国民的飲料「カルピス」はモンゴルの発酵食がルーツだった【100年前の驚き】

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〈写真提供:アサヒ飲料株式会社〉

日本人なら誰でも知っている乳酸菌飲料カルピス。水玉模様の紙包装に入った瓶入りカルピスは、かつてお中元の定番だった。『アルプスの少女ハイジ』や『トムソーヤーの冒険』といった「世界名作劇場」シリーズの合間に流れていたカルピス株式会社のテレビコマーシャルを思い出す人も多いことだろう。

アサヒ飲料株式会社に吸収合併された今でもリッパに現役で、カルピスウォーターやカルピスソーダはコンビニや自販機でもおなじみの商品となっている。

実は、カルピスが生まれたのは大正8年(1919年)。1世紀もの歴史を持ちながら、そのルーツについてはほとんど知られていない。いったい、どのようにして作り出されたのか。なぜ「カルピス」というネーミングがついたのか。

そんな疑問に迫る1冊の本が今年の6月に出版された。『カルピスを作った男 三島海雲』(小学館 刊)は、現在の日本人がほとんど知らないカルピスのルーツについて、徹底的に調べあげたルポルタージュである。

カルピスをつくった男 三島海雲

カルピスをつくった男 三島海雲

  • 作者: 山川徹
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/06/15
  • メディア: 単行本

驚くべきことにカルピス誕生の裏側には、激動の時代を生きた一人の男の物語があった。著者であるノンフィクション作家、山川徹氏に聞く。

話す人:山川徹(やまかわとおる)

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1977年、山形県生まれ。國學院大学文学部卒業。大学卒業後、フリーで執筆活動を続ける。著書に『捕るか護るか? クジラの問題』(技術評論社)などがある。

 

 

知名度は驚異の99.7%

── 『カルピスをつくった男 三島海雲』を出版された山川さんご自身は、カルピスにどんな思い出がありますか?

 

山川氏:友達の家で小さいときに飲んだとか、おばあちゃん家で飲んだ、といった経験は何かしら日本人が共通して持っていると思います。もちろん私もそうでした。思い出すのは、小学生のときに見た映画『火垂るの墓』(1988年公開)のワンシーンです。お母さんが「カルピスも冷えてるよ」と砂浜で遊ぶ子どもたちに声をかけるんです。そのシーンをみて、それまでは、自分が生まれるはるか前の物語が、一気にリアリティーを持って感じられました。

 

── 私が子どもだった1970年代には、自宅のキッチンの棚に濃縮されたカルピスの瓶が入っていました。常温で保存ができた原液のカルピスは当時、どこの家庭にも常備されていたような気がします。

 

山川氏:高度成長期は右肩上がりでどんどん生産を伸ばし、工場設備も立派なものになっていきました。ちょうどその頃ですね。ただ、昭和末期になると飲料過当競争時代、カルピスの売り上げがやや落ちていきました。スーパーマーケットが登場したり、自動販売機が普及していくにつれ、原液を薄めて飲むカルピスは受けなくなっていったんですね。そんな中、平成に入ってすぐの平成3年(1991年)に発売されたカルピスウォーターが大ヒット商品となり、また命脈を保ちます。

 

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── 日本人ならほぼ全世代が知っているといっても過言じゃない。

 

山川氏:カルピスが誕生したのは今から100年前の1919年(大正8年)。当時飲んだ人から、今カルピスを飲んでいる子どもたちまですべて含めると5、6世代飲み継がれていることになる。飲料の認知度としては、水やコーヒーに次ぐ高さなんじゃないでしょうか。ある調査では実に99.7%の人が「飲んだことがある」と答えたというほどですから。

 

── それだけ長く作られているカルピスですが、100年前のカルピスと今のカルピス、どこがどう違うんでしょうか。 

 

山川氏:カルピスを製造している社内の技術者に聞いたところ、「基本的な製法や味わいはずっと変わらない」とのことでした。ただ昔は、職人の経験と勘に頼る製法だったそうです。たとえば「この日は暑いからこうしよう」みたいな。1960年代から70年代になると味は数値化され、工場で均一化された形で作られるようになっていきます。

