日々、リング上で熱い闘いを見せるプロレスラーたち。その試合の基盤にあるのはタフな練習、そして “食事” だ。その鍛えた身体を支えるための日々の食事はもちろん、レスラーを目指していた頃の思い出の味、若手の頃に朝早くから作ったちゃんこ、地方巡業や海外遠征での忘れられない味、仲間のレスラーたちと酌み交わした酒……。
プロレスラーの食事にはどこかロマンがある。そんな食にまつわる話を、さまざまなプロレスラーにうかがう連載企画「レスラーめし」。
今回の登場は「ド演歌ファイター」越中詩郎選手。
全日本プロレスに入団し、メキシコへ武者修行後にさらなる活躍の場を求めて新日本プロレスへ。UWFから帰ってきた高田延彦の蹴りを受けまくって逆転するファイトスタイルは、敵味方ともに称賛され「ジュニア版名勝負数え唄」と呼ばれるまでに。
その後、選手会と対立し「反選手会同盟」を設立、そしてメンバー増と共に「平成維震軍」を結成。その熱く泥臭い戦いは、当時のきらびやかなドームプロレスとは違うファイトを求めるファンたちを熱狂させた。
その後WJプロレスに所属した後、フリーランスとして幅広い団体に参戦。そんな中バラエティー番組『アメトーーク!』でのケンドーコバヤシのトーク(名セリフ「やってやるって!」のモノマネ)をきっかけに「越中ブーム」が再燃したことも。
新日本プロレス以降に活躍したイメージが強いが、デビュー当初はジャイアント馬場さんの付き人も務めた越中選手。上はジャンボ鶴田・天龍源一郎、下は三沢光晴といちばん濃い時期の全日本プロレスの頃のめしの話からうかがってみよう。
「体重100キロになったら海外遠征させてやる」
越中:若手の頃は練習の時間もイヤだったけど、それと同じくらい食事の時間もイヤだったね! ここまで(喉を押さえて)食べてるのに「まだ足りない、もっと食え」って周りが言ってくるんですよ。入門当時とか身体も出来てないですからね。細いうちはずっとそうです。入門当時は80キロくらいだったんですけど、すぐ上の大仁田さん(大仁田厚)・渕さん(渕正信)でも100キロありましたから。
── とにかく「食え、太れ」てのが若手時代なんですね。
越中:馬場さんも「体重100キロになったら海外遠征させてやる」って言ってましたしね。その頃印象に残っているのが、カブキさん(ザ・グレート・カブキ)にね、「朝3升水を飲め」って言われて。「水って重たいだろ、体重が増えるからいい!」って一升瓶の水を3本も飲まされたんですよ。先輩の言うことには「はい、はい」って言わなきゃいけないですからね。朝から3升も水を飲んでも、ぜんぶ小便で無くなってしまうんですけどね。たぶんカブキさんの思いつきだったと思うんですけど(笑)。
── 昭和の時代は新日本も全日本も、若手の扱いと無茶ぶりする先輩は変わらないですね(笑)。ちなみに越中選手の若手の頃って、他にどなたがいらっしゃった感じですか?
越中:自分らの上だと馬場さん、鶴田さん(ジャンボ鶴田)、天龍さん(天龍源一郎)がいて、小鹿さん(グレート小鹿)・大熊さん(大熊元司)・カブキさん、百田ブラザーズ(百田義浩・光雄)がいてロッキー羽田さんがいて。あと昭雄さん(佐藤昭雄)、桜田さん(ケンドー・ナガサキ)……けっこう海外遠征行ったり来たりしてるんで、いたりいなかったりはありますけどね。
── 同期というか、世代が近い若手だとどのあたりの方ですか?
