見た目はきたないけれど、料理はおいしい店を紹介する某テレビ番組の企画がある。
料理がおいしい店を紹介する企画は数あれど、そこに「店がきたないけれどおいしい店」という斜め上の視点でもって紹介するという話題の企画だ。
その番組で数年前に紹介された、墨田区の「キッチンぶるどっく」というレストラン。実はこのレストラン「店がきたない」なんて失礼なことよりも、もっと重要なポイントがあることを見落としている。
壁が区境なのだ。
堀の跡の上にあるレストラン
壁が区境。一体どういうことなのか。とりあえず、こちらの画像をご覧頂きたい。
五軒の商店が入っている長屋風の建物。一番右が今回ご紹介する『キッチンぶるどっく』だ。
もっと近づいてみよう。
住居表示看板を見てみると、キッチンぶるどっくが墨田区千歳三丁目、同じ建物の隣の店舗が江東区森下一丁目。
わかりやすく境界を入れるとこうなる。
つまりこの「キッチンぶるどっく」は、同じ建物にあるのに、隣の店と住所が違うという、とても奇妙な状態にあるレストランなのだ。
中は一体どうなってるのか?
ご主人の桑原さんとそのお母さんの秀子さんにお話をうかがった。
――こちらのお店、中の壁がちょうど区境になってませんか?
「そうなのよ、こっちの部屋の壁が区境なの」
そういうと、カウンター席の奥にある座敷の部屋を案内してくれた。
――こっちの部屋は客室なんですか?
「いや、こっちの部屋はね、団体で予約のお客さんがあった時に使う部屋なんで、普段はカウンターの方しか使ってないの」
――しかし、不思議な構造の建物ですね、同じ長屋なのに部屋によって住所が違うというのは
「もともと、この建物は堀を埋め立てたその上に建ってるんですよ」
――堀ですか?
「そう、五間堀っていう水路で、店の前の道は弥勒寺橋っていう橋だったの、堀を埋め立てるときに橋は撤去しようとしたけど、コンクリートが頑丈だったから、そのまま埋め立てちゃったらしいね、大江戸線のトンネル掘る時大変だったらしいけど」
たしかに、店の前の道は若干盛り上がってるが、これは地下にコンクリート製の橋が埋まってる証拠だ。
埋立地の境界線上に建物がたてられた
この長屋には、建物全体の大家というものはおらず、各店舗が各部屋の大家ということになっている分譲タイプの長屋だ。こういった建物は、震災や戦災の復興住宅や復興商店として、当時各地に建てられた。
戦後、五間堀が埋め立てられたさいに、ちょうど堀の真ん中に引かれていた区境をまたぐように長屋が建設されたため、建物の中を境界が横切る形になったのだ。
長屋を分断する不思議な区境にはそんな秘密があった。
先代のご主人が「ぶるどっく」という洋食店で修行したのち、昭和47年、屋号を暖簾分けしてもらって開いたのがこの店で、以来40年以上、この森下で営業を続けている。洋食店では老舗といえるのではないか。
開店以来、先代ご主人の味にこだわる姿勢に根強いファンが多く、もともと長屋の店舗一軒分だったものを、隣の店舗を買い取り、間をぶち抜いて今の形になったのだそうだ。
――しかし、この壁が区境になるわけですよね……ゴミの出し方はお隣のお店とは違うんですか?
「それはね、この長屋の自治会みたいなのがあって、うちは墨田区だけど他の店と同じように江東区の出し方で出していいっていうことになってるの、もちろん江東区のゴミシールを買って貼らなきゃいけないんだけど」
――お隣と協力できるところはしてるんですね
「そうねー、掃除とかは一緒にやってますね、ただ、保健所の申請や、選挙みたいなのはやっぱり別になるんだけど」
区境にあって、なにか不便なことはありますか? とお伺いしたところ「いや、特にないわね」とのこと、境界を巡ってギスギスしたような話があるかと思ったら全くないという。実に平和でいいことだ。
境界があるからいさかいが起こるのではなく、幸も不幸も、すべてはそこに住んでいる人が、その環境や社会においてどう暮らしているのかにかかっているのだ。
境界線上のグルメ『ビーフシチュー』をいただく
ところでこのサイトは「食を楽しみたいひとのためのグルメ情報マガジン」である。区境の話にかまけて絶品ビーフシチューを忘れたわけではない。ちゃんと食べてきた。
「キッチンぶるどっく」の数あるメニューの中で、やはり評判なのはこの秘伝のデミグラスソースで煮込んだビーフシチューだろう。
香ばしく、コクのあるデミグラスのソースと、ホワイトソースのまろやかさがたまらない。
またつけ合せもいい。とくに淡白な味のナスのフリットが、デミグラスソースによく合うのだ。
実においしいデミグラスソース、じつは先代ご主人が何年も継ぎ足しながら完成された秘伝の味とのこと、先代ご主人は2010年のテレビ出演の後に急逝され、その後しばらくお母さんが一人で切り盛りしていたそうだが、昨年、息子さんが店に入り、本格的に跡を継いでくれる事になったのだという。
――じっさい「きたない店」というかたちで紹介されることに抵抗はなかったですか?
「いやぁ、きたないってのはもう、どうしようもないホントのことだからねー(笑)……でも、やっぱり美味しいものお客さんに出すのがいちばんだから」
「みせがきたない」という評価を受け入れることができるのは、これだけうまいものを提供できている。という自信あっての余裕であろう。
お店情報
キッチンぶるどっく
住所:東京都墨田区千歳三丁目1−11
電話:03-3633-1861
営業時間:12:00〜13:30、18:00〜23:00
定休日:日曜日