2018年11月末、駄菓子業界に激震が走った。
東京都荒川区「あらかわ遊園」のほど近くで、長らく子どもたちに愛されてきた駄菓子もんじゃ店「こどもの家 きくや」が、およそ50年の歴史に幕を下ろしたのである。
▲在りし日の「こどもの家 きくや」の姿
ここは、駄菓子店であると同時にもんじゃを提供するお店だった。単なる駄菓子店でさえ減少する一方なのに、こと「駄菓子もんじゃ」を出すお店となるとさらに深刻の度合いを増す。
と、ここで「そもそも“駄菓子もんじゃ”ってナニよ!?」という声が聞こえてきそうなので、簡単に説明させてもらう。
一般的な駄菓子店では袋詰されたうまい棒やふ菓子といった問屋から仕入れたものが売られているが、そうした駄菓子が流通する前は、お店で簡単にこしらえたものが駄菓子として提供されていた。
そうしたもののひとつがもんじゃ。
▲きくや店内の様子。アルコールも置いていたが、ついたての奥は駄菓子コーナーになっており、子どもたちでにぎわっていた
月島もんじゃがあまりにも有名になったので、便宜上「駄菓子もんじゃ」と呼ばせてもらうが、地域によって呼び名は異なり、きくやのあった荒川・千住界隈では「ぼった」、埼玉の川口や千葉の浦安では「ぼったら」、同じ埼玉でも川越では「おもんじ」、茨城県大洗では「たらし」と実にさまざま。
流通の発達していなかった時代には、駄菓子としてもんじゃ的な代物が各地で親しまれていた。これを読んでいるみなさんの記憶にもひょっとしたらこんなお店が思い出されるかもしれない。
▲大きめの丼に、駄菓子コーナーから持ってきたベビースターを入れて焼くのが駄菓子もんじゃ流
高度経済成長期から昭和末期にかけて、もんじゃもパッケージされた流通駄菓子も並列に商う、いわば「ハイブリッド駄菓子店」が、駄菓子もんじゃの火を灯し続ける業態となっていく。
こうした駄菓子店はゲーム筐体を置くケースも見受けられ、ゲーム・駄菓子・もんじゃと、まるで子どもにとっての夢の国のような存在として神々しく受け止められた。
平成に入り、少子化や経営者の高齢化も相まって、駄菓子店の減少とともに駄菓子もんじゃも絶滅の危機にひんした。
そんな中、昔ながらの営業スタイルとは異なる、若い世代が始める駄菓子店の動きに、もんじゃも併設するスタイルも出てきているのだ。
その急先鋒が、相撲の国技館で有名な両国にある「本所かえる本舗」。
なぜ今、駄菓子もんじゃを始めたのか?
これから商売として駄菓子もんじゃは成立するのか?
駄菓子界の事情に詳しい駄菓子屋研究家の土橋真さんに、駄菓子業界の今と駄菓子もんじゃの歴史についてうかがいながら、駄菓子店のこれからについて迫っていきたい。
駄菓子屋(Dagashiya)探訪ブログ~大切なことはすべて駄菓子屋が教えてくれた~
駄菓子ともんじゃをツマミに飲むスタイル
ここ「かえる本舗」のご主人(以後マスター。プライバシー保護のためお名前と顔出しNG)は世田谷生まれ。国立で育ち、結婚後、奥様の実家である浅草に近いこの地で開業した。
最初は東駒形で同名の駄菓子店をしていたが、現在の場所が寿司店の居抜きで出ていたので縁あって、駄菓子もありつつ、定食も食べられてもんじゃも焼いてアルコールも飲めるスタイルの店舗にしたという。
寿司店の構造をそのままに、カウンター奥にガスが通っていたこともあり、小上がりをもんじゃ専用スペースとしている。
焼台のテーブルが2つと限られているため、もんじゃを焼く場合はあらかじめ予約をしておいたほうが賢明。
ここで、土橋さんに登場いただき、まずは定番の駄菓子もんじゃを焼いてもらうこととしよう。
▲駄菓子のあるお店で飲みながらフランクにお話していただこうと、まずはキンキンに冷えた氷結ジョッキの生ビール(550円)を掲げる土橋さんと乾杯!