越中:上が大仁田・渕・園田(ハル薗田)、その下の自分が1人で、その2年くらい後に後藤(ターザン後藤)が入って。三沢(三沢光晴)とかはもうちょっと後、4、5年後だね。
── あらためてすごい面々ですね。若手の頃はやっぱりちゃんこ作りからですか。
越中:そうですね。また小鹿さんが凝り性で、合同練習の最後に築地に行ってイワシを買ってきて、全部さばいてすってイワシの団子みたいなの作るんですけど、それがまた大変なんですよ! 今みたいにミキサーみたいなのとかないですから。見よう見まねですり鉢ですって団子作って……。
まさに昭和の全日本プロレスの黄金期。たしかにこんな名選手たちと食事を共にするなんて、若手にとっては非常に気苦労の多い時間だったでしょう。しかし「さらに大変なのは巡業ですよ!」という越中さん。当時の全日本プロレスは年間200日近くを全国で試合していました。
越中:僕らの時代は巡業というと泊まりは旅館だったんです。年間200くらい試合して、そのうち3分の2は旅館泊まりでした。でも先輩たちはだいたいその土地の偉い人に呼ばれたりして外出しちゃうから、僕ら若いのが旅館から用意された分を「食え食え!」って言われるんです。余らせちゃうのもったいないからね。……それが本当にキツくてね……(遠い目)。試合終わって「今日は(先輩レスラーが)何人いないの? 5人?」ってそれが気になっちゃって。
── 事前に食べさせられる量を計算しだすんですね。むしろ先輩選手たちが外出しない方がうれしい、と。
越中:いや、それがねえ、旅館だと上の選手は個室があるんだけど、僕ら下の選手は大広間に寝させられるんです。でもみんなその大広間で明け方くらいまで飲むから、こっちは寝てられないんですよ!
── 食べなくていいけど、寝られない!
越中:しかも夜中に「酒が足りない!」って言って、酒屋さんを起こして買ってこいとか言うんです。初めて来たような地方なのに。今ならコンビニとかもあるけど、いきなり夜中に酒屋さんの戸をたたきに行っても起きてくれないですよ。
── その中で、酒の席でひどかった先輩というと?
越中:馬場さんと鶴田さん以外全員ですね(キッパリ)。というかその2人は別のホテルとかだったりするんです。その2人がいないから荒れるんです。馬場さんがその場にいてくれたら、皆おとなし〜く食べるんだから(笑)。トップがいないから、たまったものを吐き出しちゃう。特に小鹿さんとか大熊さんは飲みましたね! もともとお相撲さんですから。
── 若手はそれにつきあわされて。
越中:ただ旅館泊まりとかは自分や後藤の時代まででしたね。三沢とかはもうビジネスホテルの時代だったんじゃないかな。三沢・川田(川田利明)の頃はずいぶん楽になってたはずですよ(笑)。それでも飲みに連れて行かれたりとかありましたけどね。ただみんなそうやって強くなってたと思うんです。試合とか練習以外の強さみたいなのも含めて、全部で強くなってたんですよ。
── キツイ食事の思い出ばかりですが、おいしいもの食べさせてもらった思い出はないんですか? スポンサーの方と豪勢なご飯を食べに行くとか。
越中:それもありましたよ。ジャンボさんが同じ寮に住んでたんですけど、どこかに呼ばれる時はよく連れて行ってもらいましたね。ジャンボさんって入団は大仁田さんより下だったけど、入ったら他の選手をいっぺんに飛び越えてメインイベントとかに立っちゃったんです。そんなの先輩たちからすると、正直面白くないわけですよ。だからちょっと年齢の離れた僕らを食事に連れて行ってくれましたね。面と向かって僕らにはは言わなかったけど、ジャンボさんも寂しかったと思いますね。
ジャイアント馬場さんとフィレオフィッシュの話
当時の全日本プロレスのトップといえば、ジャイアント馬場さん。若手時代、越中さんも付き人をはじめ、近い距離にいたといいます。連載第1回の小橋建太選手インタビューの時にも馬場さんの話が出てきましたが、馬場さんの様子は小橋さんが付き人をされていた頃とはぜんぜん違いました。
── 全日本の若手時代に食べたおいしいものの思い出ってなんですか?