 

カルピスの生みの親、三島海雲

では、いよいよ本題へ。山川氏は今回の著作で焦点を当てているカルピスのルーツに話を進めよう。

すでに書名でもお分かりのとおり、カルピスの歴史を語る上で欠かすことのできない存在がいる。カルピス株式会社の創始者、三島海雲(みしまかいうん)という人物だ。カルピスは、この三島によって発案され、世に出され、現在の地位を確立したといってもいい。

 

── 今回、山川さんの著作を読んで意外だったのは「カルピスは、三島という生みの親がいた」ということなんです。なんとなくカルピス株式会社が企業の製品として開発したもので、そこまで明白に個人の業績だとは思っていませんでした。

 

山川氏:カルピス株式会社の創業者である三島海雲は、もともと内モンゴル(現在の中華人民共和国内蒙古自治区。モンゴル人民共和国は外モンゴルにあたる)に縁が深い人物なんです。その三島が、現地で味わった乳酸食品に驚嘆し、慣れ親しんだことが、カルピスを開発するきっかけにつながっていくんです。

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三島は明治11年(1878年)生まれ。この写真は明治38年(1905年)当時、27歳の頃<写真提供:三島海雲記念財団>

 

── 乳製品なので牛乳となにか関係があるのかなとは想像していましたが、まさか内モンゴルの高原地帯にルーツがあるとは。そもそも三島海雲はどんな人物だったのでしょうか。

 

山川氏:明治11年(1878年)、浄土真宗のお寺の長男として生まれた三島は、幼い頃から仏教に親しみ「文学寮」という僧侶のエリート教育機関で学びます。その後、学校の先輩に声をかけられ、明治36年(1902年)に中国・北京に渡り、日本語教師の仕事に就きます。そして明治37年(1903年)、雑貨などを売買する行商会社「⽇華洋⾏」を立ち上げます。

 

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三島が北京に⽴ち上げた⾏商会社、⽇華洋⾏の社屋<写真提供:三島海雲記念財団>

 

── 社屋の写真を見ると立派な建物だし、なかなかのやり手だったのではと察します。

 

山川氏:確かにビジネスは順調にいっていました。がそんな折、日露戦争(1904〜1905年)が勃発し、三島は陸軍に軍馬の調達を依頼されるんです。そういう時代の商社ですからね。軍に頼まれたらやらざるをえない。そこで彼が目をつけたのが、内モンゴルの高原地帯だったと。とはいえ当時は、地図も何もない時代なので、訪れること自体が冒険ともいえました。

 

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▲内モンゴルで三島が羊の改良を試みていた頃。明治42年、1909年撮影<写真提供:三島海雲記念財団>

 

── まさに命がけの行商ですよね。ただ、軍馬の調達からカルピスのイメージにはまだつながってこない。

 

山川氏:……と思いますよね。ところが、この行商がきっかけになるんです。というのも、軍馬調達の後、彼は現地の王族に依頼されて銃の仕入れまで手がけたりして、公私ともに内モンゴルの生活にどっぷり漬かっていくんですね。すると当然、現地の遊牧民から盛大な歓待を受ける機会が出てくる。そこで、牛乳を発酵させて作った“ある乳製品”を振る舞われることになります。

 

内モンゴル伝統の発酵食「ジョウヒ」とは

本来であれば仏門に帰依するはずだったにもかかわらず、中国という異国の地で起業家となり、ほとんど武器商人のようなビジネスを展開する ── 。

そんな三島の経歴自体が激動の近代史を映し出しているともいえるが、彼が自らの生涯を変えるほど心を奪われたのは、馬や銃剣といった勇ましいものではなく、現地の女性たちが毎朝作る「家庭の味」であった。

 

── 内モンゴルの遊牧民から三島に振る舞われた乳製品とはいったいどんなものだったのでしょう。

 

山川氏:おそらく「ジョウヒ」(筆者注:外モンゴルではズーヒーと発音される)と呼ばれる伝統食です。牛乳を放置して発酵させ、上澄みを取り除いたもの。自分も現地へ赴いたときに食べたのですが、甘さのない生クリームのような味がしてすごくおいしい。

