殴られ、騙されても、食べ、書きまくる!極限メシ執筆者が明かす、トラブルの予兆と回避法とは【極限メシ】

2018年より不定期連載で始まった「極限メシ」シリーズ。節目となる第20回の登場は、連載の執筆者でもある西牟田靖。これまでの人生で遭遇した数々のトラブルと、その予兆&回避法を公開する。

これまで19回にわたって、不定期で連載を続けてきた極限メシ。今回、20回目に登場するのは、執筆者の西牟田靖である。話を聞いたのは、駆け出しの頃から西牟田とタッグを組んできた、ライター兼編集者の「(よ)」さんこと、ワダヨシさんだ。

 

――今までの回で登場した人って、冒険家や戦場ジャーナリスト、ヨット遭難者、洞窟おじさんなど、「どんな体験をしてきたか」が想像できたり、知られたりしている人が多い。西牟田くんは何をした人なの?

 

西牟田:今のところの代表作は、『僕の見た「大日本帝国」』(KADOKAWA/角川ソフィア文庫)や『誰も国境を知らない』(清談社Publico)といったハードなノンフィクションですかね。かつての日本領土や日本の国境を回った長編のルポ。その繋がりから強いて言えば、旧日本領土、日本の国境地帯を回り尽くして作品を残してきた人ということになるでしょうか。中には行くのがかなり困難な場所もありましたから。

store.ponparemall.com

 

――”近代史のフィールドワーカー”というか、”政治的秘境探検家”って今度から呼びましょうか?

 

西牟田:ああ、それ良いですね。

 

――あちこちに出かけた中で危険な目に遭ったことは?

 

西牟田:今まで60カ国弱に出かけています。初めて出かけた20歳頃からの10年間で集中的にひどい目に遭っていて、自分的にはその頃が一番、極限でした(笑)。運転手に殴られたり、医者にだまされたり、睡眠薬を盛られて死にかけたりと、いろいろありました。

 

――そうしたとんでもない経験を、一冊にまとめたのが『世界殴られ紀行』(ワニマガジン社)?

 

西牟田:そうです。あの本の編集を担当してくださり、どうもありがとうございました。当時は知識も経験もなく、今と比べると本当に隙だらけだったと思います。だからこそ数々の困難に遭い、その副産物として『世界殴られ紀行』が誕生しました。

 

――その中から、何か特筆すべき経験を紹介してもらえますか?

 

西牟田:じゃあ、まずは大学2年生のときに行った、初海外旅行の西ヨーロッパでの話を。単なる観光でしたけど、言葉は通じないし、人種も文化も違う。そんな中、鉄道やバスを自力で調べて移動する、ということ自体が僕には手探りに近い大冒険で、失敗だらけでした。

 

――何があったの?

 

西牟田:ロンドンの大英博物館を見学し終わって外に出たら、労働者風の中年オヤジ2人組に陽気な感じで声をかけられて。一緒にパブに行ったら、1人10杯以上を異様なペースで飲むんです。驚きましたが、彼らの陽気さにあおられて僕も訳もわからず飲みまくっていたら、途中で2人が急にいなくなってしまった。結果的に全部僕が払うことになったんですが、確か1万円ぐらいだったんじゃないかな。あのときのスモーキーで苦みのあるエールの風味は、そんな体験をしたからか今でも鮮明に覚えています。しかもその直後、さらに……

 

――まだあるんだ!

 

西牟田:店の外に出て放心状態で歩いていたら、酔いも手伝って客引きの誘いに乗ってしまって。連れて行かれるがまま地下のバーに入ったら、そこが法外な値段を請求する暴力バーだったんです。物置部屋のような狭さの薄暗い店内で、僕のテーブルに着いた女の子に飲み物をねだられたんですが、メニューを見たら日本円で一杯1万円くらいする。これはヤバいと思って、ドアに向かって階段を駆け上がろうとしたら、屈強なボディガードに行く手を阻まれた上に、その場でクレジットカードを取り上げられてしまって。後に引けない状況となり、もう30年以上前のことだからうろ覚えだけど当時アルバイト先の飲食店で覚えたてのカクテルだったモスコミュールかテキーラ・サンライズをオーダーした気が。女の子の分までオーダーしたかどうかは、気が動転していたこともあって覚えていないです。

 

――その後はどうなったの?

