の嫌いな母親が、調理する人の特権で全部取って捨ててたんですよ。それに慣れてたもんだから、大学卒業した後に東京に出てきた時に、ロースかつが食べられなくて苦労しましたね。ロースかつをマスターするまで、たぶん5年くらいはかかりました。
── かつは脂が塊でついてますもんね。好きな人はあの部分が大好きだって言いますけど。
慣れてないと豚の脂身っておいしくないんですよね。今でこそ食べられますけど、東京に出てきた頃は、ちょっとしたカルチャーショックでした。いまだに食べられないのが、高級な和牛です。霜降り肉みたいなのは半分くらいでもう無理です。親に文句言うわけじゃないですけど、育ち的にダメなんですよね。豚の脂って、疲労回復にいいらしいですよね。だから僕、疲れやすいのかもしれませんね。
── わー、それにしてもどんなメニューだったのか気になります。まったく想像がつかないですけど。
あと謎の食べ物といえば、これは親でも僕でもないんですけど、近所におじいさんが住んでまして。で、「いずみや」って食べ物、知ってます?
── いや、知らないです。なんですかそれ。
それの影響でぼく、いまだに泉谷しげるさんの名前を聞くと、思い出すんでけど(笑)。けど、僕、食べたことないんですよ。鯵(アジ)かなぁ。小さい小魚……イワシではないと思う、鯵か……その手のなにかの魚が酢飯を包んでいるんですよ。それがおじいさんちにいくと、戸棚の中にあるんですよ。
── 冷蔵庫ではなく?
戸棚にあるんです。で、見ているとおばあさんが「食べていいよ」って言うんです。でも怖くて1回も食べたことなくて。それをおじいさんが夜になるとお酒を飲みながら食べてるんですよ。ずっとそれ以来、その「いずみや」を見かけたことはなかったんですけど。実は3年くらい前に、愛媛県の大洲って街があって、中国新聞の人と僕と一緒に散策したんですよ。
── 戸棚の中にあるっていうのが、なんとなく不安をかき立てます
そうしたらスーパーにね、あったんですよ、「いずみや」が! でも、それ、名前は「いずみや」じゃなかったんですよ、名前が。しかもさらに、中が酢飯ではなくおからだったんですよ。言われてみたら、おじいさんが食べていたのもおからの可能性もあるんです。なんせ僕は怖くて食べたことがなかったので。
── 愛媛の名物料理ですかね。
おじいさんのはおからじゃなくて酢飯だったと思うんですけどね。でも、そのおからのやつをね、その時に買って食べたんです。そうしたら……信じられないくらい、おいしかったです! おからを酢で〆てあるんですよ。あれはおいしかったなぁ。
── 松山ってどんな街なんですか。
海に面してるんで、魚は豊富だったと思います。お鍋は鱈(タラ)ちりみたいなのだったり。あとは炊き込みご飯が多かったですね。鯛(タイ)のご飯とか。当時は出てきても、うれしくもないし悲しくもなかったけど、今だったうれしいですよね。当時はどうでもよかったですけど。あとは栗ごはん。栗は隣街でよくとれたんですよ。グリーンピースも山ほどあった。買わなくても誰かがくれかりとか。物資として豊富に流通しているのが鯛と栗とグリーンピースでした。
── 旬を感じさせるものばかりですね。
あとは、味噌汁の味噌が甘いんですよ。いまは食べられないですね。(母親と)もめたくないんで、朝食のタイミングには訪問しないようにしています。間違いなく出てくるんですよ、白味噌の甘〜い味噌汁が。もうちょっと年をとったら、食べられるようになるかもしれないですけどね。
── 子どもの頃に蕗が食べられなかったり、きんぴらが嫌だったり、今じゃごちそうの鯛ご飯がどうでもよかったように、味覚って変わりますもんね。いつか白味噌のお味噌汁がおいしいと思う日が来るかもしれませんよね。今日はどうもありがとうございました!
杉作J太郎さんプロフィール
愛媛県松山市出身。漫画家、タレント、映画監督など数多くの肩書を持つ。男の墓場プロダクション代表。南海放送ラジオ『MOTTO!! 〜痛快! 杉作J太郎のどっきりナイトナイトナイト』(毎週土曜日21:00~23:00放送中)。ラジコでも視聴可能。
書いた人:天川めお
東京生まれ。webや雑誌などを中心に執筆するフリーライター。夫と息子と犬と一緒に都内に住んでます。辛いものも甘いものも家メシも外食も大好き。趣味は塊肉を捌くこと。食に求めるのはトキメキです。