100年前からじゅらくは大衆食堂でチェーン展開していた!?憧れだった洋食が庶民の味になるまで【東京ローカルめし】

東京都内のローカルめしを探訪するシリーズ、第3回目は上野のレストランじゅらくへ。セクシーなCMで一世を風靡(ふうび)した「あの」じゅらくは、なんと外食チェーンの元祖だった!?

エリア上野(東京)

大衆食堂というと、どのような空間をイメージされるだろう?

アジの開き、サンマの塩焼き、ブリ大根といった魚系和食メニューから、麻婆豆腐や中華そばといった中華料理、はたまたオムライスにハンバーグまで。和・洋・中を問わず、ご飯とみそ汁が付けば、なんでも定食として食べられてしまう。考えてみれば不思議な空間だ。

昭和、もしくはそれ以前から長年続いている大衆食堂もある中、昨今和定食をメインに扱うチェーンも台頭し、日常生活にずいぶんと溶け込んでいる。

そんなチェーン系大衆食堂の元祖ってどこだろう? と思い立ち、調べてみたら……。

 

「じゅらくよ~ん♪」だった!

 

じゅらくとは、旅館や居酒屋など多業種で展開する株式会社聚楽(じゅらく)のこと。昭和50年代、セクシーな金髪美女が登場するテレビCMが流れ、当時の子どもたちは茶の間でフリーズし、お父さんは熱く萌えたのだ。

そんな聚楽の大本は、大正時代に創業した大衆食堂! 名を「須田町食堂」といい、日本で初めて、大衆向けの洋食店を多店舗展開した食堂とうわさされている。

これは事の真相を確かめるしかあるまい!

早速、株式会社聚楽に取材をお願いしたところ、なんと来年が百周年のメモリアルイヤーということで、ちょうど社史の編さんをされているという。なんというタイミング!

というわけで、東京の御茶ノ水、JR中央線が走る線路のすぐ脇にある、お茶の水ホテルジュラクにてお話を伺う運びとなった。

大衆食堂というスタイルの誕生

▲ご対応いただいたのは、ホテル事業部副部長兼web・システム本部の堀越弘明さん(右)と、レストラン営業部の志村竜一さん(左)

―― 本日はよろしくお願いします。早速、歴史からお伺いしたいのですが、大正13年創業の須田町食堂は、今でいう、どの辺りにあったのでしょうか?

志村さん(以下敬称略):今の神田駅と秋葉原駅の中間くらい、須田町の交差点のすぐ近くでした。

▲場所が分かる地図を見せてくれた。真ん中辺りにある赤いマスの「創業店」と書かれた場所に須田町食堂が開業した(資料写真は全て株式会社聚楽より提供)

―― 今、この場所(御茶ノ水)からもすぐじゃないですか! 当時は関東大震災の復興期で、相当にぎわった場所じゃないですか?

志村:はい、そうです。

―― 屋台やバラック建てのお店ばかりの中で、創業者の加藤清二郎氏が「安価でも衛生的な食堂を」ということで、始められたと聞いているのですが。

▲須田町食堂開店日の朝の様子

堀越さん(以下敬称略):加藤は当時、一般の庶民と呼ばれる方々が、外で食事をする場所がないことに着目していたそうなんですね。

―― 飲食店がなかったと?

堀越:気軽に入れるお店がなかったということですね。洋食というものが世の中に普及し始めたばかりで、値段が高くて入れない。加藤は創業前に、浅草のお店に働きに行っているんですよ。

―― その経験が食堂経営のキッカケになるわけですね。

堀越:そうです。ただ、そこの環境があまり良くなかったみたいですね。従業員はこき使われて、衛生面も良くないと。だったら、これを良くすれば絶対にもうかると。

―― 須田町食堂は当初、均一価格を採用していたそうですね。

志村:3銭・5銭・8銭という3段階だったそうですけど、当時の資料があります。

▲須田町食堂の価格表。当時から生ビールと一緒に定食が味わえたとは!

堀越:昭和2年(1927年)で、3銭というのが出ているので、開業して3年後くらいですかね。

―― 3段階より多く価格が分かれていますが……?

堀越:店舗を増やしていく途中で、増えていったようですね。

―― なるほど。今でいうとどれくらいの値段だったんでしょうか?

