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人質にひたすら食事を作り続けた4カ月間【在ペルー日本大使公邸人質事件】

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事件当時を振り返る深澤宗昭さん

 

かつて南米のペルーで左翼ゲリラが日本大使公邸を襲撃、人質を取って4カ月あまりにわたって立てこもるという事件があった。在ペルー日本大使公邸人質事件である。

1996年12月17日の午後8時20分、左翼ゲリラ組織MRTA(トゥパク・アマル革命運動)のメンバー14人が、ナショナルデーのレセプション会場となっていた日本大使公邸を襲撃、会場にいた621人を人質にした。

人質は順次解放されたが、事態は次第に膠着(こうちゃく)。翌97年4月22日にペルー軍の特殊部隊が武力突入するまでの間、72人(同年1月末以降)が邸内での人質生活を余儀なくされた。

突入時、ペルー人の人質が1人、部隊の隊員2人が死亡。しかし、それ以外の人質71人(うち日本人は24人)は全員無事であった。

当時、事件解決に向けてはペルー政府だけではなく、当地に在住していた日本人の民間人も深く関わっている。リマで日本料理店「レストランフジ」を営んでいた深澤宗昭さん(70歳)もその一人。

事件発生当初、幸いにも深澤さんは人質になることは免れたものの、直後から国際赤十字からの依頼を受け、ほぼ毎日のように人質たちのために食事を作り届けるという重責を負い、その使命をまっとうした。事件発生時から127日間、武装勢力に監禁されるという極限状態にあっても、人質たちが希望を捨てずに生きながらえた理由のひとつに「食」があったといっても過言ではない。

あの事件から20年。事件当時、彼はどのように食事を作り、提供していたのか、話をうかがった。

 

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事件に関しては関連書籍もいくつか出版されている。これは『封殺された対話―ペルー日本大使公邸占拠事件再考』(小倉英敬 著、平凡社刊)。表紙の写真からも事件当時の緊迫した様子が伝わるだろうか。

 

もっとも怖いのは食中毒だった

── まずお聞きしたいのは、深澤さんが、いつペルーに移住し、日本料理店を始めたのかということです。

 

「私がペルーに移住したのも、自分のお店「レストランフジ」を開店したのも1973年です。早いものでお店をはじめてから43年が経ちました。これまで、外交官や政治家、商社員などさまざまな方々からご支持をいただいて参りました」

 

── 人質事件が起こったときは何をされていたんでしょうか?

 

「うちのお店の若い衆が数人、公邸の中にいました。大使公邸の料理人やその日だけの助っ人として行かせていたんです。私はというと、まだ公邸へ出かける前でした。青木盛久大使(当時)と私、飲み仲間でして、行ったら最後、じゃんじゃん飲まされる。だから少し遅れて行くつもりだったんです。ところがね、私が行く前に事件が起こってしまった。中にいた若い衆は人質にされました。根掘り葉掘り、ゲリラに身元を調べられた後、1週間ほどで解放されましたけどもね。一方、人質として最後まで捕らわれていた日本人は、大使館の人や商社員で、もともと私の友人であり、お客さんでもありました」

 

── 人質の方々へお弁当を作ることになった経緯を教えて下さい。

 

「当初、現地対策本部はリマ市内にあるあちこちの日本料理店に依頼し、持ち回りで弁当を作らせようと思っていたようです。最終的には3店にしぼられまして、国際赤十字から毎日作って欲しいとお願いされました。それで昼と夜をうちと、同業者の小西紀郎(こにしとしろう氏。2016年4月に逝去)のお店でどうするか。分担を電話で決めました。私は夕食を担当したかったんですが、紀郎に懇願されまして結局は私が昼を引き受けることになりました。

 

── 昼と夜とでは、作る大変さがそんなに違うんでしょうか。

 

「その年はエルニーニョで日中30℃以上が当たり前で、例年、最高28℃ぐらいのリマにしては異様に暑かった。しかもMRTAが物資を入れる許可をするまでに毎日4、5時間かかったんです。だから昼はパンク(食中毒を起こす)する可能性が高かった。一方、夜は気温が低くなるし、作ってから食べるまでの時間が短い。それに、お店の休憩時間にあたる午後3時から6時の間にぱっと支度できちゃうという点でも楽でした」

 

── 紀郎さんと話し合って決めたことは他にあったりしましたか?

 

「ダブらないようにすること。同じ料理を昼と夜に続けて出してもしょうがないですから。そうならないよう、お互い出した料理の名前をFAXしあっていましたよ」

 

── 深澤さんが用意した料理はどんなものだったんでしょうか。

 

「いろんな日本料理ですね。たとえば、揚げ物ひとつとっても、フライにするとか、天ぷらにした後に煮つけるとか。飽きないように工夫しました。人質たちはずっと公邸の中にいて運動不足になっているはずだから、カロリーや量についても気をつけましたよ。例えば、ほうれん草のゴマ和えとかね、なるべく野菜を使う料理を出すようにしていたんです。弁当一食につき、だいたい7品ほどでしょうか」

 

── 食中毒にはかなり気を使われたのでは?

 

「暑いと煮物なんてすぐに腐ってしまいます。だから水の代わりに煮切りみりんとか煮切り酒とか醤油とかを使って、火でアルコール分をバッと飛ばして作って出していました。ただ、3カ月ぐらいたったとき10個かそれ以上か、注文数がどっと増えてしまいました。ペルー料理のお店が3回もパンクしてしまって、私たちのところに依頼が来るようになったんです」

 

── 下世話な質問で恐縮なのですが、事件の影響でもうかったりしたんでしょうか? 

