【閉店】大勝軒のルーツはどこに?代々木上原のレジェンド2代目が語る、つけ麺誕生の秘密【ラーメン系譜学】

熱々のスープと麺を一緒にすするのは、猫舌にとってハードルが高い。その点、つけ麺は自分のペースで食べても麺はそんなにのびないし、スープを温め直すサービスもある。つけ麺は素晴らしい発明だと思うのだ。今回はつけ麺のルーツを知るべく、東京・代々木上原「大勝軒」で話を聞いてきた。

エリア代々木上原(東京)

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夏の暑い時期に限らず、年中食べられ専門店も増え、今やすっかりラーメンの1ジャンルとして定着した“つけ麺”。太めの麺を甘酸っぱいつけ汁で食べると、見ため山盛りの麺量も不思議なほど胃にスルスルと消えていく魔法の食べ物。こんな料理を一体誰が最初に考え付いたんだろう?

 

そう、今やラーメンフリークならずとも、東池袋 大勝軒の大将、故・山岸一雄氏の名は、書籍のみならず映画化もされ、多くの人に知られるところとなっている。

山岸さんはたくさんの弟子を取り、東池袋 大勝軒の味は全国各地に広まった。そして今世紀に入ったあたりで、豚骨魚介Wスープムーブメントとともに興った一大つけ麺ブームの礎となった。

しかし、詳しい人なら知っていようが、つけ麺が初めて商品としてメニューに載ったのは東池袋 大勝軒ではない。つけ麺が発祥した陰にはもう一つの大勝軒が存在した。今回はもう一つの大勝軒の存在を多くの知ってもらいたいと思い、真のつけ麺の元祖を知る方にお会いすることができた。

 

向かったのは、東京メトロ千代田線が小田急線に乗り入れている駅、代々木上原。最近ではオシャレなイメージが付いているが、駅前には古くからの商店街が伸びる、親しみやすい風景が続く。その中に、駅前でも最古参に当たるのが代々木上原 大勝軒だ。

 

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大勝軒は元々は中野にお店があり、そこから移転してきた。今でも中野にあるが、中野は支店、代々木上原が本店という関係になっている。

 

移転の際、中野の支店を任されたのが、山岸さんだった。そこでまかないとして食べられていたのがつけ麺で、お客さんにも出されるようになって、初めてつけ麺というメニューが誕生した。

そうした経緯、さらに以降のつけ麺の発展を、当時の中野 大勝軒の店長、つまりは山岸さんの師匠に当たる坂口正安氏のご子息である坂口光男さんに、直接お話をうかがうこととしよう。

 

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▲大勝軒創業者のご子息、現在は丸長のれん会(後述)の会長を務める坂口光男氏

 

つけ麺の生誕地は中野だった

── 本日は誠にありがとうございます。さっそくですが大勝軒のお店の歴史から教えてください。

 

坂口氏:大勝軒は中野から始まったんです。私の父が昭和26年に今の場所(JR中野駅南口から下った通り沿い、中野区中野3-33-13)からバス停で2つ渋谷寄りの橋場町(現在の中野区中央5丁目)に戦後マーケット(闇市)がありまして、そこで始めたんですが、昭和29年に代々木上原に本店を移して、中野は支店として昭和49年の区画整理で今の場所に移転するまでそこで営業していました。

 

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▲橋場町時代の中野 大勝軒(昭和30年頃)

 

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▲代々木上原 大勝軒の外観(昭和35年頃)

 

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▲代々木上原 大勝軒の店内(昭和35年頃)

 

── つけ麺は創業当時はメニューになかったんですよね?

