明治時代、アメリカに渡り帰国した祖父が焼いてくれた「ホットケーキ」 〜ルーツを知るために海を渡った孫の話〜

明治時代、アメリカへ渡った祖父。その謎多き足跡をたどってみると、見えてきたのは知られざる祖父の人生、そして当時の日系移民の姿だった──。思い出の味「ホッケイ」を交えて綴る、バック・トゥ・ルーツの物語。

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※写真はイメージです

 

20世紀の初め、鹿児島からアメリカに渡った一人の日本人青年がいた。

1885年生まれの南利助さんは、アメリカで数十年の移民生活を送った末、第二次世界大戦が始まる前に日本へ帰国している。

 

利助さんのアメリカ時代には謎が多い。多くを語らなかったこと、妻子を先に日本へ帰したこと、本人の写真がほとんど残されていないことなどが理由だ。

 

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しかし、孫の孝一さんが祖父の足跡を追ってアメリカを旅すると、わずかながら見えてくる一つの人生があった。利助さんの孫・孝一さんに話を伺いながら、明治期に夢を抱えてアメリカへ渡った日本人青年の移民生活を追ってみたい。

 

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▲どこか固い表情をしている(写真提供:南孝一)

 

※この記事は2020年3月に取材しました

 

カリフォルニアの風にて

利助さんの孫・南孝一さんは現在、鹿児島県霧島市で美容室「カリフォルニアの風」を営んでいる。この土地は、利助さんがアメリカで稼いだお金を元手に購入したもので、それを孝一さんが受け継いだ。

 

孝一さんが小学校に上がる前くらいに利助さんは亡くなったため、祖父の記憶はおぼろげだ。それでも強く印象に残っていることがあった。

 

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▲店の一角には祖父・利助さんと祖母・あいさんの写真が飾られている

 

「私が生まれた時、祖父は私の顔を見るなり『インディアン の子じゃ!』と大喜びしたそうです。よほど印象的だったのかその様子を母に繰り返し聞かされました。『おじいちゃんはインディアンが大好きだったからねえ』と」

 

※ 現在は「ネイティブ・アメリカン」「アメリカン・インディアン」などの呼び方がありますが、この記事では、利助さんの当時の呼び方そのままに「インディアン」を使用しています

 

1955年の夏、福岡県で生まれた孝一さん。それから65年の時を経ているが、確かに孝一さんの容貌はどことなくインディアンを彷彿とさせる雰囲気がある。

 

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▲この絵は若い頃に「自分に似ている」と思って購入したそうだ

 

「ずっと祖父の『インディアン』という言葉が私の心の片隅にありました。その影響でしょうか、子どもの頃からインディアンの工芸品や生活文化に興味を持つようになり、本や映像を通してその教えや考え方に惹かれるようになりました」

 

大学時代や社会人になってからは幾度となくアメリカへ通った。一時期はアメリカに自分の店を出したい、アメリカで暮らしたい、と本気で取り組んだこともあったが、移民法の壁は厚く高く、断念せざるを得なかった。

 

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孝一さんが営む美容室「カリフォルニアの風」は1985年にオープン。

アメリカのログハウス風の店内に、インディアンの工芸品や絵、写真を飾っている。孝一さんのインディアンへの憧れや思いが詰まった店内だ。

 

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▲利助さんの形見のネジ式時計。アメリカで購入したもの。今は孝一さんの宝物だ

 

孝一さんと祖父利助さんをつなぐインディアンの精神。どうして自分はこんなに惹かれるのだろうか? いつしか、「同じようにインディアンに思いを寄せていた祖父の人生をもっと知りたい」という思いが膨らんでいった。まるで故郷に焦がれるように……。

 

紆余曲折を経て2012年夏、孝一さんは祖父の足跡を追ってサウスダコタ州モブリッジへ旅立った。利助さんが一番長く暮らしていた街だ。

 

はるかなるアメリカ大陸へ

モブリッジは遠い。

 

まず、鹿児島空港から成田空港へ。その後、成田空港で国際線に乗り換え、約10時間のフライトを経てアメリカ大陸へ到着。さらにアメリカでも国内線に乗り換えてサウスダコタ州のラピッドシティ空港へ。丸々2日がかりの長旅だ。