越中:やっぱりステーキですね。のちに正式に付き人になるんですけど、ジャイアント馬場さんは巡業が始まる前になると、着替えとか荷物取りに行ったりするんですよ。それで呼ばれてたのがキャピトル東急(現ザ・キャピトルホテル 東急)。
── 馬場さんの定宿だったホテルですね。
越中:そこのレストランに「オリガミ」ってお店があってね。荷物を取りに行くと、「腹いっぱい食って帰れ!」ってめしおごってくれるんです。気を使って安いものを頼むと「馬鹿野郎!」ってステーキを食わされて、それ食べたら「1枚だけか!」って。
── 以前、小橋さんに話を聞いた時は、ぜんぜんおいしいものは食べさせてもらえなかったみたいですけど、なにか違いがあったんですかね。
越中:ああ、そうなんですか。僕はなんでも食べさせてもらいましたね。お寿司屋さんとか行っても、かっぱ巻きとか言うと「馬鹿野郎、好きなもの食え」って言ってくれて。高級料亭とかお寿司屋さん、ステーキ屋さん……メキシコ行くまではずっと付き人してたんで、いろいろ行かせてもらいましたね。
── やっぱり馬場さんだと、まわりも高いお店にしか連れて行かないんでしょうね。
越中:ただ、ひとつ面白い話があってね。北海道の巡業の時だったと思うんですけど、試合が終わってすぐ移動しなきゃいけない日があったんですね。それで付き人の自分とスタッフと馬場さんで、バンかなんかで移動して。それで途中で腹減ってきたんですけど、北海道だから行けども行けどもめし食うところが見つからないんですよ。
── さすが北海道ですね。
越中:そしたらマクドナルドがポツンとあったんです。それで僕らは腹減ってるから「馬場さん、他になにもないからマクドナルドで我慢してください」って言ったんですけど「いやだ」って言うんです。
── そういうところはかたくななんですね、馬場さん。
越中:それで僕らには「食べていい」って言うんですけど、あきらかに馬場さんの機嫌が悪いんですよ(笑)。「おれはそんなの食わない!」って言って。それで、フィレオフィッシュってあるじゃないですか、あれを出して「とにかく試しに食ってみてください! お願いします!」って言って渡して、馬場さんもフィレオフィッシュひとつでさんざんゴネたんです。「なんだこんなもん」みたいな。でもこっちも必死で食べてもらおうとお願いしてね。で、なんとか食べてくれてね。「……こんなうまいもんはない」って(笑)。
── あははは! ころりとフィレオフィッシュにやられましたか。
越中:それから1週間くらい毎日、フィレオフィッシュを食べてましたね。なにかあると「おい、あれ買ってこい!」って。
── 普段は最高級ステーキを食べてる人がハマっちゃったんですね。
桑田佳祐さんと会った馬場さんが……
若手に買わせてきたフィレオフィッシュを食べる馬場さん。その光景を想像するとほほえましいものがありますね。さらに馬場さんほどのビッグネームになると、行く先々で有名人との出会いが。
越中:あと食事とは関係ないですけど、富山で試合があって、宿泊したホテルの上がラウンジになってたんです。それで馬場さんとお付きの人と僕がそこでご飯食べてたんですよ。そこにサザンオールスターズの桑田さんがいらして、挨拶しにきてくれたんですよ。
── おお、桑田さんもプロレス好きで有名ですもんね。
越中:それで「桑田です」って言って、馬場さんはくわえ葉巻で「おう」って感じですよ。それで桑田さんが帰ったあと、ぼくに「おい越中、あれがゴダイゴか?」って言ったんですよ(笑)。
── アハハ! バンドってのは合ってますけど、なぜそんな間違いしたんでしょうね。
越中:なんでゴダイゴを知っていてサザンを知らないんだよ、って思いましたけどね(笑)。その後、自分は新日本に行ったので猪木さんとかも近くで見ることが多かったですけど、そういう時って猪木さんだと社交的なんで、サッと立ち上がって握手するんですよね、新幹線でもどこでも。でも馬場さんはどこに行っても照れ屋なんで、高倉健さんとかが来た時ですら席を立たずに「おう」って感じですからね。
── 性格はぜんぜん違うんですね、あらためて。
越中:でもやっぱり馬場さんと猪木さんは国民的スターでしたね。ホントに「誰でも知っている存在」でしたから、すごいですよ。
若手に優しかったブッチャー、シーク
また、越中選手がいた頃の全日本プロレスは、外国人選手もトップスターぞろい。若手選手はそのカバン持ちとして帯同することも多かった。
越中:付き人じゃないんですけど、ブッチャー(アブドーラ・ザ・ブッチャー)とか向こうのトップの外国人選手が来ると、カバン持ったりしなくちゃいけなかったんで、一緒に移動しましたね。マスカラス(ミル・マスカラス)にファンクス(ドリー・ファンクJr.& テリー・ファンク)、ハンセン(スタン・ハンセン)。このあたりはよく一緒に移動してました。マスカラスなんてカバンの数もすごいですからね。
── 外国人選手で印象的だった選手は?