▲一番オーソドックスなプレーンのもんじゃ(600円)の登場! あげ玉やキャベツ、桜海老、切りイカなどの具があらかじめ入っている
▲ここで土橋さん、おもむろに卓上にある醤油とソースの両方をかけ、オリジナルブレンドの味に仕上げだした!
▲鉄板に油をひき、温まったところで具材を投入。そこに間髪を入れずソースと良く混ぜた生地を少量流していく
▲するとコテを2つ、むんずと縦に握り、二刀流で生地と具をたたくように混ぜだした
▲生地を広げて土手状にしたところに、残った生地を流し込んでいく
▲生地が煮立ってきてゲル状になったら土手の具とよく混ぜたら出来上がり。「はがし」で鉄板についたお焦げをすくうようにはがせば、せんべい状に焦げたショッパ香ばし味わいが堪能できる。これがサワーやビールに最強に合うんだなぁ~
衝撃的だった「駄菓子もんじゃ」との出合い
土橋さんに、駄菓子もんじゃについて実際に食しながらあれこれ聞いていこう。その前に、そもそも土橋さんはどのような方なのだろうか。
主な活動はブログで、減少し続けている駄菓子店を訪問し、その街を紹介しながら直接経営者(以後、多くは中高年の女性なので、ここは敬愛の念をもってオバちゃんと表記させていただく)からお話をうかがい、その土地の地域性やオバちゃんの思いを記事にまとめている。
駄菓子屋(Dagashiya)探訪ブログ~大切なことはすべて駄菓子屋が教えてくれた~
まずは「駄菓子もんじゃ」とはどういうものなのか、土橋さんの幼少期の原体験を通してうかがうとしよう。
── 子どもの時分に、駄菓子店でもんじゃを食べられるようなお店がお近くにあったんでしょうか?
土橋さん:ありました、ありました。
── ご出身はどちらで?
土橋さん:浅草なんですけど、小学校の低学年の時に行っていたのはもんじゃのないフツーの駄菓子屋さんでした。駄菓子もんじゃを知ったのは墨田区の東駒形ってところにあった駄菓子屋さんで、自転車で友だちと遠出するようになって初めて知ったんですね。
── 川向うにもんじゃが焼ける駄菓子屋さんがあるらしいぞと。
土橋さん:そうそう、駄菓子屋さんにもいろんな形態があるんだと、小学5年くらいの時に知って、衝撃だったんですよね。
── 衝撃ですよね、お店の片隅で料理してるわけですから(笑)。
土橋さん:隣の区だったんで、兄貴や姉貴がいるやつとか、野球チームとか塾とかで友達が仕入れた情報を頼りに行くわけですけど、駄菓子屋さんってお店によってルール違ったりするじゃないですか。知らないで行くと隣の区の中学生にボコボコにやられたりしてね。
── 都心部でも結構激しいですね!
土橋さん:この時間は小学生来んじゃねぇみたいな。でも痛い目にあっても、食べたくなるんですよ。当時、500円で山盛りのが食べられたんで。
── 結構いい値段したんですね。
土橋さん:いやそれを、5人くらいで100円ずつ出し合って。
── なるほど、シェアすると。
土橋さん:でもたまにしか食べに行けないんで、だったら自分で再現してみようと、小学校の家庭科の時間にもんじゃの作り方を先生に聞いて作ったことあるんですよ。
── 自作するとは。すでに研究家の血が流れてますね。
食べる分だけ焼いていく川口式
土橋さんはデモンストレーションとして、土手を作って焼くという今日では一般的な焼き方をまずしてくれたが、次は筆者の生まれ育った埼玉県・川口市での“ぼったら”の焼き方を実践してみることに。
▲よく行っていた駄菓子店では裏メニューでカレー粉トッピング(100円)があったので、それを思い出して注文してみたら、なんだかラーメン二郎みたいのがやってきた!