 

西牟田:店長らしき人に、新宿の歌舞伎町にありそうな人気のない路地裏に連れて行かれ、いかにも怪しい両替屋でお金を引き出させられた後、ようやくクレジットカードを返されました。結局、キャッシングする形で4万円ぐらい払わされたのかな。初めての海外旅行は、そんな感じで散々でした。

 

――他の旅行ではどうだったの?

 

西牟田:その後は、大学にいる間は中国やインド、ロシアなど各地を回りました。使い古しの油で作った料理には何度もあたりましたが、それは途中から身体が慣れて体調を崩さなくなりました。あとはソ連解体直後のロシアにツアーで出かけたときは、ツアーメイトのひったくり被害を目の当たりにしたこともあります。

▲中国とミャンマー国境を流れる川のほとりで(1992年9月)

 

▲タイとミャンマーの国境を流れる川

 

▲旅行中、ずっと氷点下だったロシア。サンクトペテルブルクにて(1993年1月)

 

▲ソ連崩壊直後のロシアを団体旅行(1992年12月)。この頃、治安が崩壊していてツアーメイトがひったくりに遭うのを目の当たりに

 

――大学を卒業した後は?

 

西牟田:いったんはIT会社に入社したんですが、地球一周をしたくて辞めました。で、一周実行後は、アルバイトで警備員をやっていました。その頃、たまたま買ったサブカル雑誌が、編集部を読者に開放していることを知りまして。アルバイトが休みのときに暇つぶしも兼ねて遊びに行ってみたんです。するとなぜだか編集者に執筆の仕事を依頼され、それがきっかけでライターとしてのスタートを切った感じです。

 

――その頃の旅行で、何か強烈な体験は?

 

西牟田:1996年かな。ある取材でインドの観光地、アグラに行ったときです。オートリキシャ(三輪タクシー)とホテル、ホテルの食堂、医者がグルになった詐欺に遭いました。そのときの僕の出費自体は旅行保険の手数料3,000円だけだったんですが、のちに全体像が見えたときにわかったのは、まるで複雑な因数分解のような見事な保険金詐欺だったということでした。

 

――巧妙なんだね。でもどんな風に?

 

西牟田:アグラ駅でオートリキシャにホテルを指定するも、全然違うホテルに連れて行かれ、らちが明かなかったので仕方なくそこに泊まることに。で、そのホテルの食堂でマトンのような肉と野菜の入った汁っぽいカレー、ナン、インドの漬物のアチャールを食べたら、直後に食あたりのレベルではない強烈な腹痛に襲われ、一晩トイレとベッドを往復することに。

 

――食堂はどんな感じだったの?

 

西牟田:ドアも窓も開けっ放しで、牛だとかオートリキシャとかが行き交う埃(ほこり)っぽい通りに面した食堂でした。カレーもナンも普通にうまかったですし、食べている最中には近くの子どもたちが親しげに寄って来て、言葉が通じないなりに彼らともじゃれ合うことができて楽しい時間でした。

 

――その強烈な腹痛の原因は何だったの?

 

西牟田:後から考えるとカレーに強力な下剤が入っていたんでしょう。食事の直後から朝までベッドとトイレの往復で、一睡もできずに朝になる頃にはぐったりしていました。インドも含めて、その後に食あたりになった際も、そんなひどい腹痛に見舞われたことはないので。

 

――それでどうしたの?

 

西牟田:朝フロントに医者を呼んでもらったんですが、すぐに来たんです。ホテルの踊り場で聴診器をあてられ、上半身を触診で簡単にたたいて、診察は終わり。特に薬の処方もなく、いきなり100ドル相当のインドルピーを要求されました。

 

――抗議はしなかったの?

 

西牟田:体力を使い果たしていたので、そんな元気はありませんでした。その場では、診断書を書いてもらえるように言うのが精いっぱい。それがあれば帰国後、旅行保険で請求ができるので。今考えると保険適用の診断書をその場ですぐ書けるように準備してきていたこと自体、おかしいとわかります。結局、彼ら(オートリキシャ・ホテル・食堂・医者)は全員がグルになって保険金詐欺をおこなうつもりだったのかなと。実際、保険適用されて、金銭的な被害は免れましたし。

 

――それは本当にグルだったの?