越中:ブッチャーとかシークですね。毎日カバンを持ってると、最終戦になるとおこづかいくれるんですよ。
── なるほど、チップ感覚ですね。
越中:面白いのが、同じタイミングで来日している時だと、お互いを意識してるんですよ。「おいお前、シークから金もらったか?」ってブッチャーが聞いてきて、シークも同じことを聞いてくる。彼らは太っ腹でしたよ。あ、でもファンクスやマスカラスは何にもくれなかったですね(笑)。
── 「プロレスの悪役は、実は裏ではいい人だ」ってよく言われますけど、若手からすると本当にいい人ですね(笑)。
越中:でもブッチャーやシークは、電車移動とかで駅なんかに降りた時の威圧感とかがすごかったですよ。東京駅とか着くと、まわりのお客さんが怖がって勝手に避けちゃう。テレビでのプロレスの視聴率もすごかったから誰でも知ってたし、ターバンを巻いたあんなデカい外国人とか、その当時の日本人はそんなにナマで見た経験がないですからね。
メキシコでは三沢がいてくれたから生き延びられた
── 外国といえば、越中さんは全日で若手時代を過ごしたあと、メキシコに武者修行に行きますよね。メキシコでのめしの思い出というと?
越中:いや~、もう悲惨でしたね。当時はコンビニもないわケータイはないわ、それに国自体がアメリカといい関係じゃなかったから、スーパーマーケットに行ってもモノがぜんぜんなかったんですよ。スーパーでミネラルウォーターとか買おうとしても、キャップがもう空いていたりして(笑)。赤痢とか高熱のせいで、馬場さんに言われて100キロまで増やしていた体重が85キロくらいまで落ちちゃいましたからね。
── 現地では実際に何を食べてたんですか?
越中:なんか牛の脂がギトギトのものか、ひたすら辛いものかしか食べものがない、みたいな感じでしたね。タコスとかなんですけど、それも合わなくって。それからしばらくしてメキシコに行った時は、料理がすごいおいしくなってましたけどね。僕が行った当時はひどかった! その頃は政治も不安定で、食べられるのは許可もなにもないような怪しい屋台ばかり。灯りも暗いから何を食っているかもわからない。「この味はなんだ?」って言いながら食べてましたね。水分はコーラとかスプライトとかくらい。
── メキシコでは三沢さんと一緒だったんですよね。
越中:後輩でしたけど、海外だと一緒に力を合わせてやってくしかないから、先輩も後輩もなかったですね。でも三沢がいてくれたから生き延びられましたよ。日本では前座っていうか1,2試合目ばっかりだったんですよね。メキシコ行く直前で真ん中くらい。それがメキシコ行って何がすごかったって、僕と三沢で毎日メインイベントですよ。しかもメキシコシティにアレナメヒコってデカい会場があるんですけど、もう週末とかになると、2万人の前でそこで試合するんです。
── それは2人の試合が、現地のレスラーに比べてもレベルが高かったからですか?
