日々、リング上で熱い闘いを見せるプロレスラーたち。 その試合の基盤にあるのはタフな練習、そして 「食事」 だ。
その鍛えた身体を支えるための日々の食事はもちろん、レスラーを目指していた頃の思い出の味、若手の頃に朝早くから作ったちゃんこ、地方巡業や海外遠征での忘れられない味、仲間のレスラーたちと酌み交わした酒……。
プロレスラーの食事にはどこかロマンがある。そんな食にまつわる話をさまざまなプロレスラーにうかがう連載企画「レスラーめし」。
第9回に登場してもらったのは69歳にしていまだ現役選手、「組長」「関節技の鬼」こと藤原喜明選手です。
「関節技の鬼」「アントニオ猪木の用心棒」「テロリスト」
1972年に新日本プロレスに入団し、その強さを高く買われ「アントニオ猪木の用心棒」として国内・海外の移動中、常に傍らにいる存在に。
リング上では1984年の札幌大会で長州力を花道で襲撃し、「テロリスト」の異名で呼ばれ一躍注目を浴びる。関節技を前面に出したファイトスタイルが注目され、その後UWF、新日本復帰、第二次UWFを経てプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げ。
長らくフリーランスとして活動していますが、新日本プロレスが生んだ「強さ」を象徴するレスラーのひとりであり、鈴木みのる・船木誠勝をはじめ育てた選手も多数。必殺技の脇固めは「フジワラ・アームバー」の名でいまや世界的に知られています。
猪木さんも私の料理のファンだった
「組長」の名のとおり、見た目はコワモテながらユーモラスな言動でプロレスファンにはおなじみの藤原選手。似顔絵・陶芸・盆栽など多趣味なことでも知られるだけに、料理も得意そう。まずはそんな話からうかがってみました。
藤原組長:新日本に入る前は、コックをやってたんだよ。21から23(歳)までかな。最初入ったお店ではまかないばっかりだったんだけど、これが一番面白かったね。いろんなもん作れるから。次が洋食店で、その後が横浜の中央卸売市場でマグロの解体とかやってたね、冷凍のでっかいやつを。そこに行きながらジムに通ってたんだよ。
──プロレスの技術を学んでたんですか?
藤原組長:金子武雄さんってプロレスラーのジムに行ってたんだよ。途中からは金子さんの韓国料理店でも働いたりしたな。
──じゃあ今も料理は作られますか。
藤原組長:そうだね。まあ、好きなもん作るだけだから得意料理とかはないんだけどな。きんぴらごぼうとかかな。シイタケとかコンニャクとか入れてね。あとよく作るのは大根と豚バラの煮込みとかかな。
──なるほど。入団前からコックさんをやってらっしゃったのだったら、新日本プロレスに入ってからも組長が作るちゃんこは皆も楽しみにしてたんじゃないですか。
藤原組長:いやいや、鍋の作り方は知らなかったからさ。でも料理ってのは基本さえ教われば似たようなもんだから。猪木さんも私の料理のファンでね、フフフ。
──どんな料理が猪木さんや選手たちに好評だったんですか?
藤原組長:わかめスープが好きでね、よく猪木さんからリクエストがあったね。ちゃんこってメインが肉ばっかりなんだよ。牛だとバター焼き、豚だと豚ちり、あと鶏のちゃんことかね。その後にどうしてもさっぱりしたもんが食べたくなるんだろうね。よく作ってたなあ。
──ちなみにその頃の新日本に道場にいらした選手というと、猪木さんはもちろんですが……。
藤原組長:栗栖正伸さん、荒川真さん(ドン荒川)、あと藤波辰爾さん(当時・藤波辰巳)とか木戸修さん。しばらくして坂口(坂口征二)さんがきて、あとキラー・カーンとか。でも料理がうまいやつはそんなにいなかったな。一番うまかったのは小林邦昭さんだね。いろいろ料理作ったり、好奇心が旺盛なんだよ。
──小林さん、現在も新日の合宿所で料理の腕をふるってらっしゃいますもんね。
藤原組長:今でも「ソップ炊きとかどうやって作るんだっけ?」って電話したりしてるよ。すぐ作り方を教えてくれるんだよ。
──組長と「虎ハンター」が電話でレシピのやりとりをしてるのもすごいですね(笑)。ところで、若手の頃はとにかくめしを食わされたと思いますが。
藤原組長:もともとそんなに食う方じゃなかったんだよ。だけど無理して食べてたね、どんぶり7杯とか食べてたな。
──無理して7杯! それに肉とかも食べるんですよね。
藤原組長:自然と食ってたよね。要するに豚と一緒なんだよ。
──「豚と一緒」とは?