 

西牟田:診断後、チェックアウトして近くの高級ホテルに移ったのですが、そこで評判を聞いたら、あのホテルには泊まるなと……。そのことからもクロと判断しています。

 

――なるほど。でもそれは命には関わらないね。他には?

 

西牟田:1998年のゴールデンウィークに出かけたアフガニスタンで、当時統治がものすごく厳しかったんです。偶像崇拝を禁止するってことで、全ての撮影が禁止でした。

▲安全対策を考え、現地の人と同じ服を着て旅行したアフガニスタン(1998年5月)

 

――なぜ行ったんですか?

 

西牟田:ひとつはなかなか行けない場所への憧れ。もうひとつは、行方不明になった方の捜索を依頼されたからです。それでポスターを50枚ぐらい用意して現地に行きました。カンダハルに着いて泊まった宿でそのポスターを見せたんですが、すぐに通報されてしまい、警察に連行されて尋問を受けました。その後に、当時の政権の外務省みたいなところに連れて行かれ、英語が話せるスポークスマンのような人と、絨毯敷きの20畳ぐらいの部屋で2人きりに。
最初はすごく高圧的で、「動物も含め、生き物の写真を撮ったらムチ打ちの厳罰に処する」みたいな感じで脅してきたんです。彼らは常に銃を携帯しており、言葉では言い表せないくらいのすごみがあったので、もうどうなっても仕方ないと半ば諦めていました。ですが、2時間くらいいろいろと話したところで、急に緑茶と角砂糖みたいなドロップを出されたのかな。お酒が御法度なので。それと同時に、そのスポークスマンが「日本で働きたいから、ビザを作るための紹介状を書いてくれ」っていきなりお願いしてきたんです。

 

――ずいぶん態度が変わるんですね。

 

西牟田:こちらは覚悟を決めている状況でしたから、もう漫画みたいでしたよ。でもお茶とドロップはなかなか美味でした。あれが出てきたとき、あ、もう大丈夫だって安心しましたよ。

 

――アフガニスタンでも緑茶を飲むの?

 

西牟田:そうなんですよ。意外でしょ? カッワといって、日本よりも薄い緑茶でしたね。ほっとしたからか、とても美味しかった。

 

――なんで緑茶だとわかったの?

 

西牟田:その後の道中で出会ったドイツ人の青年が教えてくれました。彼は来日経験があり「日本で飲んだ緑茶より、僕はアフガンの緑茶、カッワの方が好きだよ。日本の緑茶は味が濃くて苦いけど、カッワは薄くて僕にはちょうどいい」って。僕が飲んだときは砂糖は入ってなかったけど、現地では普通は砂糖をグラスにどっさり入れて甘くして、さらに好みによってカルダモンの実を加えて飲むみたい。

 

――砂糖やカルダモンを入れるって、同じ緑茶でも所変わればって感じだね。

 

西牟田:飲酒がNGなので、語らいの場ではカッワにせよ紅茶のチャイにせよ、お茶がマストでみんなよく飲んでいました。

 

――アフガンで、その他に食にまつわる話は?

 

西牟田:パシュトゥン人、ウズベク人、ハザラ人という全く違う民族が暮らしているんですが、それぞれ食文化も違って、特に覚えているのがハザラ人というモンゴル系の日本人にそっくりな民族がやっていた食堂です。羊肉の塊と干しぶどうの入った炊き込みご飯が名物で、それが絶品でしたね。

▲アフガニスタンの首都カブール。街の復興はその後進んだのか(1998年5月)

 

――なるほど。その後、現地での道中はどうだったの?

 

西牟田:首都カブールからパキスタンの国境へ向かって陸路で移動しているときに、ひときわ厳しい検問があって。乗っていたワゴンから全員降ろされてボディチェックをされる中で、車内の荷物も全部確認され、僕が持っていたカメラが見つかってしまったんです。
彼らはカメラを見つけた途端、僕を連行しようとしたんだけど、同乗していた英語が話せるバキスタン在住の元アフガン難民の方がとりなしてくれて、なんとか難を逃れました。あのときは、今度こそ帰って来られないかと……。本当に危機一髪でした。

 

――そうだったんですね。アフガン以外で、危機にさらされた経験は?

