東急田園都市線「溝の口」駅徒歩10分に現れる安らぎの地、「フィオーレの森」にオープンした「すがひさ」は、苦悩する江戸前寿司店である。
オーナーであり職人の菅正博さんには大きな悩みがあるという。それは、前職であるタイカレー店で培われ、身体の奥深くにまで浸透した「スパイス愛」を、どうにもこうにも抑えきれない、というものだ。
きらびやかな小肌に包丁を入れながら、「グリーンカレー稲荷」を仕込んでしまう。その稲荷の完成度から、今度は「茶碗蒸し」にもレモングラスの香りを忍ばせてしまう。なおかつそれらの「裏メニュー」が評判を呼び、「変態グルメ王」こと高嶋政宏さんは地上波で「カオマンガイ」を大絶賛。寿司職人としての立ち位置や身の振り方を揺さぶりもした。
「果たして自分は江戸前の王道を歩めるのか。もしくは変態グルマンたちの無理難題に応え続ける執事と化してしまうのか……」
こんな店主の成長過程、その心中ほど面白いものはない。「表」の滋味と「裏」の新味をいっぺんに味わいながら、菅さんの悩みを聞いてきた。
▲菅正博さん。「インタビューなんて初めての経験です。カッコつけずにありのままを話すしかないですね」
菅正博:自分でもこんなことになるとは思ってなかったんです。今から思えば、僕がこんなお店を持てたというのも奇跡に近いことなんです。
う~ん、どこから話せばいいのかな……まず、僕はもともと川崎市の宮前平にある「イムイェム」というタイカレー店で働いていたんですね。そこではマスターにも信頼してもらえて、たいていのメニューは手伝わせてもらえるようになっていたんですけど、ゆくゆくは自分のお店を持って、ずっと飲食の世界でやっていくなら、もっと全方位的な料理のスキルを磨かなきゃダメだと考えたんです。やるなら包丁の使い方からやり直したいと。
でも、いろんなお店を巡って修行するにはお金も時間もかかりすぎますよね。妻子を路頭に迷わせることにもなりかねない。そこで僕は、人づてに聞いていた「飲食人大学」に通うことにしたんです。
飲食人大学とは、たった3カ月の短期集中修行を看板に掲げるにも関わらず、一流の職人ばかりを輩出しているという前代未聞の料理学校。事実、同校の卒業生が入れ替わり立ち代り板場に立つ、大阪・福島区の江戸前寿司店「千陽(ちはる)」は、オープンから1年を待たずにミシュラン・ガイドに取り上げられている。
菅正博:修行ですか? もちろん厳しかったですよ。生徒たちを束ねている先生は元・相撲取り。これは想像にお任せしますが、相当にガチな教え方なんです。
で、僕はなんとかそこでの修行を終えて、東京の某・海鮮居酒屋さんの料理長を任されることになったんですね。それまで魚料理なんてやったことなかったのに。もう、このスタートからしてメチャクチャでしょう?
胃壁崩壊の正念場「ここで一人前になれなかったらすべてを失う」
そんなロケットスタートに加え、菅さんには独立を急ぐもうひとつの理由があった。それは、「物件がオーナーを待っていた」というもの。
通常の料理人であれば、修行を終え、メニューを固めてから、理想の新天地を探して不動産屋さんを巡り……というのが独立へのステップであるのに対し、ここでも菅さんは、長い長い大石段を助走なしのロング・ジャンプで登り切るかのようなフィニッシュホールドを決めている。
▲美しいカウンターにはいっさいの無駄がない。手前には6人がけのテーブル席もあり、家族連れにも対応している
菅正博:この物件は「イムイェム」時代にパクチー農家さんとの縁で知合った方からの紹介なんです。僕がまだ海鮮居酒屋さんで働いているときに「すごい出物がある」と言われて見にきてみたら、一発でほれ込んでしまって、この板場で寿司を握る自分の姿というのがビシッと固まってしまったんですね。
そこからはさらに怒濤(どとう)の展開でした。僕はオーナーさんに「まだ修行中の身なんですが絶対に借ります! 来年の頭には必ず戻ってきます!」と頼み込んで、急きょ「千陽」の板場にも入らせてもらって、2カ月の実践を積ませてもらいました。まさにオン・ザ・ジョブ・トレーニング。自分は「ここで一人前になれなかったらすべてを失う」ってこともあったので、「千陽」の同僚たちからは「東京から目の血走ったヤバいのがきた」とビビられていたと思います(笑)。
背水の陣、などという慣用句では片づけられない、乱暴狼藉(ろうぜき)の単独行である。
菅正博:もちろん開店資金は借金ですし、「やらかした感」満載。資金繰りの頃はもうひとりの自分が「頼むからもうやめとけ!」って叫んでました……。でもまぁ、こういう無理が効くのも今のうちかなって。「いつかやりたい」じゃいつまで経ってもできないし、失敗のことは考えずに……いや、もちろん考えちゃうんですが、その声には耳を貸さずに、走れるうちは走っておこうと。
こういう考えは、東日本大震災であったり、起業して頑張っていた同い年の友達が、これからというときに心不全で急逝してしまったりして、「人間なにがあるかわからない」というのを実際に体感することで固まったものでもありますね。
菅正博:やっぱり開店当初は大変でしたよ。宣伝する時間も手立てもなかったですし、前日に売れ残ってしまったネタを翌日の昼に大盛りにした、赤字覚悟の「ばらちらし」ばかりが出てしまったり。僕があまりにも仕事ばかりしているものだから、子どもとキャンプにいく約束をすっぽかしちゃったりして、奥さんに家を追い出されそうにもなって……あ、これは書いちゃダメですよ!
