吉祥寺「ハーモニカ横丁」の生き字引が語る、この街の闇市時代の記憶

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シリーズ・中央線の名居酒屋vol.6 ハーモニカ横丁「ささの葉」(吉祥寺)

吉祥寺といえば、言わずと知れた「住みたい街ランキング」の常連だ。

 

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中央線で一番イイ街は、なんといっても高円寺! と個人的に思っている自分でも、吉祥寺の完璧さはに感服してしまう。

同じ中央線でも、例えば高円寺はどんなものも受け入れる街だと思っているが、街が提供してくれるものとなると、ある程度限られているのだ。

個性では吉祥寺をしのいでいるけれど、誰のニーズをも満たすというバラエティー感は弱いともいえる。

 

一方、吉祥寺は。

 

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ヨドバシカメラやマルイ、東急百貨店のような大きい商業施設が充実しているだけでなく、食の名店やアンティークショップなどの個人店も盛り上がっていて、中央線ならではの個性も外さない。

 

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ライブハウスや音楽スタジオに加え、新品販売の楽器店もあって、中央線に外せない要素である「ロック人口の多さ」や夜の街の楽しさもがっちり押さえている。

 

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動物園まで有する広大な井の頭公園があり、自然の豊かさも文句なし。

 

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中央線の駅は縦の移動がしづらいところが多く、それがネックになっているが、吉祥寺には京王井の頭線が渋谷まで通っているから、南北の移動だって抜かりない。

吉祥寺には、若い人もファミリーもお年寄りも、集まらざるを得ない……!

 

だが、その完璧さ&デカさゆえに、自分だけが知っている秘密の街、みたいな感じが薄い、ともいえる。

私も、それが理由で、なかなか足が向かなかった。

ちょこちょこ遊びに行くようになったのは、ここ数年だ。

 

あまりになにもかもそろっているゆえに、ひと言では特徴が挙げづらい街だともいえるが、そんな街で、はっきり「顔」と言えるのが、ここだ。

 

「住みたい街」常連の顔……ハーモニカ横丁

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駅の北口にある、「ハーモニカ横丁」だ。

 

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▲ハーモニカ横丁のほか、ハモニカ横丁、と呼ぶ人も(※本記事では「ハーモニカ横丁」で統一しています)

 

小さな飲み屋さんや物販店など、個人経営のお店が約100店舗ほど集まった、懐かしさとモダンさが入り交じった横丁である。

昼間に通ると、見過ごしてしまう人もいるかもしれない。

 

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夜になると一転、赤ちょうちんがあらがいがたい光を放つ。

吉祥寺に興味を持てば、その名前は自然と耳に入ってくる。

 

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吉祥寺の表の顔を井の頭公園とするなら、裏の顔、あるいは両A面みたいな存在が、ハーモニカ横丁といえるのではないか。

 

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私がはじめてハーモニカ横丁を訪れたのは、10年くらい前だっただろうか。

いつも、友達に連れられて、恐る恐る足を踏み入れてきた。

友達の行きつけやおすすめのお店に入るときもあれば、店名も見ず、なんとなくピンときたお店に入ったこともあった。

音楽スタジオに入ったあと、まだ日も暮れきらないうちからビールを飲んでいたりすると、中央線ライフを楽しんでいるな〜という実感で、さらに気持ちよく酔えた。

 

こうやって気に入ったお店に、また別の友達と行こうとすると、店名も、詳しい場所も覚えていなかったことに気づく。

ハーモニカ横丁は、小さなお店がいくつも迷路のように並んでいるから、ちゃんと店名を覚えておかないと、なかなかたどり着けなかったりするのだ。

 

こんなお店だったかな? まあいいや、入ってみよう。

そんなふうに新しいお店を開拓していくうちに、この迷宮に、どんどん新しいお気に入りのお店が増えていく。

 

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吉祥寺というどメジャーの駅の真ん前にありながら、そんな迷路のような異空間が広がっていて、すぐそばにパルコがあるとは思えない、独特の空気が漂っている。

 

そんな、吉祥寺の顔ともいえる横丁だが、いったいどうやってできたのだろう?