▲駄菓子コーナーで売っているベビースターなどの袋麺駄菓子(往時はラメックという10円駄菓子が主流だった)をもんじゃに混ぜて焼く(駄菓子のみ先会計)。これができるのが駄菓子店の醍醐味(だいごみ)。昨今の大人もんじゃでもメニューにしているお店は多いが、ここからもルーツが駄菓子店であることがうかがえる
▲川口では大きな丼で出てくるので、カレー粉も駄菓子も焼く前に混ぜられたが、ここではまず山盛りの具を少量の生地で焼いてから丼に空きスペースを作ることに。具も生地も一気に全部焼くのではなく、食べる分だけ少量ずつ焼いていくのが川口式の一番の特徴かもしれない
▲ちょっとずつ焼いていたら生地が足りなくなってきたが、これもお店に通うごとに配分を覚えていく楽しみとなる。ここまで来ると麺菓子と具がよく混ぜられる
▲最後のほうでようやく、麺菓子と具と生地が混然一体となって、焦げ目もキレイに入りバキッと焼けた。これが理想的な川口式の形
街になじみやすい駄菓子もんじゃ
こうした駄菓子もんじゃは、いつ頃から提供するようになったのだろうか。
土橋さんとのやりとりしていく中で「戦前からのお店で作る鉄板文化と、戦後に流通が出来てからの駄菓子が後にパッケージ(袋詰め)されたものになっていき、それが両立したものが昭和いっぱい続いたのではないか」という見解に至った。
平成になって絶滅危惧種となった駄菓子ともんじゃの融合店を、今の商売として営業している「かえる本舗」はまさにその流れをくむといってもいいだろう。
そこでお店のマスターに、駄菓子もんじゃとの出合い、そして両国における駄菓子もんじゃ文化についてうかがってみた。
── マスターが生まれ育ったという国立では、もんじゃを出すような駄菓子屋さんはあったんでしょうか?
マスター:駄菓子屋さんはたくさんあったんですけど、もんじゃはなくて、その代わり、駄菓子もんじゃのお店は祖父の家があった世田谷の上北沢や高井戸のあたりにはあったんですよ。そこに従兄弟たちと行ったりしてね。
── 駄菓子もんじゃって、てっきり東京の東側の文化だと思ってました。
マスター:駄菓子とどうしてもリンクしてくるのはもんじゃじゃないですか、このエリアだと。大阪だと奥でたこ焼き食わすという文化があるみたいですけど、あと静岡だとおでん。
── 静岡おでんも駄菓子屋さんで出されるのが本式ですよね。
マスター:今だと駄菓子屋さんともんじゃ屋さんってセパレートになっちゃってますけど、昔は当たり前のように駄菓子屋さんでもんじゃ食べてたわけですよ。だったら、今このスタイルでお店をやれば、地元の人たち、地域にも受け入れられるのではないかと考えたんです。
── そこにプラス商売として、こちらではアルコールや定食の提供も始められたと。
マスター:もんじゃだけだとムラがあるんですよ、正直な話。月島とか浅草とか町屋とかだと、もんじゃで飲み食いする目的で人が集まってきますけど、ここはそういう立地じゃない。両国っていうと、どうしても「ちゃんこの街」ってなってるので。
▲アルコールと一口にいってもタダモノではないのは、駄菓子とのハイブリッド、かえる本舗ならではの逸品、あんずボーサワー(600円)。上からのぞくとかろうじて刺さっているあんずボーのテッペンが見える程度だが……
▲溶けてくるとあんずボーが正体を表し、得も言えぬビジュアルに! 飲むごとにつぶつぶオレンジのようにプリプリしたあんずの食感が喉に引っかかり、得も言えぬ飲み心地。だがこれが徐々に慣れてきてクセになるのだ
── 確かに、元力士の方がちゃんこ屋さんを開業するケースが多い。
マスター:ただ、駄菓子屋さんをやってて思ったのは、駄菓子もんじゃのあった土地というのがとても強いということ。前にやっていた駄菓子屋さんの並びにもんじゃの老舗があって、大人も子どももごっちゃごちゃになって食べてるんですよね。
── 奥でおっさん飲んでるぞと(笑)。
マスター:ほぼ海の家状態。で、そこの人たちが結構ウチに買いに来てたんですよ。子どもってじっとしてらんないじゃないですか。すると親とか大人に小遣いもらって。
── ちょうど街のニーズに合ってたんですね。
昔の駄菓子は手づかみが主流だった
ではここで駄菓子店の現状について、研究家と経営者の両面からお話をうかがってみたい。
── 土橋さんの子どもの頃には、すでにパッケージされた駄菓子でしたか?