 

坂口氏:昭和30年からつけ麺を始めて、昭和40年代に徐々に有名になって行ったんですが、その前の昭和36年まで、山岸一雄が10年間、あそこ(中野 大勝軒)にいたんです。山岸一雄は、私の父が呼び寄せて、一緒にやってくれって始めたんです。

 

── 中野 大勝軒に山岸さんが居られた頃に、まかないとして「もりそばの中華版」が考案されたと言われていますね。

 

坂口氏:丸長の修業時代に初めてメニューに載せたんですよね。当時からすでに冷やし中華もやっていて、修行時代から従業員の皆んなでチョコチョコ食べたんでね。だから、初めて中野 大勝軒がメニューに載せたってことなんですね。

 

すべては丸長から始まった

── 中野の大勝軒はそもそもは丸長 (丸長とは東京に古くからある中華料理店の系統で、丸長の長は長野の長といわれるように、長野県人の青木3兄弟と山上信成氏、そして坂口正安氏の共同経営で始まった。そこから大勝軒の他、永楽・栄龍軒・丸信と分派し、ラーメン・つけ麺の専門店もあれば町中華化した店舗まで、多くののれん分けが現在も残っている)からののれん分けですよね。

 

坂口氏:丸長のオヤジ(故・青木勝治氏)ってのが、ウチのオヤジの師匠ですよね、昭和22年荻窪が発祥の地ですから。青木3兄弟が焼け野原に集まって始めたんです。父は戦争から復員して、戦前お世話になっていた青木さんに再会したんです。

 

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▲代々木上原店はラーメン類の他、一品料理やアルコールも充実し、町中華としても利用できる

 

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▲2Fの座敷で中華居酒屋としても楽しめる

 

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▲現在の代々木上原 大勝軒のつけそば。なんと562円! この安さは、日本そば店における、かけそばのポジションという

 

── 創業に当たって、そばからラーメンに変わられたんですか?

 

坂口氏:終戦後、何もないところに食糧統制もあって、小麦粉も1~2年くらい配給制だったんですけど、当時は満足に食糧が入ってこない。その時に、生きるために何をしようかってことになってね。皆長野出身で、青木さんは小岩でそば店もやっていたんですけど、日本そばってすごく道具が必要だし、そば粉もないんですよ。だからラーメンやる以外になかったんです。

 

── 荻窪から共同経営者各人が都内各地で独立し、そこからさらに丸長グループが枝分かれしていったと。

 

坂口氏:丸長・大勝軒・栄龍軒・丸信と枝分かれしてたのが、昭和34年に新年会で集まって、これはもうグループ作ってやっていこうじゃないかってことになって、丸長のれん会の創立が34年。その後昭和40年代に、つけ麺の作り方をこうしましょうああしましょうという勉強会が持たれました。

 

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▲麺はモチロン自家製麺。モチモチな中にポクっとした粉の風味がいきている

 

── それで一つの、丸長としてのつけそばのスタイルが確立され、定着したと!

 

坂口氏:清湯(ちんたん)スープで、サバ節・カツオ節、野菜、豚骨・鶏ガラ(濁らないよう煮立たせず炊いたスープ)が定着したわけです。それで大ヒットしたんですよね。

 

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▲サラっとしたスープで、山岸さんの東池袋 大勝軒もりそばを想像すると物足りなく感じるかもしれないが、じんわりとした滋味深さは、余ったつけ汁にスープ割りをして飲むとよく感じられる

 

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▲割りスープ単体で飲むとより堪能できる

 

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▲スープを存分に味わうなら、魚介の香りが真っ先に鼻腔に広がる中華そば(562円)を。つけそばのスープ割とはまた違った味わい

 

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▲ちなみに、代々木上原店はおつまみメニューも豊富。しかもお手頃価格!

 

つけそばの味は時代とともに

── 中野 大勝軒でメニュー化された当時の味と、現在の代々木上原 大勝軒の味は同じなんですか?

 

坂口氏:いや、それはあり得ないです。もちろん味は変わっていますよ。

 

── えっ!? それは時代とともにお客さんの嗜好(しこう)に合わせて?

 

坂口氏:材料がそもそも当時のものはそろわないですし、それに今の学校給食とかインスタートラーメンで育った人たちの味覚に、合うわけないです。

 

── 日本人の食事情が変わっていって、ラーメン自体もより栄養価の高い方向へシフトしていったと。自分が東池袋 大勝軒で食べたもりそばは、動物系の出汁が強くて、つけ汁が白濁して重めの印象があるんですけど、自分が知っている丸長系の大勝軒とだいぶ印象が違うなと思いました。

 