少し調べてみると、戦後の闇市がスタートだったという。

 

商店街のルーツが闇市であることは少なくないそうだが、戦後70年を経た今となっては、なかなかその雰囲気がイメージしづらい。

 

そこで今回は、なんとハーモニカ横丁ができた当時を知る人物へのインタビューを敢行することにした。

 

吉祥寺をはじめ、武蔵野市の街の魅力をPRし続けている「武蔵野市観光機構」の協力を得て、ハーモニカ横丁をまとめる「北口駅前連合会」で7代目の会長も務めた方、水野秀吉さんをご紹介いただいた。

 

ハーモニカ横丁の「闇市時代」を知る人

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昭和7年生まれの水野さんは、御年86歳。

お孫さんが10人、ひ孫も6人いらっしゃるという。

そんな水野さんの戦後に、しばしタイムスリップしてみよう。

 

ハーモニカ横丁は、吉祥寺駅前で開かれた闇市がスタートだが、水野さんの物語は、まず新宿で幕を開く。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:その頃の新宿に、露天商を取り仕切る組合みたいな連中がいたんですよ。私が13歳くらいのときだね。今の新宿アルタから伊勢丹のあたりの歩道の両側に露店があって、そこで国鉄の忘れ物の払い下げを一般の人たちに売っていたんです。おやじがその組合の親分と仲良くしていたから、そこで、売った人がその利ざやをいくら懐に入れたか、監視する役目を頼まれたんですよ。子ども同士、道で遊んでるふりをしながらやってたから、怪しまれなかった。でもそうしているうちに、今度はその人たちに仕返しされるんじゃないかって怖くなって、家から近かった吉祥寺に家族で移ることにしたんです。

 

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▲現在の吉祥寺駅北口ロータリーの風景

 

──いきなり吉祥寺に移って、すぐに露店が出せるものなんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん::当時の露天商の組合からもらった鑑札みたいなものがあって、それを持っていれば東京駅から八王子まで、どこでも露天でお店を開く場所を提供してもらえたんです。吉祥寺駅のあたりは、空襲から駅を守るために、駅周辺のお店や市場を壊して原っぱになってたんで、そこに新聞紙を広げて、縄でくくって露店を出したのが闇市の始まり。その頃は、北口のロータリーやダイヤ街(ハーモニカ横丁の北に現在ある商店街)のほうまで露店が広がってたんですよ。当時はダイヤ街にアーケードがなくて、普通のお店の前の歩道にさらに掘建て小屋を建てて、わたあめとか作業服とか花火とおもちゃなんかを売ってた人がいたね。

 

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▲現在のダイヤ街のようす

 

──今のハーモニカ横丁のあたりだけじゃなくて、もっと広い範囲で闇市が展開されていたんですね! 水野さんは、何を売ってらしたんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:私は、みかんを売ったのが始まりです。最初は、ものがなくてろくに食事もできないのに、みかんなんて売れるわけないって思ってた。でも吉祥寺って、インテリやお金持ちが住んでたんですね。一般の人が芋を食べてたような時代でも、みかんみたいな高級品を買う人がいたわけ。売ったらすぐ夜行で静岡・清水の港そばに大きなみかん問屋があって、そこで仕入れては売っての繰り返し。向こうに行くとお風呂と食事が用意してあって、寝るところもあった。始発に間に合うように起こしてくれるんです。リュック一杯にみかんを入れて帰ってきて、10個ずつ山にして売りました。

 

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▲写真はイメージです

 