 

西牟田:ジュースを飲んだ直後から36時間意識を失った、睡眠薬強盗ですね。1999年5~6月のことです。ユーゴスラビア(今のセルビア)に入ろうと、ルーマニアからブルガリアに移動する途中で、かなりの額の現金を取られました。

 

――なんでそんなに現金を持っていたんですか?

 

西牟田:紛争などで国際的な信用が安定していない状況下の場合、クレジットカードが全く使えなくなるんです。だから旅行資金として国際通貨であるドルを中心に、大量の現金を持っていかざるを得ない。

 

――どうやって犯人の手口にひっかかったの?

 

西牟田:ルーマニアからブルガリアに鉄道で入国した直後、首都のソフィア行きの電車に乗ったんです。それでコンパートメントに1人で座っていたら、現地人らしき男2人組がやってきて、なんかすごく親しげにいろいろ声をかけてきたんですよね。

 

――それ、ロンドンのときと手口が同じじゃない? 懲りないなあ。

 

西牟田:すいません。

 

――2人のキャラクターはどんな感じなんですか?

 

西牟田:1人は神経質そうな痩せ型の男で、もう1人は、ミュージカルに出てきそうな、長いヒゲをたくわえた包容力のあるきこりのような感じ。

 

――訳がわからない例えですね。

 

西牟田:最初は僕も警戒していたんですけど、振られる話が家族のこととか、仕事や趣味のこととか、世界中どこでも通用するような話題ばかりで。そうやって膝を突き合わせてカタコトの英語で3~4時間語り合ううちに、旧知の仲のように打ち解けちゃって。じゃあホテルに一緒に行きましょうみたいな流れになり、部屋に入って10分ぐらいで意識が途絶えました。

 

――それが睡眠薬なんですね。どうやって口に入れたの?

 

西牟田:喉が渇いただろうって、紙パックのフルーツジュースをすすめられて飲んでしまいました……。

 

――いかにも怪しいのに。

 

西牟田:実は電車の中でも何回もすすめられていて、話しつつも内心は少し怪しむ気持ちも残っていたから何度も断っていたんですよ。でも、ホテルに着いて一緒に部屋に入り、「ヒト1人をだますために、半日もつきまとったりしないだろう」と思って、根負けする形で口を。
今考えたら、ホテルの中って密室だから状況としては最悪。身ぐるみ剝がされたり、最悪の状況になったりする可能性もあった。ベッド1台しかない部屋に3人で入って、って本当におかしいですよね。

 

――味は?

 

西牟田:ごく普通のミックスジュース。ストローで飲むタイプのパッケージでしたが、何か仕込んだ形跡とかは、ぱっと見では全然わからなかった。

▲睡眠薬強盗に遭った後、ふらつき歩いたブルガリアのソフィア(1999年6月)

 

――飲んだ途端、完全に意識を失うぐらいの強い薬だったっていうことですよね。

 

西牟田:そう、ジュースを飲んでから眠るまでの記憶が全くない。8時間くらいで一度目が覚めたんですけど、頭の中でジェット機がきりもみ飛行しながら落ちていくような感じのひどい目まい。なんとか壁伝いでトイレに行き、ベッドに戻ってからの記憶がまたなくて、次に目が覚めて時計を見たら来たときと同じ時間を示していた。ふらつきながらフロントまで行ってスタッフとしていたおばさんに聞いたら、「あなたがチェックインしてから36時間がたっている。一緒に来た2人の男は、到着してから10分ぐらいで出ていった」って。

 

――で、何を取られたの?

 

西牟田:米ドルと日本円とドイツマルク。ブルガリアとルーマニアの紙幣は手つかずでした。

 

――ユーロじゃなくてマルク?

 

西牟田:当時はまだユーロがなかったので。

 

――なるほど。それって国際通貨として価値があるね。で、いくらぐらい?

 

西牟田:トータル30万円ぐらい。

 

――わあそれは痛い。被害はそれだけ?

 

西牟田:そうです。それ以外は、パスポートもクレジットカードも手つかずでした。

 

――プロだね。

 

西牟田:そうですね。ああいったことは、もっと手早く効率的にやるものと想像していましたが、違いました。時間がかかるやり方であっても、あえて国境駅から乗り込む。国が変わると警察も管轄が変わって捜査が大変ですから、本当にプロだなと。

 

治安がメタメタのサハリンの旅

――『僕の見た大日本帝国』がらみの話は?