(そんな失言をなかったことにするように)まぁ、話ばかりでもなんですから、ひとまずこれでもつまんでください。
小肌にまぐろ。まずは江戸前の「表」を味わう
漆黒の平皿に置かれたのは、江戸前寿司の本領である光り物。二枚づけにされた「小肌」は、シャリの甘みにホロホロと溶け合う完璧な酢加減だ。
菅正博:このお店はもうすぐ2周年で、僕の職人歴はまだ3年というところですが、なんとか自分でも納得のいく握りを出せるようになりました。
……しかし寿司店というのは想像以上の激務でしたね。仕入れやらなんやらで早起きして、お店に着くのが朝の8時ぐらい。そこから仕込みをして、11時から2時までランチ。すぐに夜の仕込みに入って、5時から11時までが本営業。カレーの場合は「寝かせることでおいしくなる」みたいな部分もありますけど、寿司はそんなことないですから、魚も自分も眠れないわけです。いつも次にやらなくちゃいけないことに追われてますね。
じゃあ、つぎは「中トロ」いきましょうか。
これまた極上。本物のまぐろは魚の味がしない、などと書くと誤解を生みそうだが、鼻腔へと抜ける甘い香りは、メロンなどウリ科の果実を思わせるほど。
菅正博:つぎはちょっと珍しいと思いますよ。
と、出されたのは、「イムイェム」時代のレシピを菅さん流にアレンジしたという「鯖(サバ)の生春巻き」、そして白磁器のような見た目もおもしろい「ゆで卵の握り」だ。菅さんが、いたずらをしかける子どものような表情で説明してくれる。
菅正博:「イムイェム」の生春巻きというのもちょっと変わっていて、海老や鶏肉ではなく「まぐろ」を巻いていたんです。それをライムと胡椒を効かせた自家製だれといっしょに出していたんですね。でも、うちは寿司店ですから、そのタレをそのまま出すということはしたくなかった。そこで僕は、まぐろを「しめ鯖」に変えて、ネタ自体の味を強くすることで、そのまま、もしくは醤油でも味わえるようにしてみたんです。
「ゆで卵の握り」はうちのお客さんに、昔『少年マガジン』で『将太の寿司』を描かれていた寺沢大介先生のマネージャーをやってらした方がいて、その方にびっくりしてもらおうと思ってつくったものです。漫画には、ゆで卵の黄身に海老のおぼろを混ぜこんで握った「ひよっこ寿司」というのが出てくるんですが、僕はそれをさらにアレンジして、黄身に「あん肝」を和えることで、さらに濃厚にしたものを握ってます。
しめ鯖や大葉をしっとりとまとめる半透明のライスペーパーは、その名の通り、米の粉が原料である。つまりこれは、かたちは違えど「魚と米の競演」という寿司のルールにのっとったものであり、そこには職人・菅さんならではの連想ゲームが見て取れる。
そして菅さん流の「ひよっこ寿司」は、舌にほぐれるシャリ、前歯にプルンと気持ちのいい白身というふたつの食感が小気味よく、淡白な見た目を豪快に裏切るどっしりとした味わい。
「このへんはギリギリで表メニュー。まだまだアイドリングですよ」と笑う菅さんに、創作意欲の源を聞いてみた。
まぐろの皮にアブラゼミ。あらゆる刺激を板場の宿題に
菅正博:創作意欲の源……それはやっぱり、お客さんにびっくりしてほしいからじゃないですかね。あと、やっぱり日本料理というのは「いかにゴミ箱の中身を軽くするか」が腕の見せどころだったりもしますし、素材の味を引き出しつつ、同時にフードロスもなくしてゆくという、質実伴った世界なので、おのずと「この食材でなにかできないかな」という考えになるんです。
たとえば従来の寿司職人は、本来は捨ててしまうはずの「まぐろの皮」を湯引いて細切りにしたものをポン酢であえて出す、みたいなことをしているんですが、自分の場合はそれをさらに発展させて、透けるぐらいの削ぎ切りにした皮をしゃぶしゃぶにして、裏メニューの「フォー」に添えたりもしていて。大抵のお客さんは「これなんですか?」となるんですけど、そこで「実はまぐろの皮なんです」と種明かしすることで、それがひとつのコミュニケーションにもなりますし、そういう工夫が次のお客さんにつながったりもしますしね。