──清水まで行く切符って、手に入れるのが難しそうですが、どうされてたんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:切符も、その露天商の組合のルートがあって、頼むとすぐ手配してくれたんです。当時、戦争孤児はやることがないから、1日中並んで汽車の整理券をもらって、そのあたりを仕切っていたような人たちに渡してお小遣いをもらってたみたいなんだよね。東京駅の八重洲口から新橋までずらっと並んで、進駐軍からもらった分厚い段ボールを下に敷いて並んでたんです。

 

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▲写真はイメージです

 

──新宿時代のつながりが、水野さんを助けてくれたんですね。ハーモニカ横丁ができるまでずっと、みかんを売っていたんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:みかんがなくなると、今度は塩を売りました。御前崎の砂浜で作ってるいい塩を仕入れてきてたんですよ。それを農家に持っていって、米に換えてもらって、また吉祥寺の闇市に戻る。早く仕入れに行きたいから、売る暇も惜しくて、その米をほかの露天商にお金に換えてもらって、また仕入れに行ったんです。

 

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▲写真はイメージです

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:他には、さつまいもを栽培するための芽がうまく出なくてまだ養分が残ってるようなのをもらって、それも売りましたね。すると吉祥寺のおかあさん連中に飛ぶように売れた。みんな闇市ってばかにするけど、当時闇市がなかったら、人々は生きていかれなかったんじゃないかと思いますよ。

 

──「闇(ヤミ)」っていう言葉から暗いイメージがありますけど、ごく普通の家庭の人々が生きて行くうえで欠かせないものだったんですね。闇市から今のような横丁になるまでには、どんな流れがあったんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:その後、マッカーサーの指令で、財閥や銀行みたいな大きな組織を解体する動きが始まったんです。それによって露店を仕切ってる組織も解体されて、露店も廃止されることになったんですよ。その後、武蔵野市と、このあたりの土地を管轄してる月窓寺(北口にあるお寺)が協議して、民間の人たちが「祥和会」っていう商店会を作ってもらったという流れです。それが1947年。

 

最初は原っぱで、勝手に新聞を敷いてお店を出してただけだった

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▲特に昔の横丁の雰囲気が残っているという路地

 

──それが、今あるハーモニカ横丁につながっていったんですね。そういえば、露店から、ちゃんと建物の形になった経緯ってどんなものだったんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:こういう形になったきっかけは、昭和33年です。本当は、ここに建物を建てちゃいけなかったんだよね。最初は原っぱで、そこに勝手に新聞を敷いてお店を出してただけなんだから。そこにみんなで、夜中にぱっと小屋を建てちゃった。それが改修を重ねながら、今も残ってるの。当時、市役所の1年間で一番長い休みがお盆の連休だったんだけど、その時期なら役所の職員の人も見に来ないだろうと計算して、一気にやったんです。

 

──えー!! なんとパワフルな……!

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん::でも、露店やってた人たち全員が入れたわけじゃないからね。

 

──水野さんは、露天商の組合の鑑札を持っていたから入れた感じなんでしょうか

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:そうそう、それ持ってきゃどこでも顔がきいたからね。

 

その後、水野さんのお父さんが横丁内で「東金水野青果」という八百屋さんを始める。水野さんも独立し、のちに「万葉八百屋」の屋号となる八百屋さんを始め、西洋野菜を販売していた。万葉集に出てくる野菜の歌を短冊に書いてぶら下げ、お客さんに配布するという試みもあったというユニークなお店だ。

今でこそハーモニカ横丁といえば居酒屋さんやバーなど飲食店のイメージが強いが、当初は八百屋さんや魚屋さん、衣類の販売店など、物販系のお店のほうが多かったという。

 

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▲現在も物販の店舗がみられる

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:そういうお店のお嫁さん同士が、すごく仲がいいんだよ。果物屋さん、ラーメン屋さん、鮨屋さん、洋服屋さん、文房具屋さん……みんな1年くらいしか年が違わなくて、嫁さん同士でがっちり組んで、親父連中はいつもいじめられてた(笑)。暮れになるとお嫁さんたちだけで忘年会やって、男は来ちゃだめ! って言われましたよ。