坂口氏:昭和の終わりくらいから、山岸は丸長系の大勝軒と違う作り方を始めたんですよね。食糧難の時代、食べるもので苦労した人だから、お腹一杯食べたいっていう彼なりの気持ちの表れなんでしょうね。だからお砂糖で甘くして、煮立たせた白湯(ぱいたん)の濃い出汁のスープといった(麺も多く満足感の高い)、自分の味を作り始めたんです。

 

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▲山岸イズムを受け継ぐ滝野川 大勝軒(現在は池袋に移転)の、豚ガラが強くボリュームたっぷりなもりそば ※参考写真

 

── では東池袋が独自路線に変わっていったと。

 

坂口氏:日本そばも、東京の藪系と砂場、更科ってありますよね。

 

── はい、御三家ですね。

 

坂口氏:あのような感じが丸長・大勝軒なんですね。それぞれの味を開発して、店主らが自分のアレンジを加えてやってるので、グループとしての縛りはないです。ですから長く続けていられると思います。

 

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▲麺の盛りが美しい、今はなき中野 栄楽 ※参考写真

 

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▲やや平打ちの麺とすり鉢で出てくる阿佐ヶ谷 丸長 ※参考写真

 

みんなで作り上げた「つけ麺」

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── 山岸さんがつけ麺の元祖といわれるのを丸長・大勝軒サイドはあまり快く思ってない、という噂を聞いたことあるのですが。

 

坂口氏:快く思っていないということはありません。つけ麺の元祖発祥の地は中野 大勝軒で、これはまぎれもない事実です。お客さんに喜んでもらうためメニューに載せたのです。その後丸長の多くの同胞たちが世に知らしめ、つけ麺が認知され、山岸は本人の魅力もあってシンボル的存在になったということです。

 

── 山岸さんがシンボル的存在になられたことについて、お父様は完全に、どうぞどうぞと割り切った感じだったんですか?

 

坂口氏:父と山岸は、従兄弟の子という関係でしたが、義兄弟的な堅い信頼関係で結ばれていました。父が亡くなった後山岸は大勝軒ののれん、そして業界を盛り上げるために尽力したということです。

 

── モチロン山岸さんの功績は誰もが認めるところですけど、やはりつけ麺という食べ物の由来はどこの誰がというより、中野 大勝軒というお店で生まれたということですよね。その本家本店が代々木上原 大勝軒であると。そのことをどうしても多くの方に知ってもらいたかったんです。今回詳しい話お聞き出来て、確証が持てました。貴重なお話、ありがとうざいました!

 

つけ麺が生まれた背景には、これまで本連載でお聞きしてきたことと同じように、中央線沿線の闇市のバラック小屋から発展した戦後のラーメン史があり、さらに中央線の先、長野の日本そばという日本人に長きに渡り親しまれた食文化があった。FCチェーンではなく、のれん分けの各店ごとに裁量を任せる、独立した個人経営のお店としての個性を尊重することで、丸長・大勝軒のつけそばが広まったのも、山岸氏のスタイルのもりそばも全国区にまでなったのも、「そば」という日本人に訴えかけるバックグラウンドがあったからではないだろうか。

日本そばが今なお老舗ののれん分けでお店ごとの味を楽しんでいるように、身近な丸長・大勝軒のお店で、つけそばを是非味わって、食べ比べていただきたい。

 

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お店情報

【閉店】代々木上原 大勝軒

住所:東京渋谷区上原1-17-11
電話番号:03-3467-1479
営業時間:11:00〜22:00
定休日:水曜日

www.hotpepper.jp

※このお店は現在閉店しています。
飲食店の掲載情報について。

 

写真提供(一部):坂口光男氏

 

書いた人:刈部山本

刈部山本

スペシャルティ珈琲&自家製ケーキ店を営む傍ら、ラーメン・酒場・町中華・喫茶で大衆食を貪りつつ、産業遺産・近代建築・郊外を彷徨い、路地裏系B級グルメのブログ デウスエクスマキな食卓 やミニコミ誌 背脂番付 セアブラキング、ザ・閉店 などにまとめる。メディアには、オークラ出版ムック『酒場人』コラム「ギャンブルイーターが行く!」執筆、『マツコの知らない世界』(TBS系列)「板橋チャーハンの世界」出演など。2018年5月には初の単著となる『東京「裏町メシ屋」探訪記』(光文社)を出版。

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