藤原組長:知ってた? 豚って1頭だけで飼ってもあんまり太らないんだよ。だけど、いっぱいいると競争しちゃうらしいんだよな。5、6頭かそれ以上いると、餌の取り合いになって太るんだよ。
──まわりにつられて食べちゃうと。プロレスラーも一緒というわけじゃないですけど(笑)。
藤原組長:レスラーなんて豚みたいなもんだよ! ハハハッ。昔は今みたいにタンパク質がどうのこうのとか、ビタミンがどうのとか、なかったからね。「とにかくいっぱい食え! どんぶりめし10杯!」とか、そればっかりだよ。どんぶりめしばかり食って筋肉が増えるとは思えないけどな。だけど、いまのプロテインだのサプリメントだのっては考えられないね。
アントニオ猪木のボディガードだった
新日本プロレス旗揚げの年に入団し、創始者でありエースのアントニオ猪木さんの身近にい続けた藤原組長。当時のトップレスラーというと、今では考えられないほどのステータスの高さでした。しかも旗揚げからモハメド・アリ戦をはじめとした格闘技路線で世間ににぎわせていた時代。そんな時代のアントニオ猪木に、もっとも近いところにいた組長ならではの「食の体験」とは。
──当時、猪木さんとサシでご飯を食べるってことはあったんですか?
藤原組長:ないね、最近になってからだな。だって当時はものすごい「雲の上の人」だったからな。今でもそうだけど。年齢は6つ上なんだけど、年を取るにつれてどんどん距離が縮まっていったみたいな感じはするね。
──新日本に入団してからは猪木さんのスパーリングパートナーであり、付き人でもあったわけですよね。
藤原組長:とりあえず危ないところに行く時は、俺がついてたんだよね。
──「危ないところ」というと?
藤原組長:だって、その頃の猪木さんは「格闘家世界一」っていうのを標榜(ひょうぼう)していたわけだから。それに対して「そうはいくかい」って思っているヤンチャなやつが当時はいっぱいいたんだよ。だから挑戦者が出てきそうなところとか、弾が飛んできそうなところとか……。
──「弾が飛んできそうなところ」!? 実質的なボディガードですね。
藤原組長:猪木さんになにかあったら大変なことだし、それこそ死ぬ気でいったからね。基本的に弱いやつは来ないわけだから。
──……実際に戦う、ということも?
藤原組長:それはまあ……な(ゴニョゴニョと)。だけど、そいつらと戦って無事に帰しちゃうと、時間がたってから「あの勝負、やっぱり五分五分だったよな」って思われちゃうんだよな。それで、もうちょっとたつと「いや、あの勝負は俺の方が勝ってた」、10年たったら「あれは俺の勝ちだった!」なんてまわりに言いふらすようになるからな。だから、そういう連中はクチャクチャにやっておかないと、な……(意味ありげに)。っておい、これはあくまでも例え話だからな!
──もう二度とあの人たちとは戦おうとは思わないくらいにってことですね……食べ物の話に戻りましょう!