 

ラピッドシティ空港で赤いレンタカーを借りた孝一さんは、広大なアメリカ大陸へ旅に出た。アメリカ中西部の抜けるような青空と荒野に赤い車。絵に描いたようなアメリカのロードトリップだった。いくつかのインディアンにまつわる史跡を巡ったのち、祖父が暮らしたモブリッジを目指す。

 

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▲スー族の戦士・シッティング・ブル、本名タタンカ・イヨタケ

 

旅の発端

ところで、なぜ2012年夏の旅立ちだったのだろうか? 

幾度となくアメリカへ行ったことのある孝一さんなら、祖父の足跡を追う機会はもっと前にもあったのではないだろうか?

 

「私は納骨堂にほぼ毎朝お参りしてから仕事へ行っています。そこにはじいちゃんとばあちゃん、父、兄がいます。ある日、いつものようにお参りをしていたのですが、ふいに『じいちゃんのお父さん、お母さんはどこにいるんだろう?』と思い至りました。何で今まで気にならなかったのか不思議です。そこで母に聞いてみても『知らん』と。会ったことすらなかったみたいで」

 

結婚相手の祖父母を知らない、一度も会ったことがない、ということは何かしら事情がありそうだ。

 

「(鹿児島県霧島市の)上井の方にじいちゃんの親戚がいるのは知っていたので、その方に電話して聞いてみることにしました。『祖父の父のお墓はどこにあるかご存じですか?』と尋ねると『僕たちが管理しているよ』と」

 

親戚を訪問し話を聞いてみると、思いがけない事実が明らかになった。

 

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▲パスポート用の利助さんの写真(写真提供:南孝一)

 

「私も初めて知ったのですが、じいちゃんは南家の養子だったそうです。実のお父さんは若くして亡くなっていて、上井にあるマツモト家から来たようです。詳しいことは何もわからないけど、養子のじいちゃんなりにいろいろあったんじゃないかな」

 

義両親、義兄弟との暮らし。どんなものだったのかは今となってはわからない。しかし、血のつながりのない家族との暮らしは、新天地を求めた一つの要因かもしれない。

遠くアメリカへ未だ見ぬ何かを求めて、もしくは何かから距離を置きたくて……。

 

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▲利助さんの遺品にカリフォルニアを紹介する冊子が残っていた。ページを開くと、美しい風景の数々が紹介されている。「Calfornia The Golden State」の「Golden」の下に「金色」と訳して書き込んでいるのが印象的(写真提供:南孝一)

 

「お墓にも行ってみました。じいちゃんの義両親、義兄弟の名前は刻まれているけど、じいちゃんの名前だけはない。じいちゃんの墓は今自分が管理している場所で、名前はじいちゃんからスタートしている。じいちゃん、ばあちゃん、親父、うちの兄貴……。そんなこともあって、それならじいちゃんをとことん調べてみようとアメリカ行きを決意しました」

 

アメリカへの旅は祖父のお墓参りをするような気持ちでもあったという。

 

祖父の影

旅の間、どの景色を見ても祖父の影を感じるようだった。

 

「ラピッドシティのレストランで食事をした時に、同じく店内にいたのは欧州系のアメリカ人ばかりでした。アジア系はほとんどいなくて。100年くらい昔、じいちゃんはこんな風に日本人のほとんどいない風景の中で暮らしてきたのかあ、と思いました」

 

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▲利助さんのアルバムにはアメリカのポストカードが残されていた。大木を列車で運ぶ絵から当時の空気感が伝わってくる

 

当時、日本人がアメリカで働くのは今とは比べ物にならないほどの困難があった。明治時代に始まった北米への日本人移民、1896年(明治29年)「移民保護法」で法制面が整うと、より活発に募集・送出が行われた。

 

しかし、アメリカは「世界で最も富める楽園」と紹介され海外移住が華々しく推奨される一方で、仕事の条件は欧州系移民と比べてずっと厳しかった。一時は安い労働力として歓迎された日本人だが、移住者が増えてくると欧州系の仕事を奪うものとされ、やがて脅威として見られるようになり、反日感情が高まっていく。

