世界に認められたとんかつ店
ミシュランガイド。それは料理店の憧れの目標です。東京で最高位の三つ星に輝いたレストランはわずか12軒。もちろんこの評価が全てではありませんが、名誉であることは間違いないでしょう。
ミシュランガイドの中にビブグルマンという評価があります。5,000円以下で食事ができる、おすすめレストランを指し、ビブグルマンはミシュランガイドにおける「安くてコスパのよいオススメのお店」といった感じでしょうか。
2015年版でビブグルマンが初めて登場して以来、ずっとビブグルマンに選ばれ続けているとんかつ店があります。駅から少し離れている、まあ、ぶっちゃけちょっぴり辺ぴな場所にあるとんかつ店を営むのは、元銀行員という珍しい経歴を捨つ笹本さん。飲食の仕事は未経験なのに見切り発車でお店をオープンし、20年後にビブグルマンに選ばれた波乱万丈の人生。それはまさに夫婦の物語でした。
まずは「自然坊」のとんかつの紹介をしましょう。
住宅街にあるちょっと高そうなとんかつ店
「自然坊」は東急池上線の久が原駅から徒歩8分ほどの住宅街にあります。池上線は五反田と蒲田を結ぶ路線ですが、知名度は高くないかもしれません。ターミナルと呼ぶのも微妙駅同士を結ぶ上、列車は3両編成と、都内を走る路線の中でも有数のローカル線と言えるでしょう。
▲こちらが池上線です
余談ですが筆者は蒲田出身でして、池上線はなじみの深い路線です。昔は目蒲線と池上線は同じ3両編成であったのに、気がつけば目蒲線は4両になり、さらには目黒線と名前を変え他の路線と乗り入れ、都心まで進出する大出世を遂げたのは記憶に新しいところです。
その一方で池上線は変わることなくローカル線テイストを維持しています。つまるところ、そんな地味な路線なのです。久ヶ原駅から住宅街をしばし歩くとお店はあります。
▲こちらがお店の外観。高級感があります
店内に入りましょう。とんかつ店とは思えないスタイリッシュな内観が印象的です。カウンターではお酒を楽しむお客さんの姿がありました。地元の人に広く親しまれている様子で、別の日には家族連れの姿も多く見えました。
▲カウンターではお酒を楽しめそうですね
厨房に入れてもらいます。そこで腕を振るうのは、笹本さん。銀行員を経て、この道に入ったのが30年近く前のこと。以来、このキッチンでとんかつを揚げてきました。
▲使っている豚は大和豚という銘柄豚です
群馬県で育てられた大和豚はうま味が強く、脂が甘いのが特徴です。揚げている最中も出るアクが少なく、きれいに仕上がります。うま味と豚肉の持つ滋味を堪能することができるんだとか。作り方を見てみましょう。
▲粉と衣は均等につけないとはがれやすくなります
パン粉は石川台の地元のパン屋さんで無添加のもの購入し、耳を削って、機械に入れて粗めにひきます。最初はなんども、繰り返して、網の目の大きさを調整したそうです。
笹本さん:創業当時は自家製のパン粉を使っているお店はあまりなかったですね。こだわりっていえばこだわりでしょう。
▲衣を固める作業は神経を使います。はがれないように、ぎゅっと力を入れます
── ちなみに油の温度は?