 

西牟田:やっぱりなんといっても2000年のサハリンです。この頃、3年ほどオートバイ(新聞配達や出前などでよく見かけるタイプのもの)で日本一周をしたり、日本から国境を越えたりして、旅をしながらライターをやっていました。そんな中、北海道を一周しているときに、最北端の宗谷岬に行ったらそこからサハリンが見えたので、そのままロシアのビザと国際ナンバーを取って、オートバイと共に客船で渡ったんです。

 

――そんなことできるんだ。

 

西牟田:普通はやらないと思います。ロシアのビザ取得には、通常は泊まるホテルや移動手段の予約が必要なんです。ですが、そのときは飛び込みで安ホテルに泊まったり、ソロキャンプや民泊をしたりしたかったのと、オートバイがあったため、その場で交渉してなんとか入国ビザのみを取らせてもらいました。

 

――さっきロシアでひったくりを見た、という話を聞いたけど当時の治安はどうでしたか?

 

西牟田:いいとは言えない感じでした。到着後に民泊に行ってみたら、3階建ての古びた団地だったんですが、建物の前にロックとチェーンをかけてオートバイを駐車しようとしたら、宿の主人が「家の中に持って入らないと盗まれる」って。それで手伝ってもらって、2人で100kgほどあるオートバイを3階まで階段で運びました。

 

――他に危ない目には遭ったんですか?

 

西牟田:何度も遭いました。一番頻度が多かったのはパンクです。当時サハリンの道は、郊外に出るとほとんどが砂利道で、後ろの荷台に荷物も満載していましたから、滞在中10回くらいはパンクしたと思います。常に砂ぼこりが舞う中、オートバイごと転倒して痛みで動けなくなったり、底なし沼のような泥だらけの道で進めなくなったり。あとは、パンクとは関係ないですが、橋が落ちていて予定を大きく変更したなんてこともありました。

 

――大変な道中でしたね。

 

西牟田:そうですね。そんな中で出会ったロシアの人たちは、すごく人懐っこくて親切心のあるタイプから、その逆のタイプまでいろいろでした。言葉が十分に通じないので、単に親切なのか、悪意がまじっているのか、それを都度判断するのにとても苦労しました。

 

――例えば?

 

西牟田:島の南端近くにある最大都市ユジノサハリンスクから、北端のオハまで片道約1,000kmを往復したのですが、往路の5分の1ぐらいのところでオートバイごと転倒して右半身をしたたか打ったんです。痛みがひどくて5分ほどうずくまっていたら、迷彩服を着て銃を携行した屈強な男たちにいきなり車の中に押し込まれました。このままオートバイと金品を奪われ、身ぐるみ剝がされて……とその瞬間は最悪を想像しました。抵抗しても無駄だと思いそのまま10分ほど車に乗っていたら、海辺にある彼らの拠点に連れて行かれたんです。

▲未舗装の峠道で転倒した直後。助けてくれたのは……

 

――いったい何者だったんですか?

 

西牟田:カタコトの英語でのやりとりなので、正確ではないかもしれませんが、国境警備隊または沿岸警備隊の人たちでした。巡回中にうずくまっている僕を見つけて、助けてくれたんです。その後は、コンテナ製のサウナに入れてくれたり、豚の塩漬けをアテにウォッカを一緒に飲んだり。でも翌朝になると、彼らは再び警備隊員の厳しい顔つきに戻っていました。それでまた僕は旅を再開して。

 

――ソロキャンプはどんな感じだったの?

 

西牟田:夕方までオートバイでひたすら走って、暗くなる前にテントを張り、自炊というサイクルでした。飯ごうでご飯を炊いたり、インスタントラーメンを食べたり。テントは人がいるといろいろ気を使うため、できるだけ人がいない場所で張るようにしていました。

 

――キャンプ中に危険なことは?

 

西牟田:往路の途中、森の中でテントを張ったら、食べ物の匂いを嗅ぎつけた熊がやってきたみたいで。夜中にガサゴソとテントの周りを探っているんですよ。襲ってくるんじゃないかと一睡もできませんでしたが、結局は無事でした。

▲自然の勢いに、今にも取り込まれそうなテント。幸い熊には襲われず

 

――犯罪には遭ったんですか?

