カレーが大好きだ。
二日に一度は、カレーを食べる。昨日はチキンカレー、その前はグリーンカレー、さらにその前はスープカレー、といった具合に、だらしない日々にカレーで句読点を打ちながら生きている。
だから僕は「この世に溢れる、ありとあらゆる種類のカレーは一通り食べてきた」と自負できるはずなのだが、本当のところは、自負できない。自負りたいのに、自負れない。
なぜか。
あの時に知った、あのカレーを、未だに食べていないからだ。
24歳の夏の話だ。
僕はその日、女の子と渋谷を歩いていた。
その子との、初デートだった。
24歳の僕は、もしかしたら自分の恋人になってくれるかもしれぬその女の子に対して、全力で背伸びをしていた。練馬区生まれ練馬区育ち油脂で汚れたメガネをかけている奴はだいたい友だち、という非常にイケてない分際であるにも関わらず、「渋谷で会わない?オレ、よく行くんだ、渋谷」などと大見得を切るほどに、背伸びをしていた。
そしてその背伸びは、すぐにボロが出た。
渋谷で会ってはみたものの、どこに行っていいのか、わからない。とりあえず、中学生の頃に社会科見学で訪れた思い出だけを頼りに、「たばこと塩の博物館」(現在は移転したが、当時は渋谷にあった)に入った。
初デートなのにも関わらず、甘い会話を交わすことは一切なく、冷房の効いた館内でたばこと塩についての知識をただただ蓄積していく、若い男女。
こんなにもダメな初デート、聞いたことがない。
無言のまま、出口へと向かった。
出口にスタンプが置かれていたので、なんとなく、自前のメモ帳に押してみた。彼女はその様子を、ぼんやりと眺めていた。
再び真夏の渋谷の街へと放り出され、しかし行く先の当てもなく、しばし途方に暮れたのち「とりあえず涼しいところに行こう」ということになり、「電力館」(現在は潰れたが、こちらも当時は渋谷にあった)に足を向けた。
冷房の効いた館内で水力発電の仕組みや江戸時代の人はどのようにしてスイカを冷やしていたのかについて詳しくなる、若い男女。
ダメなデートは、さらにダメな方向へと加速を始めていた。
やはり甘い会話などは一切飛び出ず、僕らは無言で「電力館」をあとにした。出口にはスタンプが置かれていたので、またしても僕はそれをメモ帳に押した。彼女はその様子を、やはりぼんやりと眺めていた。
これはデートなのか、それともスタンプラリーなのか。ふたりとも分からなくなったその時、渋谷の陽が落ちた。夜になったのだ。
夜になったのだから、食事をしなくてはいけない。ディナーだ。デートの、サビの部分だ。
しかし、渋谷でのデートにぴったりの店など、僕が知るわけない。なんなら吉祥寺の店だって知らないし、高島平の店だって奥多摩の店だって知らない。
うろたえる僕を見るに見かねたのだろう。ずっと黙っていた彼女が、ここで僕に救いの手を差し伸べてきた。
「青山にだったら、一軒、居酒屋を知っているけど……」
それはまるで、天使の福音に聴こえた。
よし、さっそくその青山の居酒屋とやらに行こう、すぐ行こう、僕も渋谷のあらゆる店を知っているけどたまには青山の空気を吸いたいからとにかく行こう、ということになり、青山へ向かった。
「あたしも友だちに一度だけ連れていってもらった店だから、場所に自信がないけど……」と言いながらも彼女は僕をしっかりとエスコートしてくれ、目的の店の前へとなんなく到着した。
立派な門構えの店だった。
深いえんじ色の暖簾をかけてはあるが、どこにも店名が掲げられていない。「一見さんお断り」の雰囲気が凄まじい。でも、彼女は一度来たことがあるというのだから、きっと大丈夫だろう。戸板を開ける。その時、彼女が、
「あれ、こんな店だったかな……?」
と呟いた。
「いらっしゃいませ」
見るからに「板前修業中」といった風体の小坊主に案内され、席に着く。