 

排斥の風潮は日に日に色濃くなり、1908年、日米紳士協約で日本人のアメリカ移住が大きく制限された。再渡航者とアメリカ在住者の両親妻子、一部の定住農場労働者などを除き、原則として渡米の旅券が発行されなくなった。

 

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利助さんが正式にアメリカへ渡った年は確認できていない。おそらく、日本から北米への移民が多かった1900~1908年の、10代後半~20代半ば頃のどこかだと思われる。

 

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▲シアトルのアルカイビーチ

 

利助さんはシアトルからアメリカに入国した。

 

f:id:kirishimaonsen:20200830112316j:plain▲アメリカ時代の写真。右側2列目にアジア系の男性が3人おり、その中の一番右が利助さんだ(写真提供:南孝一)

 

黒っぽい作業服を着た利助さんの写真が残されている。鉄道か架橋工事か、なにかしらの土木作業に従事していた。

 

結婚して新天地モブリッジへ

1915年にあいさんと結婚。利助さん31歳、あいさん20歳の時だ。

1908年の日米紳士協約でアメリカ渡航は制限されていた。だから法の抜け道を利用し、写真や履歴書の交換だけで結婚を決める「写真花嫁」としてあいさんはアメリカへ渡った。

 

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▲利助さんとあいさん。「Jackson Studio SEATTLE」で撮影(写真提供:南孝一)

 

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▲ポストカード。消印には「S・DAK MOBRIDGE」とある

 

しばらくはシアトルで暮らしていた利助さんとあいさんは、その後モブリッジへ。

どのような経緯でモブリッジに移ったのかは明らかではないが、このポストカードに手掛かりがある。サウスダコタ州モブリッジ在住の加藤夫婦からシアトルの南利助・あい夫婦に送られた絵葉書だ。

 

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▲ポストカードには「Bridge and Ferry Movridge,S D」と記載。ミズーリ河畔にかかった鉄橋が映し出されている

 

日本人コミュニティのあるシアトルを離れ、何の手がかりもなしに新天地を目指すのはあまりにも厳しい道のりだ。利助さんとあいさんはモブリッジ在住の加藤夫婦からの情報を頼りに、モブリッジへ移ったのだと思われる。

モブリッジの創建は1906年。当時はできたばかりの新しい街だった。

 

そして、モブリッジで暮らしている時に、長女・豊子さんと長男・高男さん(孝一さんの父)が生まれた。

 

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▲アルバムには赤ちゃんの写真が。豊子さんか高男さんの写真なのかはわからなかった(写真提供:南孝一)

 

Rice Minavi, one of the best cooks

アメリカ滞在4日目の2012年6月16日。ラピッドシティを離れて、いよいよ利助さんの暮らしたモブリッジへ向かった。奇しくもこの日は孝一さん57歳の誕生日だった。

 

「特に深い考えがあったわけではないですが、自分のルーツをたどる旅に自分が生まれた日を重ねたかったのかもしれません」

 

直線距離で250マイル。荒野の一本道をひたすら車で走り続ける。ほとんど対向車とすれ違うことはなく、地平線と丘と草原、どこまでも同じ景色が続いていく。

 

「6時間のドライブを経てモブリッジにたどり着くと、言葉にならない思いが胸に溢れてきました。中心街へ入ると幅の広い大通りがあって、両脇に石造りの建物が並んでいて、まさに西部劇映画そのままです。西部開拓時代から時が止まっているような街でした」

かつて祖父が歩いた道と、今自分が歩いている道が重なると感じた。

 

「街を一周して市街地に戻ると、偶然博物館の看板が目に入ったので何気なく入ってみました。博物館といっても普通の一軒家くらいの規模です。モブリッジは人口3,000人程度の小さな街なので」

 

係の女性が話しかけてくれたので、片言の英語で祖父がかつてこの町で働いていたこと、祖父の痕跡を探してこの街を訪れたことを説明した。

すると女性は、奥から分厚い本を手に戻ってきた。モブリッジ創建からの50年史を綴った『MOBRIDGE Its First 50 Year』である。利助さんが生きた時代の記録だ。

