「クラフトビールを高く売るプロジェクトを始めます」元物理の先生→交通事故で一度業界を引退した異端児が提案する、絶品の限定ビールの味

クラフトビール好きの間では知る人ぞ知るビール職人、東海道ビールの田上達史さんがスタートさせた会員制プロジェクト「999heads」。ここでしか飲めない極上のビールを、賛同する999人の会員だけが楽しめるサービスだという。はたしてそのビールの味は?

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▲ビールを高く売るプロジェクト「999heads」の第1号ビールはこちら(写真提供:田上さん)

 

「このプロジェクトの目的は、高い価値のビールを高い価格で売ること」

2021年5月6日。クラフトビール好きには有名なビール職人、東海道ビールの田上達史(たのうえ・さとし)さんがスタートさせた会員制のプロジェクト999headsのWEBサイトは、こんな刺激的な文章で始まっている。

 

999heads.com

 

「このプロジェクトの目的は、高い価値のビールを高い価格で売ることです。ビール職人たちが技術のすべてを注ぎ込んだビールのみを販売します」

 

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▲「飲みたいビールが無かったので、自分でつくった」という田上さん。2016年につくった醸造所「風上麦酒製造」が業界にセンセーショナルなインパクトを与え、コアなクラフトビールファンの話題に。その後、交通事故で引退を考えるも、「東海道BEER川崎宿工場」のプロジェクトから誘いを受け、醸造技師として参加

 

このプロジェクトは、ブルワー(醸造家)が丹精込めてつくったビールを、賛同する999人の会員限定で販売するというもの。

会員権は30円と拍子抜けするほど安価だが、初回に購入できるビールは330mlの3本セットで5,000円(送料込み)。

 

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▲通常販売されている東海道BEERは同じサイズの3本で2,000円である

 

500mlの一般的な缶ビールが300円以下であることを考えると、確かに高い。

 

だが、これは田上さんが儲けるために始めたプロジェクトではない。

高品質のビールをつくってもそれに見合った適正な価格で売れない、儲からない、現在のビール業界の問題を背景に、より美味しいビールが楽しめる未来のために始めたものである。

 

「ビールをつくって金持ちになった人間は一人もいない」

まずはブルワリー(醸造所)が儲からない背景を説明しよう。

 

1994年のいわゆる「地ビール解禁」から、この業界はずっと赤字体質だったと田上さん。

 

解禁初期に登場したクラフトビールは「地ビール」とも呼ばれ、地元を盛り上げるためにとつくられたものも多く、自治体が出資した例も。

その場合、事業自体が赤字でも、まずは地ビールが話題になれば良しとされ、質と価格を高める努力がされてこなかった。

 

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▲仕込み作業中の田上さん。麦芽を投入しているところだ。大手の工場との規模の差を考えれば、量産ができないので価格の面で不利なのは言うまでもない(写真提供:田上さん)

 

また、ワイン同様に外来文化でありながら、ワインと違ってビールはローカライズが早かった。

日本に入ってきた時点で大手が参入し、一般的な家庭で毎日飲まれるような身近で安価な品として普及してきた。そのため、クラフトビールは製造が可能になった時点から大手との価格競争の中にあった。

 

設備産業であるビールは工場が巨大であるほど均質に、安価につくれる。個性が売りとなるクラフトビールが不利であることは言うまでもない。

 

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▲999heads第1号ビールに使用した麦芽とホップ。ホップ(写真右)は乾燥して押し固めた「ペレット」と呼ばれる品(写真提供:田上さん)

 

それにそもそも、日本でのビール製造はコストが嵩む。

 

「ビールの原材料はほぼ輸入されたものです。生き物である酵母でさえも輸入しており、酒税は外国の10倍。そこへきて近年、消費量も年々下降。こんな日本で正直にビールをつくって、儲かるわけはないのです」

 

「安くて不味いビールが望む未来ですか?」

そんな中で儲けを上げようとすると、手を抜くしかない。

 

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▲自分の好みのビールが飲みたい時に飲める状況、それがビール好きが選びたい未来ではないだろうか

 

「手間ヒマ掛けず、安くて不味いビールをつくるしかないのです。でも、それってビール好きのみなさんの望む未来ですか?」と田上さんは問う。

 

さらにいえば、儲からない状況が続くと新規に参入する人は減り、その産業は衰退していく。

 