一枚板の、立派なカウンター。店内には、それしか席がない。客は僕たち含め、二組。カウンターの奥には中年カップルが座っていて、男性は政治家風のいかにも偉そうな感じ、女性のほうは着物を着ていた。
明らかに場違いな空気に気圧されながら、メニューを開く。
「フグ料理コース 3万円」の文字が飛び込んできた。
どう考えても、ここは、居酒屋ではない。
「ごめん……」
やっと彼女が、口を開いた。
「どうもここ、思っていたのと違う店だ……」
静かにパニックに陥った僕たちの様子を察し、目の前の板前さんが声をかけてくれた。
「お客さん、もしかして、居酒屋だと思っていらっしゃいました?」
「……はい」
「すいません、半年前にその居酒屋はなくなりまして。私らのフグ料理屋になったんです……」
「……あ、そうですか」
ものすごく、気まずかった。
場違いなところに踏み込んでしまって、板前さんや政治家風の男性や着物の女性に対して気まずかったし、なによりも「ここ、あたしの知ってる店なんだ」とさっきまで意気揚々とエスコートしてくれていたのに、いまやカウンターの席で小さくなっている彼女に対して、気まずかった。
「すいません、単品だけの注文でもいいですか……?」
板前さんにそう確認を取って、瓶ビール(1本1,000円もした)とフグのから揚げを注文し、ふたりでそれを分けた。お金のない若いふたりにとっては、それが限界だった。味など、しなかった。
板前さんは気を遣ってくれたのだろう、必要以上に僕たちに声をかけることはなく、奥の中年カップルの相手をしていた。
無言に満たされる、僕と彼女。中年カップルと板前さんのやりとりが、クリアなサウンドで耳に入ってくる。
「あー、なんかオレ、もうフグは食い飽きちゃった」
政治家風男性が、大声でそう言った。すごい、フグに飽きることのできる人間が、この世にいるなんて。こっちなんてフグに飽きるどころか、味もよく分かっていないというのに。
常連なのだろう、その政治家風男性は甘えるような口調で板前さんにこんなことをねだりだした。
「ねえ、オレさ、一回でいいから食べてみたいものがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「フグのカレー。フグが入ったカレーを食べてみたいんだよ。ねえ、作れない?」
お前はどこのマリーアントワネットだ。素直に、そう思った。高級食材をカレーにして食べるとは、なんたる贅沢。いまもこうしてフグのから揚げの小皿をふたりで分け合う庶民たちがいるという事実が、目に入っていないのか。
僕は憤りを感じると同時に、板前さんの返答に期待した。
板前さんにはフグ職人としての矜持があるはずだ。そんな板前さんに「フグカレーを作れないか?」などとは失礼千万、きっと彼は政治家風男性に対して皮肉たっぷりに、「ええ、作れますよ。フグの毒がたっぷり入ったカレーが、ね」と言い返してくれるにちがいない。
ところが、実際の板前さんの返答は、僕の期待を見事に、裏切った。
「ええ、作れますよ。今度いらっしゃる時にご用意しておきます」
作れるのか。そうか、作れるのか。
ここはどうやら、自分たちが入ってはいけない世界だったようだ。僕たちは瓶ビールを半分も残して、逃げるように店から出た。
外に出て、色んなことを思った。「気まずかったなあ」とか「この初デートは失敗だったなあ」とか「でもなんとか強引にここから付き合う流れにならないかなあ」などと思った。一番強く思ったことは「一度でいいからフグカレーを食べてみたいなあ」だった。
そして彼女に「いつか一緒にフグカレーを食べようよ(遠まわしな『付き合ってください』のつもりだった)」と告白をしたのだが、婉曲表現がハードすぎたためか、彼女はただ曖昧に情けなく笑うだけだった。
その時の彼女がいまの僕の妻である。
かと思いきや、そういうわけでは全然ないので、まったく人生いろいろ、カレーもいろいろ、である。