
「出汁(だし)」。
それは男子のロマンをいつだってかき立てる。
出汁という概念を知ったのは、小学4年生の頃だった。
母が味噌汁を作る際に、鰹節をお湯に投入しているその様子を訝しみ、「なんでそんなことするの?」と尋ねた。母の口から「この鰹節から旨味が出るのよ」と聞いた時の、その衝撃ったら、なかった。「うわっ……私の年収、低すぎ……?」みたいな感じで、口に手を当てて「うわっ……魚の乾物から、旨味が……?」と驚いたことを、いまでも覚えている。
その日から、僕の趣味は「出汁作り」になった。
親の目を盗み、まず鍋にお湯を立てる。
それから冷蔵庫を漁り、ハム、ソーセージ、ばら肉、卵、時には林檎や干し柿など、目についたものをその日の気分でフリースタイルに鍋へと放る。
そしてグツグツと、出汁を作る。
この出汁作りは、男子の冒険心というか、好奇心を実にくすぐるものであった。
普段より見慣れた食材から、暗中模索で旨味を発掘する。それは赤茶けた大地から、手探りで恐竜の骨を発掘するがごとき、ロマンに溢れた行為なのである。
発掘を終えた後の調査も、もちろん怠らない。出汁の味見だ。鍋いっぱいに広がったそのスープをお玉で掬い出し、おそるおそる口を近づける。
ばら肉の出汁は、安定の動物的うまさ。干し柿の出汁は、不安定の狂気的まずさ。勝ったり負けたりを繰り返しながら、僕は出汁作りの楽しさにのめりこんでいった。
もちろん、一連の発掘作業が親にバレてしまっては、ことである。事後処理は慎重に行った。
親が家に帰ってくる前に、出来上がったスープを飲み干して証拠隠滅。ばら肉やハムの出汁ならば、いとも簡単に胃袋へと消し去ることができるのだが、これが林檎や干し柿だと事態は困難を極める。甘味と酸味と苦みと生ぬるさとが渾然一体となった、その鍋いっぱいのスープを飲み干さなければならないというのは、もうほとんど「前世の罪でも償っているのか」みたいな苦行であり、臥薪嘗胆気分がハンパない。それでも涙目を浮かべながら、どんなに不味い出汁でも飲みきった。親に叱られたくなかったから。
使用した鍋もキレイに洗い、棚へと戻す。これで証拠隠滅は完璧かと思われたが、そこは小学四年生の浅知恵。帰宅した母親に「あれ?冷蔵庫に入れておいた干し柿、知らない?」などと尋ねられると、すぐさまうろたえた。
それでも「知らない。そういえばさっき、ガスの検針の人が来た。たぶんその人が食べたんだと思う。勘だけど」などと、シロアリのようなウソをついたりした。母親は「……ふーん」とだけ言って、それ以上の追及をしてはこなかった。
出汁作りのあとは、毎回のように、そんなスリルを味わっていた。
中学生になっても、高校生になっても、僕の出汁作りにかける情熱はとどまるところを知らなかった。追えば追うほどに、出汁というのは奥深い世界だった。
そもそも、最初に鰹節や昆布から豊かな出汁が出ることを発見した人は、凄い。海の生き物を陸に上げて、そこから一度天日に干して、お湯で煮たてることで出汁を作るだなんて。思いつきだけでは絶対に発見の出来ない手法だ。きっと僕のように、出汁に対して情熱を傾け、試行錯誤を何度も何度も重ねて、ようやく発見に至ったのだろう。
僕も先人に敬意を払いながら、まだこの世に発見されていない出汁を発見しようと躍起になっていた。
可能性はあった。僕は高校に自転車で通っていたのだが、その通学路であった環七通りは空前のラーメンブームに沸いており、次から次へと新規参入のラーメン屋が乱立していた。
「煮干しラーメン」「マグロラーメン」「鯛ラーメン」、さらには「たまねぎラーメン」や「ウニラーメン」など、ありとあらゆる新感覚の出汁の匂いを吸い込みながら、毎日僕は登下校を繰り返していた。
「ああ! 今日もたくさんの新しい出汁が、この世に産声を上げているんだ!」
きっと自分にだって、オンリーワンの出汁が見つけられるはず。環七のラーメン屋たちに先を越される前に、自分だけのオリジナル出汁を見つけるんだ。