直接販売などのルートが開かれ、状況は多少変わりつつあるものの、美味しかろうが、不味かろうが大根は1本100円と定められ、それ以上では売れないとしたら、やる気のある人ほど嫌になるはず。

 

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▲東海道BEER川崎宿工場内部。右側が工場になっており、ここでオリジナルのビールが生み出されている。もちろん、その場で飲むこともできる

 

1994年の地ビール解禁時に参入した人がリタイアする時期を迎え、新たに参入する人が減れば日本のクラフトビールは先細りになっていく。

 

ビール好きにとって、それはうれしい未来だろうか。

 

いつもの1本も、特別な1本も併存できるビール業界へ

 

といっても、すべてのビールを高くしようというのではない。

 

「差をつけなきゃいけないと思っているのです」

 

たとえばと田上さんが挙げたのは、大好きだという寿司の業界だ。

懐が寂しい時でも気軽に入れる回転寿司もあれば、1年、2年待ちでも予約が取れない高級店もあり、群雄割拠というにふさわしい状態が続き、その切磋琢磨が業界全体のレベルアップに繋がっている。

寿司業界だけではない。庶民的な食べ物の代表だったはずの焼き鳥やラーメンでも高級店や予約が必要な店が登場、多様化が進んでいる。

いろいろ選べるようになっているのだ。

 

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▲今日はこのビールにしようとその日の気分などで飲み分けられたら楽しいはず

 

ビールも同様に、毎日楽しむ飲み慣れた味もあれば、特別な日に選ぶスペシャルな1本もある、そんな状況になれば消費者としては楽しいはず。

他の飲食でこれだけ多様性を受け入れられるお国柄を考えれば決して無謀な試みではないと思う。

 

第1号ビール「アンタークチサイト」の意味は「南極石」

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▲我が家に届いた第1号ビール。どんな味わいか、どきどきしながら冷やす。ナイショだがラベルには間違いが。見なかったことにしてください

 

実際、田上さんの「今後のビール界をどうするのか、みなさんが決めてください」、つまり「メンバーになって高いビールを買ってください」という挑発に、多数の人が応じた。

最終的には999人限定にする予定だが、初回はそれより少なめの600人の募集となっており、開始から2週間後の5月20日時点でその3分の2は埋まった。すでに5月10日から第1号ビール「アンタークチサイト」の発送も始まっている。

 

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▲サイト内の掲示板にはすでに飲んだ人たちからの感想が書き込まれている

 

アンタークチサイトとは1963年に探検家・鳥居鉄也によって南極大陸で発見された鉱石で、南極石とも呼ばれる。

クリスタルのように無色で、最大の特徴は約25度で融点に達し、液体化してしまうこと。アンタークチサイトの発見まで室温程度で溶けてしまう鉱物は有史以前から知られる氷と自然水銀しかないとされてきており、新種の発見は人類史上、貴重なものだった。

鉱物は言い方を変えれば宝石。

その名を冠したビールは言ってみれば飲む宝石である。元物理の先生だったという田上さんらしいネーミングである。

 

よくあるタイプの、絶対ヨソにないビール

ビールのジャンルとしては大手ビール会社がつくっているのと同じピルスナー。

ビールは大きく分けると酵母の違いからラガーとエールの2種類に分類されるが、ピルスナーは前者のラガー。

すっきりした香りと味が特徴で、私たちが「とりあえずビール」と注文した時に出てくる、よくあるタイプと考えればわかりやすい。

 

が、田上さんがそんなビールをつくるわけはない。

 

「すっきりしていてごくごく飲める、そんなものを私がつくっても誰も喜びませんよね。だってすでに大手がつくってるんですから。私が目指したのは、すっきりと調ったベースの上に、華やかだけど重くない調和された美しい香りを乗せたビールです」

 

そして目指した通りのビールができあがったという。

私は今回の取材で初めてビールづくりにも設計図が存在することを知ったのだが、腕の良い職人になれば当初に意図した味を設計図に落とし込み、その通りの味をつくり出すことができるのだという。

 

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▲アンタークチサイト製造中の記録。日々温度や発酵状況をチェック、目指す方向を確認する(写真提供:田上さん)

 

「材料の配分はもちろん、麦芽を煮出す際に何度で何分にするか、発酵の温度はなどと2カ月半くらいの行動をすべて工程ごとに書き出し、それからつくり始めます。行き当たりばったりでその都度味が違うのが楽しいと考える人もいますが、私は行き当たりばったりにはつくりません」