菅正博:こういった新しい味に対する研究は四六時中やってます。最近は飲みに出かけても、ただおいしいものを食べるというだけじゃなく、勉強の意味合いが強くて、気持ちの休まる暇がないんですよ。どんなジャンルの料理を食べていても「こうアレンジすればうちのお店でも出せるんじゃないか」みたいに考えてしまうんです。
異業種のシェフから刺激をもらうことも多いです。たとえば下北沢にある「サーモンアンドトラウト」というお店。ここの森枝シェフというのもかなりの変態で、料理にタイ産のカメムシを添えてみたり、アブラゼミの素揚げを出してみたり、僕と似た匂いを感じるんです。自分のベースは和食ですけど、森枝さんの料理やアイデアに触れると「自分みたいなルーツの人間だからこそ進化させられる寿司の世界があるのかもしれない」と、勇気をもらえるんですね。
常連さんからのリクエストから誤爆した、「変態コースの会」
「生春巻き」や「ひよっこ寿司」を前座に、菅さんは本格的な裏メニューの猛攻をスタート。「ふつうの寿司職人はこんなもの絶対につくりませんよね」という自嘲的な笑いとともに、「グリーンカレーの茶碗蒸し」と「グリーンカレー稲荷」が立て続けに運ばれた。
泡立つような口当たりの茶碗蒸しは、卵の香りとスパイスの香りが美しく調和することで、ギリギリ和食の範疇(はんちゅう)に収まり、稲荷は甘く煮られた揚げと、シャリに混ぜ込まれたナッツの油分が口中で混ざり合うことで、やはり和食の急先鋒となっている。どちらも創作料理とくくるには驚くほど完成度が高い。しかしこの「完成度」こそが菅さんの悩みでもあった。
菅正博:だってこれ、普段は出してませんから。スパイスの香りは握りの邪魔になりますし、こういう「裏」ばかりを求められても対応できないので、うちの握りの味をわかってくださる常連のお客さんだけに出しているものなんです。だからこういうメニューの完成度がいくら上がっても、まったく売り上げにはつながらない。自分でも「いったいどこに力を入れてるんだろう……」と悩んでしまうわけです。
▲バイマックル(コブミカンの葉)、レモングラス、ガーチャイなど「変態コース」のためにそろえられたハーブ類
▲菅さん愛用の調味料。これらも通常営業時はストッカーの奥深くに眠っている
菅正博:もともとこうした「裏メニュー」のスタートというのも、僕のカレー時代を知っている、ある常連さんからの注文がきっかけです。まずその方から、「相当に難しいとは思うけど、いつかタイ料理を取り入れた寿司コースをつくってみてほしい」というムチャブリがあって、僕も負けず嫌いなものだから、貸し切りにしてもらうことでテストしてみたんですね。そしたらそれが評判になって、いつしか月1回のペースで、裏メニューを中心に出す「変態コースの会」が始まってしまった。
ついにはあるお客さんが連れてきてくださった俳優の高嶋政宏さんが、大のアジア料理好きだということから、僕の「カオマンガイ」が地上波(フジテレビ『石橋貴明のたいむとんねる』のワンコーナー「勝手に語り継ぎたい変態グルメ」)で紹介されるところまで行ってしまったという。
最初にどこかしらのメディアが僕の「寿司」を紹介してくれればよかったんですけど、残念ながらまだそういうお話はいただけてなくて、もう、どうしたものかと……。
言葉は切実だが、口元は笑っている。そしてその手は肉専用のまな板に伸び、瞬く間に「変態メニューの会」の大トリである「カオマンガイ」が完成! 見よ! この貫禄の佇まいを!