藤原組長:そうだな、いまこういう話はなにかと面倒だからな(笑)。
──猪木さんの付き人として身近なところにいたということは、全国のスポンサーと一緒においしいもの食べられたのでは? という気がするんですが。
藤原組長:あったねえ。当時は全国にスポンサーがいっぱいいて、くっついていってさ。肉とか魚とか、みんなすごかったよ。最高級のものを出してくるからな。だからいろいろ食べられるけど、気ィ使うからな。「おいしい」とか味わってられないわな。
──猪木さんも一緒だし、あまり味わって食べるような余裕はないでしょうね。
藤原組長:もともとそんなに食道楽じゃなかったんだよ。岩手の田舎で育ってるから、家で「これまずい」とかいうと、「マズイと思ったら食うな!」って言われて育ったからさ。なに食べても「これが本当においしいのか?」って感じなんだよ。
──まわりもスポンサーばかりの食事で、緊張もあるでしょうしね。
藤原組長:そういう場での任務もあってさ。猪木さんをじーっと見てて、「これは帰りたがってるな」と思ったら、「猪木さん、10時にアメリカから電話が入るんですが」って言うんだよ。今だったら携帯でかけられるけど、当時は大変だったんだよ、国際電話って。
──なるほど、途中で宴会から抜ける理由としては十分だったんですね。
藤原組長:そう言うと「そうか? じゃあ帰ろうか」とか言って帰るんだけど、たまには「うるせえ!」って言われたりして、「なんだ、まだ飲みたいんだ」とかの時もあったね(笑)。
──そういう場にも行かなきゃいけないし、ボディガードもやらなきゃいけないし、大変ですよね。
藤原組長:でもな、楽しかったよ。猪木さんの役に立てるという喜びがあったしね。
──ちなみにトップ選手になって、猪木さんの付き人から離れてからは食事とかはどうされてたんですか?
藤原組長:みんなひとりでいくよね。他のやつはうっとうしいんだよ、試合もそれ以外もずっと同じ顔を見てるしさ(笑)。でも外に出たら出たで「今日はラーメン1杯で十分だな」と思ってても、他の人が見てると4杯くらい頼まないと格好悪いじゃない。
──レスラーがラーメン1杯だけじゃ格好悪いと。
藤原組長:「レスラーはやっぱりめし食うのもすごいんだ!」って思われなきゃいけないみたいなのがあったんだね。ラーメンに酢豚に餃子にビールに野菜炒めとか食わざるを得ないっつうね。
──身体が出来てからも無理してご飯を食べなきゃいけないんですね。
藤原組長:酒を飲む時もプロレスラー。人が見てるときはガンガン飲む、そして酔わない。大変なんだ、プロレスラーは!
組長とお酒、そしてドン荒川さんとの友情
試合では脇固めをはじめとした厳しい関節技で極めていく姿が印象的だった藤原組長。しかしリングを降りた姿で思い出すのは、その片手にある「スポーツドリンク(本人談)」ことお酒。あらためて「組長とお酒」にまつわる話をじっくり聞いてみます。
──さて藤原組長といえば「酒豪」のイメージが強いんですが、いくつくらいのときから飲んでいたんですか?
藤原組長:そりゃお前……20歳過ぎてからに決まってんだろ(ニヤリと)。
──そうですよね(笑)。
藤原組長:おやじがとび職で酒飲みだったからな、そのおかげで酒に強い血なのかもしれんな。あと、あの頃のうちの実家のあたりはどこも自宅でどぶろくとか作ってたんだよな。酒税法だかなんだかで、あれも勝手に作っちゃいけないんだけどさあ……でもおいしいんだよ! 甘くてな。
──岩手ではそんなに(どぶろくを)作ってる家が多かったんですか。
藤原組長:多かった多かった、まわりはよく捕まってたな。
──アハハハ!
藤原組長:あれは税務署かな? やってくるんだよな。甘くていい匂いするから、どこが作ってるかすぐわかっちゃうんだ。あれはウマかったな~。
──お酒を飲みだしたのは20歳からですよね?
藤原組長:18歳で岩手から上京したんだけどな、ワハハハ! ……おい、お前ら(レコーダーを指差して)、それで録音してるんだったら、この話は消しとけよな!
──まあ時効ということで(笑)。新日本に入ってから、いっぱいお酒を飲む機会があったと思いますけど、その当時の「飲み仲間」というと?
藤原組長:スポンサーのところによく引っ張っていかれたのは、俺と荒川さんだよね。荒川さん、酒飲むと面白いからね! 酒のパートナーは荒川さん(ドン荒川)だね。もう死んじゃったけど。
お酒とともに組長のエピソードに欠かせないのがドン荒川さん。リング上ではコミカルな試合が評判で、そのルックスやコスチュームから「前座の力道山」と呼ばれるも、試合の上手さだけでなく強さも選手の間では高く買われていました。
新日本プロレスの後はSWSに移籍し、藤原組長とは別の道を歩むもたびたびタッグを組む良きパートナーに。2017年11月に亡くなられました。
──組長もお酒が強いですけど、荒川さんとどっちが強かったんですか?