 

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▲発酵中の様子。エアバルブから激しく炭酸ガスが噴き出ているところだという(写真提供:田上さん)

 

その田上さんにしても今回のビールは大変だった。

 

エールビールの倍以上の時間がかかる上に、繊細で手間もかかるからだ。

技術と労力が必要と各地の諸先輩方に教えを請い、多くのビールを飲んで完成させたそのビールはピルスナーだけど、これぞクラフトといえるピルスナー。

 

話を聞いているだけで飲みたくなるではないか。

 

初心者なら香りを楽しめるワイングラスで

というわけで、いよいよ、実飲(という言葉はあるのだろうか)である。が、その前に悩んだのはグラス。

サイトにはすでに多くの評が書き込まれているのだが、ビール好きはビールに合わせてグラスを替えるなどして味わっている。

 

だが、我が家にはそんなに多種のグラスはない。おそるおそる、田上さんに聞いてみると「初心者ならワイングラスで良いですよ」とのこと。

 

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▲頂き物のワイングラスを出してみた。何個も割った実績があり、滅多に出さないが私にとって特別なビールには特別なグラスを、である

 

すべてのワイングラスは香りを楽しむためにつくられており、クラフトビールもまずは香りを楽しんでほしいという。

通常、田上さんがつくっているエールビールは香りが強いので泡ゼロで飲むが、今回のピルスナーは5分の1くらいの泡を立てて飲むのがお勧めだという。

 

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▲とりあえず、注いでみた。色は一般的なビールに比べると濃いめ。泡はすぐに消える。なので、すいません、撮影中にだいぶ泡が減っている

 

そんなにきれいに注げるか、悩みながら滅多に使わないワイングラスを出し、注ぐ。

うまく注げた気はしないが、そこで悩んでいるといつまでも飲めない。

 

これまで飲んだどのビールとも違う、オンリーワンの味わい

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▲飲んでみる。苦みが気持ちよく広がり、余韻が長い、ものすごく長い。びっくりだ

 

どれどれとグラスを口元へ。最初に来たのは甘い香り。

うん、ビールだと思ったら次の瞬間には白葡萄のようなすっきりした香りに変わった。ビールなのに、果実っぽい。

おやおやと思いながら一口飲む。甘みもあるが、それがすうっと溶けるように苦みに変わる。尖った感じのない、きりっとした滑らかな苦みとでもいえばよいのだろうか、ずっと口の中で転がしていたい味わいである。

 

ミンクという毛皮があるが、あのどこまでも手触りがよく、でも絹の布のようにへなへなはしていない感じ。つまり、スムーズなのに手応え、厚みもあるということである。

 

ビール好きは理系やIT系に多い?

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▲いろいろ言葉を尽くすより、飲んでみるのが一番。美味しかった

 

と、一生懸命説明してみたが、簡単にひと言でいえば旨い。

すごく旨い。

 

これまで飲んだどのビールにも似ていないし、口中での余韻の長さはワインや日本酒、ウィスキーとも違う。

喉の渇きを癒すために飲むものではなく、味覚その他の感覚をフル活用してゆっくり楽しむためのビールで、いろいろな酒を飲んできた人にこそ飲んで欲しいと思う。個人的にはウィスキー好きに一番響く気がする。唯一問題があるとすると、これでビールの旨さに目覚め、沼にはまることだろう。

 

ちなみにビール好きは理系、そのうちでもIT系に多いそうだ。

製造工程に設計図があることからもわかるように、ビールは緻密な計算のうえにつくられている。

それを想像し、分類するのがたまらないそうで、ビールは頭でも味わうものということらしい。深いなあ。

 

※記事中の写真は緊急事態宣言前に撮影したものと、田上達史さんよりご提供いただいたものです。またインタビュー取材はオンラインで行っています。

書いた人:中川寛子

“真山知幸”

住まいと街の解説者。30数年不動産を中心にした編集業務に携わり、近年は地盤、行政サービス、空き家、まちづくりその他、まちをテーマにした取材記事が多い。主な著書に『この街に住んではいけない』(マガジンハウス)、『解決!空き家問題』『東京格差 浮かぶ街、沈む街』(ちくま新書)など。宅地建物取引士、行政書士有資格者。日本地理学会、日本地形学連合、東京スリバチ学会会員。

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