笹本さん:わからないなあ。感覚だから。1人前、2人前でも全然違いますしね。
▲だんだん色づいてきました
おいしそうに色づくとんかつ。肉の下味からパン粉をつけて揚げるまでの一連の動作が、かなりゆっくりに見えるのは、丁寧な仕事をされているからでしょう。このお店では注文から提供まで20分近くかかります。
▲「要領が悪いから、ゆっくりやるしかなんですよ」
ちなみに「自然坊」というのは高名な陶芸作家さんのお名前に由来します。店主の笹本さんが中川自然坊さんの器にほれ込んで、お店をオープンする際に一気にまとめて購入し、その上、店名にまで名前を冠する思いの入れよう。
▲自然坊先生のお皿が並びます。先生は2011年にお亡くなりになりました。合掌
── 素晴らしい唐津焼ですね。この器、かなり高かったんじゃないですか。
笹本さん:あはは。
笑ってごまかす笹本さん。横で奥さんの顔がこわばっています。この話題にはあまり触れない方が良さそうです。
笹本さん:まとめて買ったし、多少は安くしてもらいましたね。先生は亡くなってしまったし、これからも大事に使わないと。
この器がとてもかけがえのないものに思えてきました。そして、そろそろとんかつも出来上がりの気配がします。
▲揚げ時間は7~8分。余熱で通します
▲息子さんが切り分けて……
▲はい、出来上がり
▲では、いただきましょう。なれない自撮りに失敗してしまいました
▲あらためていただきます
▲撮影に手間取り、中身の肉に火が入ってしまいましたが、このジューシーさが断面から伝りますか
衣は柔らかく、ふんわりとした優しい口当たりです。肉のうま味が口いっぱいに広がり、塩をかけていただくと、脂の甘さがさらに引き立ちます。
でも全然くどくない。「軽いとんかつ」という表現が正しいのかわかりませんが、あっさりとした口当たりで、これならいくらでも食べられてしまいそうです。こりゃうまいや。
あてもなくお店を開いた主人とそれにあきれた奥さん
店主の笹本さんと奥様にお話を聞きました。
▲91年にオープンしたので今年の10月で満27年。「あっという間だったね」
── なぜとんかつ店をやろうと思ったのでしょうか?
笹本さん:そりゃ、とんかつが好きだったからですよ。
聞けばご主人の出身は、地元の上池台。高校は雪谷高校。大学ではスキーに打ち込み、当時の夢はいつかスキー場のロッチを開くことだったとか。大学を卒業後、農協の銀行部門(現JAバンク)へ就職します。しかし、年功序列で保守的な会社組織に嫌気がさしてしまいます。
▲「飽き飽きしちゃったの」
農協をやめたのは31歳。当時、二人のお子さんがいました。その後不動産の仕事などを経て36歳の時に「自然坊」をオープンします。実は、昔から笹本さんが憧れていたお店がありました。それは成城にあった「椿」というとんかつ店です。ちょっといい住宅街にお店を構えて、少し高めの価格帯というモデルは、「椿」を参考にしたそうです。
── ということはそちらで修行されたんですね?
笹本さん:いや、全然。どこでも修行してないです。自分で学んだんですよ。お店を作った後に自力で学んだの。
▲「お店を作ってから、修行を始めた」と、とんでもないことを言い出す笹本さん
横で奥さんが渋い顔をしています。
── 当時のことを思い出したのでしょうか。手に職もないのに会社を辞めるって聞いた時はどう思いましたか。
奥さん:いきなり、「辞めてきた」って言われてね。そりゃビックリしましたよ。
── でも、多少は蓄えがあったんですよね。
ないない!(夫婦で口をそろえて)
奥さん:生活の余裕なんて全然なかったです。だって、このお店を開くのも、私の実家を担保にしてお金を借りたんだから。
奥さんの興奮が最高潮に達しました。それは不安だったことでしょう。
奥さん:器だけでもすごいお金かかったし。
笹本さん:なにか売りを作らないと、人が来てくれないと思ったんだよ。
▲オープンするのに2,000万円近くかかったそうです
ぱっと見た感じは実直そうな印象を受けますが、意外と無鉄砲な笹本さん。そして、いつもニコニコしている奥様は名コンビ。
── お二人はどうやって付き合いだしたのでしょう。
奥さん:親戚のおじさんがやってた野球チームで知り合ったんです。私が高校生でマネージャーみたいなことやっててね。
── やっぱり旦那さんから声をかけた?
笹本さん:そりゃまあね。
結婚して動き始めた二人の人生
▲奥様が22歳の時に結婚。旦那さんは26歳でした。
旦那さんが農協勤めで仕事が安定していて、転勤がないことが結婚の決め手になったと言います。
奥さん:私の実家が飲食店だったの。客商売の大変さを間近で見てきたから。そしたら、旦那がそっちの道へ……。
当時笹本さん夫妻のお子さんは3人に増えていました。それで独立するのは勇気がいりましたね。
笹本さん:ばくちだったね。とにかく、妻の支えが大きかった。あ、これは絶対に書いておいてくださいね(笑)。
▲こちらは長男の彌さん。独立した当時は8歳くらいでした
彌さんは当時小学校2年生。
── その時のことは覚えていますか?