土橋さん:記憶にあるものでは、うまい棒はバラで売ってて、ビン入りだった記憶ありますね。あとチョコUFOとかその辺も全部パッケージじゃなかったです。
▲店内の駄菓子コーナー。今やほとんどがパッケージされている
▲駄菓子コーナーの片隅には、駄菓子屋ゲーセンを思い起こさせるゲーム台も。マスターは前職がゲーム業界で、ゲームと飲み屋さんと駄菓子を1つのハコに詰め込みたかったという
── パッケージには徐々になっていった感じがしています。それまではビンとか薄い透明のペコペコの容器に赤いフタがついてて、ふ菓子なんか直で手づかみしてましたよ。
土橋さん:取ってました(笑)。平成元年くらいまでは手づかみが主流でしたよね。
── それより前になると、木のケースにガラスのふたがついていたような?
土橋さん:そういうやつですね。子どもが手にとって匂い嗅いで、そのまま戻しちゃうと(笑)。
「学びの場」としての駄菓子店
── 鉄板の上でこねくり回すもんじゃは、泥んこ遊び的などこか感触の伝わる遊びの要素があるから子どもにウケる駄菓子たり得たのかも知れないですね。
土橋さん:駄菓子を手づかみしても、ばっちいって感覚がなかったですから、子どもの頃。それに裸で置いてあると、子どもが駄菓子を折っちゃうとか、よくあるんです。
マスター:今だと、袋の上から子どもがなめちゃったのを保護者が見ていても何も言わないで元に戻してしまう。
▲先のあんずボーサワー以外にも、はんぺんチーズ(700円)なる遊び心を感じさせるメニューがあるので注文してみた。まず、はんぺんの底面のみを、バターを溶かした鉄板で焼く
▲すると中のチーズが溶け出しキレイな焼き色がつく。食べると、はんぺんのくり抜かれた空洞の壁面にチーズがくっついて、焦げた香ばしさと乳脂肪のコクがフンワリしたすり身の風味にのって口中にあふれてくる
── えぇ!?