越中:そうですね。だって、控室があるじゃないですか。僕らがいる時、スーパーの店員みたいなのやおまわりさんとかが控え室に入ってくるんですよ。なんだこいつら? って思ってたら、彼らが覆面をかぶって試合しに行くんです(笑)。
── みんな兼業レスラーなんですね。そういう中だと、専業レスラーは負けてられないですしね。
越中:ただ試合数が日本とはぜんぜん違いましたね。1年間ずーっと試合の予定を入れられてるんですよ。金・土・日は首都のメキシコシティなんですけど、あとは田舎で試合してました。オフィスに行くとスケジュールが貼ってあって、それを見てバスで行くか電車で行くか飛行機で行くかは自分で決めろっていう。しかも給料もお客さんの数によっての歩合制だから、交通費に片道800円かけて会場行って、試合して1,500円のギャラとか……こりゃ赤字だな~って思いながら帰ったりして。ずいぶんタフにはなりましたね。
伝説の新日本対UWF「熊本旅館崩壊事件」
過酷なメキシコでの生活を経て、新日本プロレスへと電撃参戦を決めた越中選手。おりしも参戦してきたUWFとの戦いの中で脚光を浴びることに。そして伝説の「夜の新日本プロレス対UWF」も越中選手は間近で見ていました。
越中:その頃は新日本と全日本もいい関係じゃかったので、最初はフリーみたいな感じで。間に坂口さん(坂口征二)が入ってくれて。ご飯とかもよく連れて行ってくれましたね。
── ポジション的にも中堅って感じで、全日本の時の若手の苦労もなく。
越中:自由ですよね。自分が食べたいものとか自分でチョイスできましたから。坂口さんが誘ってくれた時も、こっちに予定あれば融通きかせてくれたし。
── 断れる! さすが人間ができてますね、坂口さん。
越中:昔は断れませんでしたからね。新日本プロレス時代でめしの思い出っていうと、熊本の旅館の……。
── はいはい! 古舘伊知郎さんがテレビ番組の『すべらない話』でもやったやつですね。
越中:そうそう。いちど外に出たUWFの連中が新日本に戻ってきて、なにしろ関係がギクシャクしてるっていうんで、熊本の旅館でみんなで懇親会みたいなのをやろうってことになったんですよね。結局みんなベロベロに酔っ払っちゃって大げんかになっちゃって、旅館を1軒壊しちゃったって話なんですけど。
── リアル一軒家プロレス! 高田延彦選手や前田日明選手、武藤敬司選手らが全裸で大暴れしたとか、いろいろなエピソードが過去に出てますけども。
越中:……ひどかったですねえ(溜め息)。押せば開くドアを引いてブッ壊す、部屋にあった三面鏡は飛んでくる、トイレのパイプが折れて水が吹き出してる、そして旅館の仲居さんたちは泣いている。
── 越中選手はその時は何をされていたんですか?
越中:そりゃ僕はもう止める側ですよ! 7階か8階に行ったら、藤原さん(藤原喜明)とドン荒川さんがけんかしてるんですよ。「根性があったら飛び降りろ!」って言い合ってて、「いやいや飛び降りたら死んじゃうから」って、若いやつ呼んで2人を止めて。
── 修羅場ですね。
越中:あと、宴会場で後藤達俊が凶器を片手に持って「猪木どこいった!」って大声を出してて。その時、猪木さんと坂口さんは端っこでちょびちょび飲んでたんですね。それで猪木さんが「俺はここにいるぞ!」って言ったら、後藤が急に冷静になって「あ、どうも! おつかれさまです!」って返事して、「てめえ酔っ払ってねえじゃねえか!」って怒られたりとか……ひどかったですねえ。
── 他に止める側の人はいなかったんですか?
越中:あと藤波さんもいたんですけど、その日はレスラーだけじゃなくてリング屋さんも来ていて。そのリング屋さんがどうなってるか見にいこうって部屋に行ったら、大酒を飲んで吐いて倒れてたんで、藤波さんが掃除してましたね、リング屋さんの部屋を。
── ドラゴンさん、掃除してる場合じゃないですよ!
越中:普段から暴れてる人たちが、もうこういう機会だと今日は何してもいいぞ! ってなっちゃったんですよね。「お前ら、もう帰れ!」ってタクシーを呼んだんですけど、そのタクシーも下半身裸の高田と武藤が殴り合ってるの見て逃げてっちゃった。それで「もう一回呼べ!」って。
── そんな光景を見たら、タクシーだって普通は逃げますよ!