菅正博:ここまでやってしまうと、さすがに寿司店と言い張るのは難しくなりますね。何度も言いますけど、これ、普段は出してませんからね? こればかりが有名になってしまうのは、本当に困るんですよ。
溝の口という町は「センベロ」の町ですから、銀座や浅草なんかと比べてしまうと、落ち着いて寿司を食べたいという人は少ないと思うんです。だからこそ、わざわざ足を運んでくださったお客さんには、僕の握りで真っ向から勝負していきたいですし、そういうお客さんがこのお店を出るときには「おいしい寿司を食べた」「江戸前の所作に触れた」と、心から満足していただきたいんです……って、今日は言ってることとやってることが完全に真逆ですね。全然説得力ないですよね……。
すみません! 聞いてませんでした! それもこれも、この「カオマンガイ」の引力が強すぎるからである。
しっとりと柔らかな鶏肉にかけられているのは、タオチオ、ナンプラー、レモン汁などをミックスしたオリジナル・ソース。硬めに炊かれたライス、いや、米には、近年「モロヘイヤ」を超える健康食品として注目を集める「モリンガ」の緑がふりかけられ、国産パクチーのみずみずしさもトップクラス。なにより本場タイではドバドバと投入されるのが常である化学調味料をいっさい使用しないことで、これもどこか「和」のテイストを感じさせる優しい味わいとなっていて──。
菅正博:それは手前に添えた「ガリ」のせいもあるかもしれませんね。これは寿司職人としてのマーキングみたいなものです。このカウンターで100%のタイ料理を出すというのはやっぱり違うのかな、という迷いのカタマリともいえますが。
……でも、この「カオマンガイ」がテレビで紹介されてしまったことでフッ切れた部分もあるんですよ。僕に寿司のいろはをたたき込んでくれた「千陽」の師匠にも、「イムイェム」のマスターにもこんなことやってるのがバレちゃうわけですからね。最初は「お前ふざけんなよ!」って電話があるものだと覚悟してました。でも、たまたま市場で出会った「イムイェム」のマスターには、「おいしそうだね、あの"ガリマンガイ"」なんて笑ってもらえましたし、実際にお寿司も食べてもらって「丁寧な手仕事だね」と褒めていただいたので、もうこうなったら、表も裏もがっつりやっていくしかないのかなって。
自らの覚悟を声に出し確認するかのように、菅さんは続ける。
菅正博:そもそも江戸前寿司というのは「引き算」の世界で、いっぽうのタイ料理は「足し算」の世界なんです。だからこそ「寿司職人は伝統の枠から外れちゃダメだ」という方もいらっしゃいます。でも、どうしても自分はそうした「引き算」を極めつつ、「足し算」の可能性も捨てきれないわけです。
寿司職人は死ぬまでが勉強のシビアな世界。でもせっかく「変態コース」をやるなら1品でも2品でも新しい味をお出しすることで驚いてもらいたい。……これ、かなりハードな板挟み状態なんですが、ハードであればあるほどそれを楽しめている自分を発見したりもするんですよね……。たぶん自分は寿司職人以前に「料理人」なんでしょうね。最近そのことがようやくわかってきた気もします。
負けず嫌いの研究肌。ストイックでありつつ向こう見ず。
取材も終盤に差し掛かり、ひとつ確信させられたのは、こんな職人に素人が口を出せることなど、なにひとつないということ。また、菅さんの悩みは今後もずっと解消されることがないということ。
菅正博:自分でも、ドMだなぁって思います(笑)。そうじゃなきゃこんな人生歩んでません。悩んでいることは悩んでいるんですけど、窮地に置かれたほうが力が出るということも、自分でよくわかっているんです。強いやつと戦うことでより強くなる、みたいな。実際にこてんぱんにされることもありますけど、それだって貴重な経験になりますし、窮地はつぎの窮地を楽にするためのもの、という考えもあります……ってこれ、カッコよすぎですかね?
料理人の中には部下を徹底的にシゴくことに喜びを見出すドSな人も多いですし、この職業というのは、そのぐらいSとMの両極どちらかに振り切れていないと務まらないものなんだと思います。こんなことはこうして口に出すまで気づいていなかった部分でもあるんですが、やっぱり「変態コースは変態にしかつくれない」ってことなのかなって。
いやぁ、インタビューって本当に怖いですね……。
お店情報
鮨 すがひさ
住所:神奈川県川崎市高津区久本1-16-15
電話:044-750-7369
営業時間:11:00~14:00 / 17:00~23:00
定休日:日曜日
ウェブサイト:https://sugahisa.com//