 

── 「ジョウヒ」は現地の日常食でもあるわけですか。

 

山川氏:そうですね。内モンゴルでは今でも大変ポピュラーで、レストランでも出てくるし、一般家庭だと、皆さん朝昼晩と食べていますね。彼らの住む草原や高原は、耕しても再生せず砂漠になってしまうような土地です。なので野菜の代わりに、そうした乳製品から栄養を得てきたのでしょう。

 

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▲バニラアイスクリームのように見える白い食品がジョウヒ。毎朝これを作るのが遊牧民の日課<写真提供:山川徹>

 

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カマドにくべる燃料は、乾燥した牛ふん。自然を最大限に利用して乳製品を作る<写真提供:山川徹>

 

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▲テーブル中央に見えるのがジョウヒ。現地では今も日常的に食べられている<写真提供:山川徹>

 

前身は「醍醐味」という商品だった

やがて日本に帰国した三島は、自らが衝撃を受けた異国の味を再現し、商品化をはかる。ジョウヒからカルピスへ。内モンゴルの伝統食から日本の国民的飲料へ。

三島の人生をかけた本当の冒険がここからはじまる。

 

── 内モンゴルの発酵食だったジョウヒにヒントを得た三島は、どうやってカルピスを開発し、商品化まで持っていったのでしょう。

 

山川氏:1912年に清朝が滅亡すると、中国大陸の状況は激変します。それを受け、三島は、事業を手放してやむをえず大陸をあとにします。そして帰国翌年の1916年(大正5年)、三島はジョウヒを日本で再現し「醍醐味」という名前で売り出します。

 

── 商売慣れしていたのか、仕掛けるのも手早かったんですね。

 

山川氏:幸い、注文が殺到し人気商品となるんですが、やむなく販売中止に追い込まれます。というのも、当時は牛乳18リットル(一斗)から1.8リットル(一升)しか製品がとれないので、注文が間に合わなかった。作り置きしようにも、貯蔵が利かなかったんです。その後、三島は乳酸菌を使った製品を生み出すべく、試行錯誤するわけです。

 

── 挫折にめげず、開発を続けた。

 

山川氏:土倉龍治郎という実業家が、帰国後、無一文になっていた三島を援助したのも大きかったですね。そうした恩恵を受けて、三島はカルピス株式会社の前身、ラクトー株式会社を設立することが出来たんです。そして「醍醐味」を売り出してから3年後の1919年(大正8年)、ようやくカルピスの発売にこぎ着けます。

 

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カルピスという商品名の由来

山川氏の著作『カルピスをつくった男 三島海雲』にはカルピス誕生の”瞬間”が記されている。

三島渋谷の工場で、工場長の片倉吉蔵とともに論議を戦わせながら新商品の開発に打ち込んでいた。ある日、脱脂乳に砂糖を混ぜて一昼夜おいた。すると意外にもうまい。もう一日おいてみるとうまみがさらに増す。試飲した龍治郎も絶賛した。(同著 P190-191より)

 

── 著作によると、決して意図的にカルピスを作ろうと思ったわけじゃなく、ある意味偶然の産物でもあったと。ところでなぜ三島は「カルピス」と命名したのでしょうか?

 

山川氏:100年前といえばカルシウムが注目されはじめた時代でした。健康というイメージを高めるために、その新飲料にカルシウムを入れた。したがってカルピスのカルはカルシウムのカルでしょうね。

 

── なるほど。では「ピス」は?

 

山川氏:サンスクリット語(仏教用語)で、最上の味という意味の「サルピルマンダ」という言葉があります。三島はカルシウムとサルピルマンダで「カルピル」でどうだろうかと思ったようです。ところが口にしてみるとどうにも歯切れが悪いんですね。そこで「赤とんぼ」などで知られる作曲家の山田耕筰に相談に行きます。山田は「カルピスなら、音声学的にも響きがいい」とお墨付きを与えます。ほかにはサンスクリット学者で僧侶の渡辺海にも太鼓判を押され、カルピスという名前に落ち着きました。

 

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カルピス発売当初、まだ乳酸菌飲料そのものが目新しかった中で、三島斬新な広告を打った。ただし、経営の手を広げず商材をカルピス一本に絞り込むことで会社の命運を託す。大正の大衆消費社会下で成功したのは三島のそうした商才によるところも大きかったといえよう。

時代が昭和に移って戦争が始まると、ともすればぜいたく品として販売を禁止されるところを、本来の「健康にいい」というコンセプトが軍のニーズに合致。戦時中も作り続けられ、国民の前から消え去ることはなかった。まさしく「なるべくして国民飲料になった」のである。

 

現地では原液の方が好まれる!?