 

横丁自体がひとつの街だったのだな、と思わせるエピソードに、思わずほほえんでしまう。

 

「こんな汚いところが東京にあるのね」

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そんなお話を聞きながら、横丁内の昔の名残りを残す場所を案内していただいた。天井を見上げると木が組まれており、平成とは思えないムードだ。さっきのお話の風景にタイムスリップできそうな気がする。

 

「ハーモニカ横丁」とひとつのくくりで呼ばれているが、実はハーモニカ横丁は5つの商店街からできている。南北方向に通りが分かれており、吉祥寺駅の北口に近いほうから順に仲見世通り、中央通り、朝日通り、のれん小路、そして水野さんも八百屋さんを出していた祥和会、と続く。

 

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▲のれん小路の奥では、現在でも井戸の名残りを目にすることができる

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:以前はこの5つの商店街に、 1つづつ井戸があったんですよ。一度地下を見たことがあるんだけど、すごく冷たい水が流れてた。お豆腐屋さんなんかがその水を使ってたんだよね。今も、祥和会の「コパンダ」のところに、その跡が残ってますよ。あの水を利用して、夏にすだれのように落としてクーラー代わりにしたり、火事が起きてもいち早く消せるようにしたいなと思ってたんだけど、実現しなかったね。

 

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その祥和会に、「三久畜産」という文字の残る、古い看板があった。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:こういう看板、お店を新しく買う人がいると大抵取り外しちゃうんだけど、ここの人は思い出にこだわって残したんだね。

 

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このように、一坪、広くても2坪、もっと狭いと半坪という小さなお店がいくつも並ぶ様を、地元作家の亀井勝一郎氏がハーモニカの吹き口に例えたところから、この一帯が「ハーモニカ横丁」と呼ばれるようになったのだそうだ。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:ここは、闇市の頃からそのまま残ってお店になったところ。一坪の半分の間口で、はまぐりやあさりを売ってたんです。今やハーモニカ横丁は世界的に有名になったから、フランスのパリコレの人たちも来たことがあるんだよ。キレイな人たちが10人くらいでやってきて、なにか話してるんだけどフランス語でわからないから、通訳の人に聞いてみた。そしたら「こんな汚いところが東京にあるのね」だって(笑)。

 

パタリとお客さんが来なくなった時代

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たしかに、大きなビルがたくさん建っている吉祥寺の街で、ここだけ明らかに違う時代を生きているように見える。再開発で古い街並みが消えていく街も多いなか、この横丁はどうやって今にその姿を伝えているのか。その後の時代の横丁物語も、引き続きお聞きしてみよう。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:昭和44年、駅前に「吉祥寺ロンロン」(現在のアトレの場所にあった商業施設)ができたのには衝撃を受けたね。あっちはクーラーも暖房も完備してるけど、こっちは総天然色だからね(笑)。夏は暑いし、冬は寒い。だから物販のお店にとっては、脅威的な出来事だったんだよね。でも飲み屋さんなら、暑いのも寒いのも平気でしょ。お客さんは酔っぱらっちゃってるわけだから。だから飲み屋さんがはやって、今ではほとんど飲み屋街になっちゃった。

 

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▲道路を挟んで向かいにある、アトレ吉祥寺(かつてのロンロン)を見つめて

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:そのロンロンができたとき、お客さんが来なくなっちゃって、シャッターを閉めたお店が増えたんで、なにか策を練ろうってことになったんです。新聞広告を打ってみたんだけど、それでもぜんぜんお客さんが来ない。こりゃだめだってことで、テレビがいいんじゃないか、って話をしたんです。取りあげてもらうには、なにか理由を作んなきゃだめだよね。

 