 

「日本のメディアは、ペルーの日本料理店はテロ特需だって、好き勝手に報じていたみたいですが、 原価を知っていたらそんなの書けるはずがありません。煮物は水の代わりに、酒とか煮切りみりんとかを使っていたし、弁当の容器(薄いプラスチックの弁当箱)にしても輸入品をわざわざ購入したんですよ。それにね、弁当を作るための手間でその分お客さんが減るわけです。もうかるはずがありませんよ」

 

大使がお礼に越乃寒梅を

前代未聞の長期に及ぶ大量人質事件。その間、ペルー政府側とゲリラ側は解放の条件についての会談を重ねた。フジモリ大統領がキューバを訪れてゲリラの引き渡しについて話し合うなど、平和的な解決がなされるかと思われた。

しかし、水面化では別の動きもあった。ペルー政府は軍に突入訓練を繰り返し行わせたり、公邸の真下に7本もの地下トンネルを掘ったりして、着々と突入の機会をうかがっていたのである。

そして事件発生から127日目の1997年4月22日、午後3時23分、ペルー軍は床下に仕掛けた爆弾を爆発させ、その穴と正門から特殊部隊を公邸内に急襲、ゲリラは全員死亡するという強硬な方法によって解決をはかった。

               

── 政府軍が突入したのを知ったときのことを教えて下さい。

 

「支度を終えた後、商社員の方と息抜きにゴルフに出かけていました。ハーフをまわったあと同行していた商社員の携帯が鳴ってね。今、突入したらしいよって言うんですよ。まさかって思ったけど、ゴルフ場の施設に入って、ロビーのテレビをつけたらペルー政府軍がダンダンって撃ちながら突入してる様子を実際にやってるわけです。もうゴルフは打ち切り、みんなすぐに車で会社やお店へ帰っていきました」

 

── さすがに突入作戦のことは知らされてなかったわけですね。

 

「もちろん。私のような立場の者には教えてくれませんよ。だから、中継を見ていて心配がつのりました。日本人は誰ひとりも出て来ないので、これは日本人全員殺されたのかなという考えが頭をよぎりましたね。後で、全員無事だってことがわかって、心底ほっとしたけども」

 

── 人質解放後は?

 

「後日、ありがとうございました、助かりましたって、人質だった方たちやその関係者とか、いろんな人がお店にお礼に来てくれましたよ。青木大使なんか、越乃寒梅を持ってきてね。深澤さんありがとう、一緒に飲もうって、お誘いされまして一緒に飲みました」

 

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事件現場となった公邸跡地へ足を運んでみた。

 

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この跡地はマンション新築のため2011年、不動産会社が購入したそうだ。だが現在は更地になったままだ。

 

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門扉には、政府軍のものらしい銃弾の後が生々しく残っていた。

 

20年が区切りになった

── 20年経ったわけですが、変化はありますか?

 

「あの事件の後、日本大使公邸は別の場所に移転して、ナショナルデーのレセプションパーティーもその場所で行われるようになりました。それも、慣例だった夜じゃなくて昼にね。だけど昼だとあまり盛り上がらない。忙しくて出て来られない人が多いし、出席したってお酒もたいして飲めないからね。ところがね、今の大使が『もう20年経つ。私が先頭きりますから、あの頃みたいに夜にやりましょう』って言って、年末(2016年12月)、夜にレセプションパーティーを開いたんです。あのときは本当に皆さん、お酒を飲んだりして心から楽しんでいる様子でした。これでようやくひと区切りついたという感じです。今の大使が道を開いてくれました」

 

── 今の大使の英断も素晴らしいのですが、何より深澤さんたちの「食」の提供こそが素晴らしかったと思います。

 

「人質たちだって食わないわけにいかないでしょ。こういう状況の中じゃ、食べることが唯一の楽しみなんだろうなって思って、毎日作っていただけですよ」

 

深澤さんはそういって謙遜した。

しかし実際、人質たちからは大いに感謝されていたようだ。

 

変化の乏しい毎日を送る人質にとって、食事は一日における数少ない楽しみの一つだった。〜『されど我ペルーを愛す』(読売新聞社、青木盛久・直子著)より〜

 

青木大使が自著に記したこの言葉からわかるように、人質だった方たちは深澤さんら料理人たちの「食」によって、希望を持ち続け、生きながらえることができたのである。

 

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深澤さんが経営する「レストランフジ」はリマの高級住宅街、ミラ・フローレスの一角にある。

 

44年前に開業して以来、質の高い日本食を提供、リマでは指折りの日本料理店として、国内外に広く知られている。

 

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こちらはランチセット。45ソル(日本円で約1,560円)。

ここで提供される食事は当時も、そして今でも、現地のペルー人や日本人を魅了してやまない。

 

取材協力:レストランフジ(Restaurant Fuji)

Av. Paseo de la Republica 4090, Miraflores, Lima 18, Peru

Tel: 440-8531 Fax: 440-2615

 

※この記事は2017年3月の情報です。 

 

書いた人:西牟田靖(にしむたやすし)

西牟田靖(にしむたやすし)

1970年大阪生まれのノンフィクション・ライター。多すぎる本との付き合い方やそれにまつわる悲喜劇を記した自著「本で床は抜けるのか」(本の雑誌社)を2015年3月に出版。主な著書は「僕の見た大日本帝国」「誰も国境を知らない」など。最新刊は『わが子に会えない  離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)

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