── 山川さんはこの本を書くにあたって、内モンゴルへ取材に行かれたそうですね。そのときの経緯を教えてください。

 

山川氏:三島の足跡をたどっていきました。それでその中で、いろんな人と知り合っていくうちに、三島を世話した内モンゴルの王族の末裔に運良く出会うことができました。

 

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▲現在も現地では伝統的な遊牧と乳製品作りが行われている<写真提供:山川徹>

 

── その際、日本のカルピスを現地まで持っていたそうですが、持ち込むのに面倒くさかったんじゃないですか。

 

山川氏:本場のジョウヒを味わうだけでもよかったんですが、まあせっかくだからとカルピスを持って行ったんです。プラスチックボトルに入ってるものを7、8本、リュックサックに入れて。現地で会った方々には「水で希釈して飲むんだ」と教えたら、最初は「おいしいおいしい」と言いながら飲んでくれました。そのうち「ちょっと原液を飲ませてみろ」と言われて。そしたら「こっちの方がうまいな。酸味がいい」って。さすがに驚いたんですが、彼らと僕たち日本人とでは、乳製品との付き合い方が違うし、当然ながら味覚も違います。

 

── うーん、確かに原液そのまんまはいくらなんでも甘すぎる。

 

山川氏:はい。だけど内モンゴルの人たちにはやたらと「酸味がいい」と言われ、僕自身、味わい方が変わってしまいました。

 

── ほかに、内モンゴルでの意外なエピソードはありますか?

 

山川氏:現地で知り合った歴史学者に「カルピスという名前はヒルピスからきているのではないか」と言われました。「実は(学者自身の郷里の)ヘシグテン旗にヒルピスという山があって三島が内モンゴルを旅したときにその名前を聞いたか、実際に登って記憶に残っていたのではないか」と。確証は得られませんが。

 

── 確証が取れないからこそロマンを感じます。では最後に、これからこの本を手に取る読者にメッセージを。

 

山川氏:カルピス自体はみんなが知ってるものですよね。ただ、改めて視点を変えたり、あるいはじっくり見てみるとそこには、全く知らない世界観と言うか歴史を背負っていたりします。そのことに気が付いたことがこの本を書く動機につながりました。カルピスに限ったことではないですが、当たり前なもの、身近なものにも、ちょっとした物語が蓄積されているはずだし、より深く知れば面白いものが見えてくるかもしれない。そういうことをこの本を通して知ってもらえたらうれしいですね。

 

── 貴重なお話、ありがとうございました。

 

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▲当時88歳、日光浴を楽しむ三島。自身が考案した「へそ焼き」という健康法を実践していた。「国利民福」(国の利益と人々の利益)を旨とし、会社の売り上げよりも、国の豊かさや国民の幸せを願い実践し続けた彼は、昭和49年(1977年)、96年の生涯を閉じた。〈写真提供:三島海雲記念財団〉

 

カルピスという誰でも知っている飲料に隠された、ある男の人生と激動のアジア近代史。

今こそ、そのルーツがある内モンゴルの高原地帯に思いをはせながら、濃いめに割ったカルピスをグイっと飲んでみたい。この物語を知る前と知った後では、きっと味も違うだろうから。

 

書いた人:西牟田靖

西牟田靖

1970年大阪生まれ。家族問題から国境、歴史、蔵書問題まで。扱うテーマが雑多なフリーライター。「僕の見た大日本帝国」(角川ソフィア文庫)、「誰も国境を知らない」(朝日文庫)、「わが子に 会えない」など著書多数。2018年には「本で床は抜けるのか」が文庫化された。

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