志村:カレーライスが8銭なので、800円くらいです。

―― 現在に例えると、どういった価格帯のお店に近いんですかね? 例えば牛丼チェーン店くらいとか?

堀越:それよりは高いですね。

―― 今でいう大衆食堂が、カレーで800円くらいですよね。

堀越:当時は洋食自体が高かったので、他のお店でカレーライスを食べようとしたら、恐らく1,500~2,000円近くしたと思うんですよね。それが、ここなら800円くらいだから一般の人たちでも食べられるぞと。

戦前に驚異のチェーン展開

▲急速に増えていった支店の数々

―― 当時のキャッチコピーが、「美味イ・早イ・安イ」。某牛丼チェーンの有名キャッチコピーがここから来ているらしいじゃないですか。

志村:真相は分かりません(笑)。闇の中です。この「美味イ・早イ・安イ」も、いつまで使われていたか、不明な部分ではあるんですよね。

―― 開業当初から使っていたわけではなく、例えば支店を増やしていくタイミングで使われだしたんですか?

志村:これは昭和2年の資料なのですが、この段階ですでに使われていますね。

▲「美味イ・早イ・安イ」というキャッチコピーが記された昭和2年頃のチラシ

―― 2号店は確か京橋ですよね。

▲京橋にできた2号店の様子

志村:開店が大正13年の11月20日でしたね。

―― 1号店と同年じゃないですか! ハイペースですねぇ。

堀越:創業して5年の間に、25店舗できてますから。

―― 25店舗も!?

▲支店が増えた頃の様子が伺える、マッチ等のラベル

堀越:当時としてはすごいことだと思います。

―― 当時、他に外食チェーンみたいなものはあったのでしょうか?

志村:なかったと聞いていますね。

―― となると、日本の外食チェーンとしては元祖ということになりますか?

堀越:そういうことになると思います。それから、一部のメニューではすでにセントラルキッチン方式を採用していました。

―― 戦前にすでに!? 早くないですか?

堀越:しかも、作っていた場所というのが、(地面を指さして)ここだったんです。

―― えぇ!? この中央線の線路脇で!

堀越:昭和2年に本社ビルが建った場所なんですけど、写真を見ると、ここでシュウマイを作ったり、肉をさばいたりしているんですよ。

▲写真は後年(昭和40年代ごろ)のものだが、この場所で肉をさばく様子などが残されている

―― そんな歴史の上に立っているんですね、私は。

堀越:そういう場所なんです。

―― チェーン展開するにあたって、加藤氏の中に着想のヒントなどはあったのでしょうか?

堀越:加藤が、創業する年の正月に、創業の思いを記していまして、そこに店舗を広げることは書かれていました。

―― 最初からチェーン化というビジョンが描けていたんですね。

堀越:さらに、そこには「蓄音機は購入すべし」という言葉もありました。昼は当然お客様のためにBGMとして流し、夜は従業員の慰安に、と。

―― その頃からすでにBGMという概念があったんですね!

戦前から残ったレストランじゅらく 上野駅前店

▲JRのガード下で今も続く、現在のレストランじゅらく 上野駅前店

―― チェーン展開の他に、官公庁や大学などの給食事業もされていたそうですが。

志村:昭和6年に東京大学の学食を手掛けて、日本橋の白木屋(後の東急)や東芝、神奈川県庁、それから警視庁にも携わっています。

堀越:その前年の昭和5年に、これまで須田町食堂として展開していたのが、ピタッと止まるんです。昭和9年には「聚楽(じゅらく)」という屋号でチェーン展開を開始しています。

志村:このタイミングで、須田町食堂から聚楽に、いわばブランドを変えたんです。

―― 戦前に聚楽として展開していたものの、戦後にはわずかしか残らなかったそうですね。

志村:須田町食堂と聚楽を合わせた5店舗のみです。

堀越:その中に、現在営業している上野駅前店もあります。

▲後にレストランじゅらく 上野駅前店となる須田町食堂

▲現在のレストランじゅらく 上野駅前店の様子。同じ位置にあることが分かる

―― 先日、伺いましたが、戦前からあったんですか!?

志村:現存している最古の店舗です。元々は須田町食堂だったんです。

堀越:昭和2年からあります。上野2号店でして、1号店は戦争で焼けているんですね。ここはガード下だから残ったんだと思うんですよ。何度か改装して、1982年まで須田町食堂でした。

―― 昭和の終わりくらいまでは、まだ須田町食堂の名は残っていたんですね!