──取材されるための話題づくりですね。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:そんな頃、ハーモニカ横丁の屋上に変なものがあるから調べてみよう、っていう企画が持ち上がったんです。魚屋さんが屋上で干物を作ってたり、当時は猫がいっぱいいたことが取りあげられたりして、それが面白いってことであちこちのテレビ局でハーモニカ横丁が取りあげられることになったんですよね。商店街をビルにしようっていう話も、何度も出ているけど、今もハーモニカ横丁が残ってるのは、マスコミの力が大きいと思うね。あとは、成蹊大学なんかの学生さんも、随分と応援してくれた。商店街で企画をやってくれたり、法政大学の学生さんが調査に来てくれたりもしたね。

 

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▲かつての「万葉八百屋」前にて

 

現在では八百屋さんを閉めている水野さんだが、ハーモニカ横丁とのつながりは、今も続いている。

 

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f:id:Meshi2_IB:20180904144035p:plain水野さん:朝になると、「美舟」って飲み屋さんのごみ出しを手伝ってますよ。息子が以前アルバイトしてたんです。今までいろんなことがあったけど、自分でも楽しんでやってきましたよ。戦争中からつらい思いしてたから、こんなものぜんぜんつらかないと思ってた。私は闇市のときからここにいるから、ここが第二の故郷みたいなもんだね。1日1回来ないと、落ち着かないんです。

 

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水野さんのお話を聞いて、単にレトロで面白い街だなあ、と絵のように捉えていた場所が、さらに奥行きを持って立体的に浮かび上がってきた。

最近では、「呑んべ横丁」の名で知られる葛飾区の立石で再開発が決まったというニュースが、古き良き街並を愛する人たちの耳を騒がせている。そんな時代の流れのなか、ハーモニカ横丁のような場所が黎明(れいめい)期の姿を残しながら存続していることは、本当に奇跡的なことなのだ。

オリンピック開催に向けて東京の街がどんどん変わり続けている今、ぜひハーモニカ横丁に実際に足を運んでみてほしい、という思いが、ますます高まっている。

 

ハーモニカ横丁の名店「ささの葉」

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そこで今回ご紹介するのが、さきほど水野さんが教えてくださった井戸のそばにある、「ささの葉」だ。

 

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マスターの中村純道さんが、ひとりで切り盛りしてうまい刺身を出す。

カウンターとテーブルひとつだけの、小さなお店である。

 

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メディアにもたびたび登場するお店だが、のれん小路の奥の突き当たりのような位置にあり、開店早々に席が埋まることも多いので、初めて訪れるには挑戦しづらいかもしれない。

あまり早くから並ぶと迷惑になりそうだし、かといって開店時間の20時ちょうどに来たらすぐいっぱいになってしまいそうだし……と、なかなか悩ましいのだ。

 

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頃合いを見計らいつつ、周辺をウロウロ。

初めて来たときは、たまたま同様の理由でたたずんでいた人が連れのフリをしてくれたため、運良く一発目で入れた。

今日は2人組の女性と楽しく話をしながら、開店5分ほど前にお店へとにじり寄ってみた。

 

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オープン後、どんどん席が埋まってゆき、「空いてますー?」とお客さんが代わる代わる顔をのぞかせていく。

たとえ満席でも、そこまで長っ尻をする人ばかりではないので、諦めずにちょこちょこのぞいていれば、わりと入れるようだ。1人、2人ほどの人数なら、なんとかなることが多いとのこと。

お店には、メニューらしいメニューは出ていない。

カウンターにネタの入ったケースがあり、入口のほうでは鍋がふつふつと煮えて湯気を立てている。

キョロキョロしていると、すぐ裏手にある、メンチカツで有名な肉屋の「さとう」の台車が、後ろをゴロゴロと通り過ぎていったりもする。

www.hotpepper.jp

 

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ビールは、エビスの瓶のみだ。まずはこちらを1本(600円)注文。

 

お店に入った順に食事メニューを頼めばいいのだろうか。常連らしき人の動きをうかがいながら、「これください〜」と刺身盛りを注文する。

 

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その日のネタによって変わるが、2,000〜2,500円が中心だ。

あふれんばかりというか、すでに皿からあふれている!