 

その“商業”の項目にもしかしたら何か手掛かりがあるかもしれない、と──。

 

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何かの参考になればと、モブリッジで生まれた父・高男さんの出生証明書を持参していった。

 

「2人でしばらくパラパラページをめくって流し読みしていました。すると“Rice Minavi”の文字が目に飛び込んできました。これは、じいちゃんだ……と気がつきました。涙が溢れてきました」

 

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苗字が“Minavi”となっているのは、おそらく記者が“みなみ”をそう聞き取ったのだろう。そして“Rice”はニックネームだと思われる。移民の間ではニックネームで呼ばれている人も多かった。日本人だからか、料理人をしていたからか、“Rice”と呼ばれていたのだろう。

 

新聞記事には、「proprietor(所有者)」で「one of the best cooks(町のベスト料理人の一人)」とある。祖父は日本から遠く離れて、このアメリカの大地で奮闘し、自分の店を持ち、その料理はおいしいと評判だったのだ。

 

はちみつ&バターたっぷりの「ホッケイ」

利助さんのレストランでどのような料理を提供していたのかは書かれていない。しかし、その記事は孝一さんの子どもの頃の記憶を呼び覚ました。

 

「私が小学校に上がる前くらいでしょうか。ばあちゃんはリウマチで関節は曲がっていて、薄暗い部屋で寝たきりでした。だからじいちゃん・ばあちゃん家に行くのは幼心に恐れのような気持ちがありました。そんな中、唯一の楽しみはじいちゃんが作ってくれる料理だったんです。子どもの頃は外でご飯を食べるのはあんまり好きじゃなかったけど、じいちゃんの料理だけは別でした」

 

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※写真はイメージです

 

利助さんが作ってくれた思い出深い料理はホットケーキだ。当時1960年頃だろうか。70歳を過ぎていた祖父がホットケーキを作ってくれる家なんて他にないだろう。

 

「はちみつとバターをたっぷりかけて食べるやつで。おいしかったですね。じいちゃんは『ホッケイ』なんて言っていましたが、今思えば英語風の発音ですよね。それと、じゃがいもを細かく切ってフライドポテトもよく作ってくれました」

 

おそらく利助さんはレストランでアメリカ料理の食堂をやっていたのだろう。フライドポテトやホットケーキを提供するような……。

 

係の女性は、モブリッジの創建100年史を一冊にまとめた「Mobridge Memories」を記念にプレゼントしてくれた。親身になってくれた女性に何度もお礼を言いながらミュージアムを後にした。

 

「最高の誕生日プレゼントでした」

 

帰り道の夕方、郊外の水辺で美しい夕焼けを見た。感慨を胸に、街の中華レストランで食事をしてモーテルへ帰った。

 

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▲その時河畔で撮影した写真。すべてが嘘のように美しかった

 

戦禍を逃れて

モブリッジで暮らした後、第二次世界大戦が本格化する直前に利助さんは日本へ帰国している。1940年前後で、利助さんが50代の頃だ。

 

実はその十数年前、妻子3人(あいさん、豊子さん、高男さん)を先に日本に帰している。

孝一さんの父・高男さんが物心つく前のことだ。高男さんはほとんど利助さんのことを知らずに育ち、アメリカのことも覚えていない。アメリカと日本の両方の国籍があったが、20歳の時に日本を選んだ。

 

一方豊子さんは日本で育った後アメリカに渡り、不動産業で成功を収めた。父親の精神を受け継いでアメリカン・ドリームを体現した。

 

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▲晩年の豊子さん。撮影当時80代くらいのはずだが、若々しくエネルギッシュな雰囲気だ(写真提供:南孝一)

 

利助さんは日本に戻ってからいくつか土地を購入していたため、蓄えができるほど店は順調だった。戦争がなかったらいつまでもアメリカに住んでいたのかもしれない。

 

「祖父はアメリカから自転車を持ち帰っていて、『国分(当時の国分市、現霧島市)で初めて自転車に乗った人だ』なんて話も聞きました。『アメリカ帰りの南どん』と呼ばれていたようです」