マスター:売りものなので買い取って下さいって言っても、拭けばいいでしょとか言われて。
── 自分の頃はオバちゃんに怒られましたよ。土橋さんもいわれてますけど、駄菓子屋さんってそういう社会性を身につける教育の場でしたよね。子ども同士の社交場であり、放課後の基地みたいな。
土橋さん:難しいですよ、今はね。駄菓子屋さんはコンビニがライバルじゃないんですよ、親や学校なんですよ。オバちゃんも子ども相手に怒るけど、後ろに親が見えるって言ってましたよ。ちょっとなんかやるとネットで書かれちゃう。
── 駄菓子屋さんもサイバー空間にはかなわない!? でも親は駄菓子屋さんまで踏み込んじゃダメですよね。
土橋さん:駄菓子屋さんって大使館みたいなもので、治外法権なんですよね。外でケンカしても、駄菓子屋さんに入ったらやっちゃいけない。駄菓子屋さんで起きたことはそこで解決、完結させないといけない。でも今、そういうのがちょっとずつなくなってきている。
マスター:確かにセーフティーゾーンになってましたね。前のお店は3校の学区の分岐にあったんですけど、お店の中ではやりあわなかったですね。
── 駄菓子屋さんの中にはオバちゃんなり大人がいますからね。子どもにとっては大人は怖い存在でした。
マスター:怖くなきゃだめなんですよ。自分はワザと怖くしてるつもりはないですけど、大人がうっとうしいと思われる存在じゃないと。今はへりくだりすぎですよ。
土橋さん:怒っちゃいけないって教育ですからね。だから怒る人に苦情が行っちゃう。
── ますます駄菓子屋さんの成り手も少なくなっちゃいますね。
駄菓子店は消えゆくのみなのか
今営業している駄菓子店のオバちゃんが辞めてしまったら、昔ながらのスタイルの駄菓子店は絶滅するしか道はないだろうか。
かといってオバちゃんも高齢でけがや病気もしやすくなる中、無理させるわけにもいかない。土橋さんは言う。
土橋さん:今やり続けている人たちっていうのは、人によってはボケ防止であるとか、個々に理由はありますけど、自分のため、子どもたちのため、それが引いては世間のためになっている、というサイクルの中でやめられなくなっている人たちじゃないでしょうか。
そうした中で、かえる本舗のマスターは今後の駄菓子店についてどう考えられてるのだろう。
マスター:駄菓子っていうとお子さんを喜ばすアイテムみたいに世間は思っていて、利益度外視で子どもを喜ばすためにボランティアみたいに思われがちなんです。でもウチはあくまで我々が生きていくためのビジネスとしてやっています。もちろん、子どもはかわいいですが、だからってボランティアみたいな形でやるつもりは一切ないですね。このお店を細々とでも長く続けて、地域の人や、気に入ってくれた方がお酒が飲めたり、私つかまえてバカ話したり、ちょっと腹減ったからもんじゃ食べられたり、そういうざっくばらんなノリでずっと続けていけたらなと思っています。
実際に営業されているお店は、その地域の一部として続けていければというリアルな営業を実直に続けられることを望んでいるようだ。
それは、これまでの駄菓子店の考え方と変わらない。この駄菓子店特有の地域性が、駄菓子もんじゃを生んだいしずえとなっている気がしてならない。
しかし、かえる本舗のようなお店が、かつての駄菓子店のようにたくさん出てくるとは思えない。減少の一途をたどる中、最後に土橋さんに起死回生の策はないか聞いてみた。
土橋さん:今、空き家が増えている社会問題がありますよね。それを活用して、地域の高齢者が空き家で駄菓子屋さんを共同経営するというのを考えてるんです。子どもも学童に入れなかったりしているので、中で遊べて、駄菓子も買えて食べられて、子どもの見守りにもなるようなものが各地に出来ていけばいいんじゃないでしょうか。市区町村と組んで、モデルケースを積み重ねてやっていけば、高齢者の人たちも子どもたちと顔を合わせる機会も増えますし、生きがいにもあるし。そこには、高齢者と子どもたちが直接つながれる場所として「駄菓子屋コミュニティー」が作られるのではないかと。
平成に至るまで駄菓子店が育んできた、地域とオバちゃんと子どもとを結ぶ循環の輪を次の時代へとつないでいくには、土橋さんのアイデアは現実を直視した格好の手段ではないだろうか。
こうしたアイデアがあるんだよということを広く伝えていくために、土橋さんは地域性を重視した視点で活動をしている一方、かえる本舗のマスターは地域の中でのビジネスになる仕事として駄菓子もんじゃの経営している。
昭和の駄菓子店は滅びてしまうかもしれないが、そこから生まれた考え方やスタイルは引き継がれていくことだろう。そんな将来への希望をお二方から感じずにいられなかった。
お店情報
本所かえる本舗
住所:東京都墨田区亀沢1-8-6 堀江ビル1F
電話番号:050-5257-9044
営業時間:月曜日~土曜日および祝前日12:00~15:00、17:00~翌0:00 日曜日・祝日: 12:00~23:00
定休日:不定休