堀越:それですぐ、レストランじゅらく 上野駅前店に変わりました。

―― 他にも、現在の上野駅前店の近くに、「聚楽台」というレストランがありましたよね? そこでの食事は、和・洋・中なんでもありで、昭和のファミリーレストラン的な味という印象があったのですが。

▲聚楽台外観。向かいにある当時「軍艦ビル」と呼ばれた建物には、京成聚楽が入っていた

▲ファミレスチックな聚楽台店内

▲聚楽台のメニュー写真

―― ハンバーグとかナポリタンであるとか、今もレストランじゅらくには大人のお子様ランチというメニューがありますね。

堀越:はい。

▲現在のレストランじゅらくのサンプルショーケース。見栄えするという黄色い卵メニューが多く並ぶ

▲サンプルショーケースは聚楽台にもあり、名物となっていた

▲大人のお子様ランチ(2,180円)。真ん中にデーンとエビフライが鎮座しているのが象徴的

▲味はド直球ストレート。見たまま期待通りのケチャップ味。これがイイ!

▲オムライスは卵がトロトロ。中はしっかりケチャッピー!

▲ハンバーグは結構肉肉しいぞ!

―― いただいたカットステーキ重は、タレの甘辛さがご飯と肉にマッチしていて、とてもおいしかったです。

堀越:ありがとうございます。

▲厚めの牛肉がたっぷりで超ソソる、カットステーキ重(1,680円)

▲甘辛いタレがご飯に染みて、うな重的な楽しみ方ができる

―― 特に肉が柔らかくてジューシーで、ちょっとした専門店に行ったぐらいの満足感があったなと思ったのですが、聚楽台があった頃とはメニューが変わっている部分はありますか?

志村:今の上野駅前店というのは、元々は洋食メインなんですよね。その後、聚楽台がなくなってから、和食と中華のテイストが加わったという感じですね。

堀越:レストランじゅらくは前身が須田町食堂で、聚楽台は新宿のじゅらく8(エイト)の系統という、そういうイメージですかね。

集団就職で上京した金の卵たちが感激! 初めての外食「聚楽台」

▲調べた情報を丁寧に語ってくださった堀越さん

―― じゅらく8についてもお伺いしたいと思います。新宿にあったビルですよね。

堀越:戦前の昭和9年から、前身の新宿聚楽が新宿の東口ロータリー脇にあったんですけど、空襲で周りが焼け野原になる中で残って。

▲空襲で焼け野原となるも建物が残った新宿聚楽。昭和20年9月30日の様子

▲昭和23年4月、復興時の新宿聚楽。上の写真と比べると、約2年半で復興した様子が一目瞭然

志村:この後にじゅらく8ビルが建つわけです。

▲右側に建つのが、昭和49年のじゅらく8ビル

―― すごい。こちらは何年まで営業されていたんですか?

志村:2006年までですね。

―― 当時、じゅらくを代表する旗艦店はどちらになるのでしょうか?

堀越:上野の聚楽台なんかがそうだったんだよね。

―― 聚楽台って、店内に噴水がありましたよね。

▲聚楽台の店内には噴水が!

堀越:滝が流れていましたからね(笑)。

―― 内装も竜宮城みたいな感じで、こうした桃源郷のようなイメージは聚楽台だけですか?

志村:そうですね。逆に新宿のじゅらく8はもっとカフェレストランといいますか、モダンなスタイルでした。

▲じゅらく8の1階に入っていたファミリーレストラン

▲6階のパブラウンジ「シャーロックホームズ」はまるで別世界!

―― レストランはポップでおしゃれ、ラウンジバーは絢爛(けんらん)豪華と階ごとに目まぐるしいですね!

志村:じゅらく8は業態を階ごとに別々にしたんですね。聚楽台に関しては、和・洋・中なんでもありの店だったので、こうしたスタイルにしたようです。

―― 聚楽台にはレストラン以外はなかったんですか?

志村:レストランの上のフロアにティーサロンがありました。

▲聚楽台にあったティーサロン

―― こんなステキな空間もあったのに、閉店されたのはどうしてだったんですか?