越中:旅館に最初に入った時は、中居さんが出てきて「どうも今日は泊まっていただいてありがとうございます」って感じだったのが、帰る時はもうみなさん泣いてましたね……それで後に請求書が届くわけです。350万か400万円くらいはあったかな? 坂口さんがそれ見て「お、意外と安かったな」って言ってましたね。
「維震軍はこんな場所なのか!」
本隊の最前線で戦い続けた越中選手ですが、小林邦昭選手と共闘し「反選手会同盟」を結成。その後メンバー増に伴い「平成維震軍」と改名、一大ムーブメントを巻き起こす。
── それから本隊と敵対して、「反選手会同盟」「平成維震軍」と自らチームを引っ張る側になります。そういう立場だと本隊とは移動とか別になるんですか?
越中:そうですね。本隊に外国人選手、それに僕らと、その頃は3つのバスで移動していました。ただ、本隊も外国人もいいホテルに泊まってるんですよ。すごく記憶にあるのは札幌の大会。他は会場近くのいいホテルなんですけど、僕らだけ札幌競馬場の近くとかで。市内にラーメン食いに行くのもタクシーで2,000円くらいかかるみたいな辺ぴな場所のホテルを割り当てられて……雪まつりの日かなんかで予約が大変だったのはわかるけど、維震軍はこんな場所なのか! っていうんで、試合でカマしてやろうみたいな気にはなりますよね。ハングリー精神というか。小林さん(小林邦昭)とかは新日の営業に本気で食ってかかってましたね。
── 営業に立ち向かうのが小林さんってあたりがリアルです! ちなみに維震軍は皆でめし食いに行こうとかなかったんですか?
越中:いやいやいや、みんな別です。控室もホテルも移動も一緒じゃないですか。帰ってきたときくらいは自由にしないと。そうしないと息詰まっちゃいますから。
── 自分がされてきたことは後輩に繰り返さない、理想のトップですね(笑)。
越中:やっぱり全日本時代のいやな記憶が……(笑)。まあ、酒のつきあいもそれはそれでレスラーにとって必要なことだよって思うんですけど、若い時に一生分飲んじゃったから、あとは楽しめる酒だけでいいやって。下の選手を連れて行ったりはしなかったですね。ただ、そういうお誘いが来る時もあるわけです。そんな時は彰俊(齋藤彰俊)と小原(小原道由)に行ってもらって。あの2人は、酒は飲むしめしもすごい食うから、呼んでくれた方も喜ぶんですよ。だから毎日お声がかかってましたね。一生懸命練習して、試合して、酒飲んで、みたいな毎日でしたね。ふたりとも朝会うたびに酒臭くてね。どんだけ飲んできたんだっていう(笑)。
── いい分業ですね、平成維震軍の働き方改革って感じで(笑)。
見た目の荒々しさとは一転、その内は越中選手という理解あるトップに恵まれた集団だった平成維震軍。だからこそ現在もプロレスファンに愛され続ける個性派集団であり続けることができたのでしょう。ただ、レスラーたちで飲む時について、こんなことを越中選手は話してくれました。
越中:長州さんや天龍さん、藤波さん、ジャンボさんなんかと食事に行ったことがありますけど、共通してるのがそういう席で一度もプロレスの話をしたことないんですよ。世間話ばっかりしてる。だから僕も後輩には、そういうところでプロレスの話をして直接聞いたりするんじゃなくて、プロの世界だから自分で感じたものを吸収しろ、それがアマチュアとの違いなんだよ、って言ってますね。おれはそういう形で教えてもらったと思ってるんで、後輩にはそういう形で伝えたいなと。「越中さん、俺もヒップアタックやりたいです!」とか言われても「知るか、おまえが考えろ!」って。
現在も現役のレスラーとして「やってやるって!」節をリングで見せつける越中選手。数々の苦労を乗り越えてきただけあって、人の良さのなかにも厳しさが垣間見えます。まさに古き良き時代の「サムライ・レスラー」なのです。