これは、ささの葉に来たら、ぜひすべての人が頼むべきメニューである。

とろけるような生マグロや新鮮なえびもたまらないのだが、ぜひじっくり味わってほしいのが、貝類だ。

私は貝がかなり苦手で、自分からは絶対に頼まないのだが、ここで出る貝はどれも臭みがまったくなく、大ぶりで、甘くて、プリプリしていて最高。自分はもしかしたら貝が好きだったのかも? と思わされる味だ。

手前のシャコも初体験だったが、ささの葉がシャコデビューでよかったと思わせるうまさ。えびのうま味をさらに濃厚にしたような味で、ギュッと身が詰まっており、香りは意外とすっきりしている。

この刺身盛りにまた、エビスビールが合う!

 

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醤油は、2種類ある。背が高いほうが大分の醤油で、低いほうが千葉の醤油。

「西高東低」と覚えると、酔っていても間違えずに手に取れるかもしれない。

ほんのり甘い九州の醤油が、貝をますますおいしくしてくれていると感じた。

 

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常連さんいわく「ここはトリ貝が最高。寿司屋さんでもこんないいの、なかなか出ないよ」との話だ。

写真では伝わりづらいかもしれないが、1人で来たらこの一皿だけでお腹いっぱいになってしまうほどの量がある。

でも、たとえ1人で来たとしても、絶対に頼んでほしい。

 

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そして、ささの葉を代表する酒が「司牡丹」(500円)だ。

 

日本酒はほかにも、伊佐美や御岳などの銘柄がある。

司牡丹は、すっきりしていて料理の邪魔にならないのに存在感もあり、この肴をますますおいしくさせてくれる酒だと感じた。

 

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──「司牡丹」は、マスターがお好きで入れてるんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144546p:plain中村マスター:そうです。いつもその日の開けたてですよ。1日たつと、味が変わっちゃうからね。

 

司牡丹を味わっていたら、店先の鍋の湯気に誘われて、思わずこちらを追加してしまった。

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▲牛すじの煮込み(2,500円)

 

これまたボリュームがすごいのだ。

1人ではなかなか食べきれないから、人を連れていくのをおすすめしたい!

プリプリの牛すじと酒を交互に味わう幸せ。だしまで全部飲み干したくなってしまう。

 

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▲この日はとりわけ、若いお客さんが多かった

 

こういう雰囲気のお店だと、常連さんだけで埋まっていて一見で入りづらいイメージがあったのだが、何年も通っている常連さんが来るのはもちろん、それと同じくらい初めてのお客さんも多いという。そんな風通しのよさが、飲み慣れない身にもうれしい。

かといって、なれなれしかったり、騒がしかったりする雰囲気とも違う。

マスターの存在が自然と関所のような役割を果たして、いい雰囲気で飲めるようなお客さんが集まっているようだ。

ちなみに以前来たときは、他人が聞いてもさっぱりわからないマニアックな話を繰り広げていた人や、恋人との結婚の話をしてくれた人、今日は昼の12時から飲んでるんですよ〜という2人組、すでに5軒めだというまた別のグループなど、本当にいろんな人種のお客さんが楽しく過ごしていた。

 

こうして飲んでいたら、あることに気づいた。

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ささの葉の店内の照明が、すごく明るいのだ。

こういういい雰囲気の飲み屋さんだと、ちょっと照明を落としてあったり、あるいは細かいことにこだわらない店主ゆえに電灯がチカチカいっていたりもするが、ささの葉の店内は、くまなく明るく照らし出されている。

 

その理由を尋ねると「暗いと、おいしくないからね」とマスター。

確かに、このみずみずしいお刺身は、明るいところで食べたくなる。

 