 

西牟田:遭いました。サハリンの一番北にあるオハという町からの復路の途中、オートバイのタイヤが悪路でパンクしてしまいました。誰もいない森の中で修理を始めたら、たまたま通りかかった車から20歳くらいの青年2人と12歳くらいの少年1人が降りてきて、修理を手伝ってくれたんですよ。

 

――よかったんじゃないですか?

 

西牟田:手際よく直してくれたので、ありがとうと言って3人と握手したんですけど、なんだかよそよそしくて。その直後に、乗ってきた車に駆け込んで、慌てたように去って行ってしまいました。

 

――どういうことですか?

 

西牟田:出発しようとして、すぐに置引をやられたのだと気付きました。旅のメモが入ったPCや現金などを盗まれていて、オートバイで追いかけたんですけど、車なのですぐに見失ってしまい、スミルヌイフという近くの町の警察署に行きました。
事情聴取が終わり18時頃だったのですが、対応してくれた警官に宿泊先を聞かれ「今日は予約してないからキャンプだ」と答えると、「だったら家に泊まっていけ」と。妻と子ども2人がいる家庭で、ボルシチや黒パンなどのロシア料理を振る舞ってくれました。ひどい目に遭った後だったので、温かい料理が本当に心にしみました。しかも翌日は9月1日で、娘さんの小学校の入学式だったんですが、「せっかくだから一緒に祝ってくれよ」となぜか入学式にも招待してくれて、参加させてもらいました。

 

――残りの復路は無事だったの?

 

西牟田:いえ、もう一波乱ありました。あと少しで出発地点のユジノサハリンスクというところまで戻ったとき、現地に建てられている日本の鳥居を見に行ったんです。そこの最寄り駅の市場で食事をしようと、ゆでた蟹を食べたら、食あたりになってしまったんです。

 

――蟹はあたると大変だからね。

 

西牟田:現地を案内してくれた日系人の老夫婦が看病してくださって……。あのときはすごくお世話になりました。

 

――なるほど、いろんな人に世話になったんだね。

 

西牟田:そうなんです。僕がこうして放浪の旅をできたのも、その土地で出会った親切な人たちに支えられていたからです。出会った皆さんには本当に感謝しています。

 

――いろいろな経験や危機に遭って得たものとは?

 

西牟田:振り返ってみると、危険と背中合わせなものも含め、本当にさまざまな経験をしてきたなと思います。それらがあったからこそ、自分の身を自分でどう守るかということに強く注意を払うようになりましたし、安全であるためにはどうしたらいいのかと深く考えるようにもなりました。
自分自身の置かれている状態を厳しく見つめるという習慣はその後、僕が作家を続けていくための心構えとしても重要なものだったと感じています。今はもう、無鉄砲なことをしようとは思わないですけどね。

 

――トラブルが西牟田さんを育てたようなところがあるということですね。では最後に、読者の皆さんへ危険の察知の仕方とか、こうした点に気を付けた方がいい、などのアドバイスがあればお願いします。

 

西牟田:ガイドブックによく書いてあるようなことしか、僕も言えないですけどね。窓ガラスが割れたまま放置してあったり、落書きだらけの建物が目立つような場所に行ってしまったりしたときは一刻も早く立ち去ることが大事です。建物の管理が行き届いてないところは、地域の治安が維持されてない。割れ窓理論って、本当だと思います。あと僕の経験上、赤の他人にいきなりフレンドリーしてくる人は要注意ですね。最初の頃はそれで何度もやられましたから。あとは、ひどい目に遭ってもしっかりと食べることかな。そのときの食事は立ち直るきっかけになるし、格別な思い出にもなったりするので。

 

――ありがとうございました。

 

※記事内の画像は、全て西牟田撮影・提供

書いた人:西牟田靖

西牟田靖

70年大阪生まれ。国境、歴史、蔵書に家族問題と扱うテーマが幅広いフリーライター。『僕の見た「大日本帝国」』(角川ソフィア文庫)『誰も国境を知らない』(朝日文庫)『本で床は抜けるのか』(中公文庫)『わが子に会えない』(PHP)など著書多数。2019年11月にメシ通での連載をまとめた『極限メシ!』(ポプラ新書)を出版。

過去記事も読む

トップに戻る