出汁に対する想いは、加速していった。
帰宅部であった僕は、授業が終わるとすぐさま自転車を飛ばして下校する。そして、陽も落ち切っていないうちから誰もいない自宅でひとり、制服のまま鍋で湯を沸かす。そして下校途中にお小遣いで買った鶏肉やチョコ、長ネギやしめじなどを一緒くたに鍋へと投入し、ぐつぐつと煮立てる(この頃には、単品食材で出汁をとるステージから、様々な食材をブレンドして出汁をとるステージへと移行していた)。
怪しげな色の液体が、鍋の中を染める。
台所の小窓から射す西日が、僕の顔を照らす。角度によっては、魔女の実験室にしか見えないシチュエーションである。
同級生たちは、いまごろ、テニスや野球など、部活動で青春の汗を流している。
僕はいま、出汁をとるために、よくわからない汗を流している。
時給など1円も発生しない情熱だけが、そこにあった。僕は出汁に、青春のすべてを捧げていた。
この頃の実験は、毎回失敗していた。
ブレンド方式に移行してからというもの、美味しい出汁が生まれることは、一度もなかった。毎回、「晩年のゴッホか」みたいな、ぐちゃぐちゃとした色彩のスープが誕生していた。味は、いわずもがな、醜悪だった。
「いったい、なにが足りないんだろう…?」
完全に僕はスランプへと陥った。
「すでにスーパーで売られている食材では、まだ見ぬ出汁へ辿り着けないのか……?」
こうして僕は、狂気の道を歩むことになる。道に生えている雑草を煮てみたり、使い古したローファーを煮てみたり。
さらには隣の家に住んでいた祖父を訪ね、そのぶよぶよとした肘を見て、「この肘を煮れば、もしかしたら黄金の出汁が……」などと本気で思うようになるまでになっていた。
マッドサイエンティスト、誕生の瞬間である。
高校を卒業してからも、出汁作りに懸ける情熱が衰えることはなかった。
夜間学校に進学したので、日中も深夜も腐るほどの時間があり、ずっと出汁作りに精を出していた。
ある深い夜。僕は眠れず、やはり出汁作りを行っていた。
初心に戻り、冷蔵庫に入っている卵やゴーヤなどを使って、ぐつぐつと鍋を震わせる。
すると不思議なことに、涙があふれてきた。
自分はいったい、いま、なにをやっているのだろう。
大切なこの生きている時を、奇怪な出汁作りなんかに使っていて、いいのだろうか。
情けなさと寂寥とか混ざり、それでも鍋をかきまわした。爽やかさの欠けらもないその鍋の中の色は、そのまま自分の心の色のような気がした。
窓の外が明るくなりだしていた。朝が来たのだ。
ふと、台所の隅に、母親の姿が現れた。そして静かに、僕にこう告げた。
「おじいちゃんが、死んだわよ」
容態を崩し、ずっと病床にいた祖父。その日の夜が、峠と言われていた。
そうだった。僕は大好きな祖父に死がやってきていることが受け止められず、近くで付き添うこともできず、さりとて眠ることもできず、ただこうして出汁作りに逃げていたのである。
火を止めて、隣の祖父の家へと向かった。
安らかな顔を浮かべた祖父が、布団の中で、息もしないで眠っていた。
そっと祖父の肘を撫でた。子どもの頃から好きだったぶよぶよの肘は、なんだか乾いていて、出汁にしたいとはもう思わなかった。
お葬式のあと、祖父が僕に宛てた手紙が出てきた。病床の中で書いたものだと思われるその手紙の中に、
「立派なラーメン屋さんになりなさい」
という一文があった。
祖父は僕がずっと出汁作りに夢中になっていることに、気がついていたのだろう。誰も見ていないと思った僕の青春の姿を、祖父は見てくれていた。
それだけで、救われた気持ちになった。
ただ僕は趣味で出汁作りをしていたわけで、別にラーメン屋になりたいとかいう想いは、一切なかった。普通に保育士とかになりたかった。
手紙を机にしまって、天国に向かって「ごめんね」とだけつぶやいた。
あの日から、出汁作りは、していない。