彌さん:あんまり覚えてないんです。でも、その後が大変でしたね。お店は夫婦2人で切り盛りしているから、3兄弟の誰かしらが駆り出されるんです。家に電話かかってきて、じゃんけんで負けたやつが行くのが嫌だったな。
そんな彌さん、今では毎日お店に立って、調理と接客を担当しています。
▲軌道に乗るまでは苦労もあったようです
笹本さん:20年くらい苦しんだね。毎日のご飯くらいは食べられるけど。次の支払いを考えると憂鬱(ゆううつ)になってました。
心労がたたると、すぐに胃が痛くなるという笹本さん。
── ああ、だから揚げ油はラードじゃなくて綿実油を使ってるんですね!
笹本さん:違います(笑)。でも、確かに自分は油の匂いがあまり得意ではないから、それは気をつけていますね。他のとんかつ店でも、店内が油臭いと食べずに出ちゃう。
言われてみれば、「自然坊」は、お店の外でも、お店に入っても、油の匂いはほとんどしませんね。それがお店のスタイリッシュなイメージを強くしているのかもしれません。
笹本さん:胃が弱い自分でも食べられるとんかつを作ってるんですよ。
「独学で修行すれば、なんとかなるかな」
▲こちらがお昼のメニュー
── どうやって腕を磨いたのでしょう。
笹本さん:独学で修行すれば、なんとかなるかなって思ったんですよ。
── なんとかなったんですか?
笹本さん:なんとかなったのかな。1,2週間でそれなりのものはできるようになりました。でも、そのあとは修行の連続ですよ。
これだけお店の評価が高くなっても、いまだにお客さんから怒られるという笹本さん。
笹本さん:衣が柔らかいってよく怒られるね。
── そんな時は何ていうんですか?
笹本さん:「そうだね」って(笑)。
▲衣が柔らかいとんかつは、静かに評判を獲得していく
── 創業からしばらくは閑古鳥が鳴く日も多く、もっといい立地への移転の話もあったと聞きます。それを断ったのは地元を愛していたからでしょうか?
笹本さん:違うよ。忙しくなるの嫌だから(笑)。忙しいとクオリティーが下がるし、僕はいっぺんにたくさんできないから、地道にやるしかないんです。
そんな不器用な店主が作るとんかつはやがてビブグルマンに選ばれ、お客さんは着実に増えていきました。
▲仲良し家族経営です
厨房にいる旦那さんの姿は、客席からほとんど見えません。
奥さん:無愛想だから、(お店に)出て来られてもみんな困る。
と笑う奥さんは、客商売に向いた気遣いと絶やさぬ笑顔でみんなに愛されています。そして2人をとりもつ息子さんと、そのバランスも絶妙です。
笹本さん:自分の腕は落ち目。握力も落ちたし、息子に継承して早く隠居したい。
と語る笹本さんに対して、奥さんは
奥さん:私は嫌。
ときっぱり。
昔は苦労したぶん、今はお客さんが遠くから来てくれて「おいしいね」って言ってくれるのが楽しくて仕方ないんだとか。
奥さん:やはり客商売が嫌いじゃないんでしょうね。
と笑う奥さんの横で、笹本さんは苦笑い。その2人の表情はとても幸せそうに見えたのは気のせいではないでしょう。いつまでも仲良く、おいしいとんかつを提供してくださいね。
末長くお元気で!
お店情報
自然坊
住所:東京都大田区久が原4-19-24
電話番号:03-5700-5330
営業時間:12:00〜15:00、17:00〜21:00
定休日:水曜日
ウェブサイト:http://www.tonkatsu-zinenbou.com/
書いた人:キンマサタカ
編集者・ライター。パンダ舎という会社で本を作っています。 『週刊実話』で「売れっ子芸人の下積みメシ」という連載もやっています。好きな女性のタイプは人見知り。好きな酒はレモンサワー。パンダとカレーが大好き。近刊『だってぼくには嵐がいるから』(カンゼン)