堀越:建物自体の取り壊しですね。

▲閉店を知らせる横断幕

▲閉店直前の聚楽台。ネオンがどこか寂しげだ

―― 駅から出て西郷さんに行く手前にデーンとそびえていましたから、上野を象徴する存在でしたよね。戦後、労働力として東北から上京してきた多くの金の卵たちにとって、東京で始めて食べる洋食が聚楽台だったというエピソードを聞いたことがあります。

堀越:東北の人からすれば、飯坂にホテルがありますし、昔は山形にもあって、聚楽という響きにはなじみがあったでしょうね。

―― 上京して駅を出たら、あの聚楽が上野に!? って、確かに驚きますね(笑)。

じゅらくといえば、あのCM

▲一生懸命に過去の資料を調べてくださった志村さん

―― 自分の世代だと、じゅらくといえば、「じゅらくよ~ん♪」というインパクト大のCMで強烈に印象付けられましたが、どうしてセクシーなCMになったんでしょうか?

堀越:キッカケは分からないんですけど、広告宣伝については戦前からとても力を入れていたんですね。新聞から雑誌から。街中で音楽隊が練り歩いて宣伝したりしていましたから。

―― そこで戦後、テレビというメディアが出てきて、これはテレビCMだと。

堀越:そうですね。一般家庭にビデオが普及していない時からCMを打っていたので、CMの記録が、テレビ画面を撮影した写真しかないんですよ。

―― 昭和何年くらいからCMを始められたんですか?

志村:昭和51年ごろからみたいですね。

―― 当時、子ども心に、何のCMか分からなくて、後から考えると企業CMかなと思っていたのですが、レストランのCMだったんですか?

堀越:あれは、ホテル事業のCMです。なので、今でも時々、レストランに来られたお客様で、「じゅらくよ~ん♪の聚楽とは違うよ」とかいう人がいるんです。同じ会社なんですけどね。

―― あのCMで一気に知名度が上がったんじゃないですか?

堀越:上がりましたねー。

じゅらくの良さ、それは変わらなさ

▲始終笑顔で、丁寧にお答えくださったお二方の姿がとても印象的だった

―― 戦前の須田町食堂から続くレストランじゅらくが上野にあり、また浅草にもありますね。昨今の昭和レトロブームで、再び注目されているエリアですが、そういった場所にあるというのがとても意味深いと思うんです。来年創業百年を迎えるにあたり、新たに展開されることなどありますか?

志村:新たな展開というよりも、こうして社史の編さんをしていて気づいたのですが、ずっと同じメニューを続けているんですよね。

―― 王道といいますか、変わらないところにニーズがあると。

志村:そうです。主力は、オムライス・ハンバーグ・ナポリタン、ようは大人のお子様ランチにあるメニューといったところになりますね。

上野のレストランじゅらくにある、大人のお子様ランチのサンプルの横には、「SPECIAL MENU」の言葉が添えられる。じゅらくの全てが凝縮されているからだろう

―― こうしたメニューが残ることが、一番のじゅらくの価値だと思います。百年から先も期待しています。この度は長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました!

お二人の、楽しそうに社史の編さんをされている姿に、じゅらくの歴史が連綿と続いてきた理由を垣間見た気がした。

その歴史の上に、レストランじゅらくは今もあり続けている。

これまで築いてきた洋食――その今の姿・味をぜひ、上野で体感していただきたい。

お店情報

レストランじゅらく 上野駅前店

住所:東京都台東区上野6-11-11
電話番号:03-3831-8452
営業時間:11:30~21:00 (L.O. 20:00)
定休日:なし

www.hotpepper.jp

書いた人:刈部山本

刈部山本

スペシャルティ珈琲&自家製ケーキ店を営む傍ら、ラーメン・酒場・町中華・喫茶で大衆食を貪りつつ、産業遺産・近代建築・郊外を彷徨い、路地裏系B級グルメのブログ デウスエクスマキな食卓 やミニコミ誌 背脂番付 セアブラキング、ザ・閉店 などにまとめる。メディアには、オークラ出版ムック『酒場人』コラム「ギャンブルイーターが行く!」執筆、『マツコの知らない世界』(TBS系列)「板橋チャーハンの世界」出演など。2018年5月には初の単著となる『東京「裏町メシ屋」探訪記』(光文社)を出版。

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