 

インディアンへの愛着は謎のまま

今回、孝一さんの話を聞きながら利助さんのアルバムに収められた写真を一枚一枚拝見した。

写真はただそこに貼られているだけだが、その時代を生きてきた利助さんの希望や喜び、郷愁といった感情が漂ってくるように思われた。利助さんは確かにこの時代に生きていたのだ。

 

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▲木を切っている様子が描かれたポストカード。一本の木を切るにも、今と比べ物にならないくらいの労力がいっただろう

 

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鹿児島の偉人・西郷隆盛が眠る南洲墓地のポストカード

 

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▲当時のロサンゼルスの様子が伝わってくるポストカード

 

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▲アラスカのゴールドラッシュを描いたポストカードもあった。「Thousands of Gold Seekers used This Trail」。黄金を求めて凍てつく大地の急峻な坂道を登りゆく人々が描かれている

 

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▲激しく写真を破り取ったような跡も。アルバムは思い出や歴史だけでなく、生々しい人間の感情さえも伝えてくれる。衝突や行き違い、怒りや悲しみ、確かに生きた人間の感情がここには残されている(写真提供:南孝一)

 

結局、この旅では利助さんがなぜインディアンにそこまで心を寄せたのかという謎については完全にはわからなかった。モブリッジのあるサウスダコタ州は昔も今もインディアンが多くいる土地だ。

 

1920年のアメリカの国勢調査を確認すると、サウスダコタ州には636,732人がいた。そのうち白人人口は618,862人、インディアンは16,243人、日系人はわずか38人だ。利助さんの暮らしていたモブリッジ周辺にも数多くのインディアンがいた。

 

同じ大地で暮らしていた。きっとどこかで交流があって、その中でインディアンに敬意を抱き、敬愛の念を持つようになったのかもしれない。マイノリティ同士、通じるのもがあったのかもしれない。

何があったのか今となってはわからないが、確かなことは利助さんが孫の誕生を「インディアンの子じゃ!」と喜ぶほど心を寄せていたことだ。

 

「こんな風に思うんです。祖父はインディアンの赤ん坊と何らかの関わりがあって、愛情を注いだのかもしれません。私が生まれた時、その子のことを思い出して喜んだのではないかなと」

 

あの中華レストランは祖父の店と同じ場所にあった

アメリカから帰国してから数カ月後。実家の物置に祖父が撮影した写真を見つけた。

 

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写真の真ん中に「BRIDGE CITY CAFE」とある。ミュージアムで見つけた新聞記事にあった名前と一致する。写真を眺めていた南さんはあることに気づいて手が震えた。

 

「モブリッジで夕食を食べた中華レストランと同じ場所でした。Googleのストリートビューで確認してみましたが間違いありません。正直料理はぱっとしなくて印象に残らないレストランでしたが……」

 

人口3,000人規模の小さな街とはいえ、偶然にも祖父の店と同じ場所にある店で食事をしたのだ。めぐりあわせと言わず何と言おうか。

 

写真でしか知らない土地へ船出して、あいさんと一緒にアジア人のほとんどいないサウスダコタ州へたどり着き、そこでレストランを開いた利助さん。その壮大な冒険の様子に思いを馳せれば、力強く生きた確かな証が感じられるようだった。

 

参考資料:

『もう一つの日米関係史 紛争と協調のなかの日系アメリカ人』(飯野正子著、有斐閣)
『国分郷土史』1973年版
『日系移民人名辞典 北米編』
『ネイティヴ・アメリカン―写真で綴る北アメリカ先住民史―』(アーリハーン・ハーシュフェルダー著、BL出版)
『船にみる日本人移民史ー笠戸丸からクルーズ客船へ』(山田 廸生著、中央公論社)
『南加州鹿児島県人史』

書いた人:横田ちえ

横田ちえ

鹿児島在住フリーライター。九州を中心に取材、WEBと紙の両方で企画から撮影、執筆まで行っています。鹿児島は灰が降るので車のワイパーが傷みやすいのが悩み。温泉が大好きです。

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