ところで、なぜカウンターだけの小さなお店で、こんなにおいしい刺身が食べられるのだろう? ふと疑問に思い、マスターに開店までの経緯をうかがった。

 

「ささの葉」の歴史は物販のお店から始まった

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▲「コパンダ」付近のようす

 

──お店は創業昭和49(1974)年にオープンされたんですよね。その前はどこかで別のお店をやられてたんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144546p:plain中村マスター:以前は向かいにある「コパンダ」のところでお店を出していて、そのあとここに移転したんです。その前もハーモニカ横丁で、魚を主にした食料品の販売をやってたんです。当時、隣が「バッカス」っていう焼き鳥屋さんだったので、そこで包丁を研いであげたりもしました。その前は寿司屋さんの手伝いとか、いろいろやってたね。

 

──その頃に培った目と腕があるから、お魚がおいしいんですね! その修業時代って、ちょうど吉祥寺の開発が盛んだった頃にあたるんでしょうか? 昭和40年代の。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144546p:plain中村マスター:そう。その頃と雰囲気は大分変わってます。その時代は物販が多かったんですね。飲食店は少ししかなかった。あとは魚屋さんとか、物販のお店がずっと並んでたんです。

 

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──飲み屋さんは、どうやって増えていったんですか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144546p:plain中村マスター:みなさん、年齢から辞めざるを得なくて、他の人にお貸しして変わっていったんですよ。

 

──2代目への、世代交代ということですか。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144546p:plain中村マスター:そうです。駅ビルやスーパーが、たくさんできたからね。

 

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──中央線だと、三鷹は比較的最近再開発されたのでまだ真新しい感じがありますが、吉祥寺は再開発から40年くらいたっているから、時とともに変化した面白さがあると感じています。マスターは吉祥寺の魅力はどうやって生まれたと思いますか?

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144546p:plain中村マスター:若者の宣伝が作ったんですよ。2代目の人たちが、一所懸命頑張ったから。地代が高いから、活気を作って頑張らなくちゃならないんですよね。

 

──お店の家賃が高い街だからこそ、お客さんがたくさん集まるよう工夫をしなきゃいけない……。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144546p:plain中村マスター:そういうこと。

 

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──普通ならマイナスになるような要素が、かえって街のにぎわいにつながったという側面もあるんですね。以前の吉祥寺を知る人の中には「昔のほうが面白かった」って言う人もいると聞きますが、そのあたりはどう思われますか。

 

f:id:Meshi2_IB:20180904144546p:plain中村マスター:昔は昔、今は今の楽しさがありますよ。そのお店が自分でいいところを作ればいい。楽しさっていうのは、そのお店が作ることだから。

 

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ハーモニカ横丁の立役者である水野さんと、40年以上この横丁でお店を続けている中村マスター。

お二人のお話を聞いていたら、つまらないなら、なにかが足りないなら、自分で作ればいいんだ! というガッツが湧いてきた。

ハーモニカ横丁では、お店を出したい人が何人も順番待ちをしているという。どんどん代謝しながらも続いているこの商店街、まだ訪れたことのない人も、しばらく足が遠のいていた人も、ぜひ歴史を感じながら足を運んでみてほしい。

 

お店情報

ささの葉

住所:東京都武蔵野市吉祥寺本町1-1-4
電話番号:0422-22-7676
営業時間:20:00〜24:00
定休日:不定休

 

書いた人:増山かおり

増山かおり

1984年、青森県七戸町生まれ。東京都江東区で育ち、百貨店勤務を経てフリーライターに。『散歩の達人』(交通新聞社)にて『町中華探検隊がゆく!』連載中。『LDK』(晋遊舎)『ヴィレッジヴァンガードマガジン』などで執筆。著書に『JR中央線あるある』(TOブックス)、『高円寺エトアール物語~天狗ガールズ』(HOT WIRE GROOP)。

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