藤原組長:若手で酒を飲むスピードを競わせたりしたんだけど、そういうのは荒川さん異常に強かったね。日本酒1升を18秒で飲んだりしてね。そういう競争はビールの場合だと大ジョッキで早飲み勝負をするんだけど、強かったのが猪木さんで4秒ね。私が2番めで11秒。猪木さんはね、やっぱりここがこうなってるから(アゴをなでながら)強いんだよ。
──モハメド・アリに「ペリカン」と言われただけはあると(笑)。あと新日本とお酒の話といえば、新日本の選手とUWFの選手が飲み会を開いた結果、熊本の旅館を破壊してしまった「熊本旅館破壊事件」の話が有名です。以前このインタビューでお話をうかがった越中詩郎選手によると、組長はドン荒川さんと旅館の7階か8階から「根性があったら飛び降りろ!」と言い争っていたとか。
藤原組長:ワハハハ、そんなことはしょっちゅうだったよ。酔っ払って殴り合ってな、「おれの方が強い」「いやおれのほうが強い」って言い合って。それで次の朝に「なんだお前の顔!」「お前だって!」「誰がやったんだ」「オメエじゃねえか」みたいなこと、日常茶飯事ですよ。そんなの、普通のこと(きっぱり)。
──当時の新日本では普通だったと。
藤原組長:けんかとは違うんだよ。コミュニケーションの殴り合い。
──でもやっぱり「どっちが強いんだ」ってのはあるんですね。
藤原組長:それはそうだよ。ホントばかだったからなあ。特に荒川さんとは酒でも負けたくないし、食うことでも負けたくないし、ジャンケンポンでも負けたくないし。それでもね、友情は壊れないんだよね。
──ずっとつながりはありましたもんね。兄弟みたいな感覚なんですかね。
藤原組長:そうだなあ、双子の兄弟みたいな。似たもの同士みたいな……でも俺と違って、荒川さんは要領がいいしね。ただ、1回だけ言われたんだよ。「なあ藤原よ、本当に要領がいいのはお前だよ。見かけは要領が悪そうに見えて、実はうまいことやってる」って。
──荒川さんが組長のことを?
藤原組長:「おれなんか、調子がいいと思われてホントに調子がいいだけだから。よく考えると、お前の方が要領はいい!」って言ってたね。荒川さんが死んだのはいつだったかい? あ、去年か。
──亡くなるまで仲良くされてたんですね。
藤原組長:連絡はそんなにしなかったんだけど、誕生日にはなんか送ったりしてたね。この前も昔描いた似顔絵を奥さんに送ったんだよ。
亡くなったマサ斎藤さんのこと
──それと先日、マサ斎藤さんも亡くなられました……。組長とは新日本の「ナウリーダー vs ニューリーダー世代闘争」で同じチームでしたね。
藤原組長:ああ、そうだったね。ふたりともナウリーダー側だったんだよな。猪木さんに「僕は(年齢からして)ナウリーダーの側じゃないですよ!」って言ったら「いいんだ、お前はそういう顔してるから」って言われて(笑)。ただの数合わせでね。ホントいい加減だったなあ。
──マサ斎藤さんとの思い出って藤原組長はありますか?
藤原組長:そうだねえ……俺らの間で伝説として語り継がれている「奥さん、それはいけません事件」かな(ニヤリ)。
──地方巡業のときのエピソードですね?
藤原組長:どっか地方に巡業に行った時かな。佐山(佐山聡・新日本時代はタイガーマスク、UWFではスーパータイガーとして活躍)が旅館の俺らの部屋に来て「大変です! マサさんが女性と屋上に!」って言いに来てさ。で、荒川さんと3人で屋上にのぞきに行ったら、屋上の貯水タンクの影に見知らぬ妙齢の女性とマサ斎藤さんがいてさあ……(以下、かなりの下ネタが続くので割愛)。
──すいません、そのエピソード、面白すぎるんですが、その内容はさすがに載せられないです(笑)。とりあえず、マサさんはすごく女性にモテていたということで……! 佐山さんとはその後UWFでも激闘を繰り返す間柄ですが、そういうところは妙に気が合ってたんですね。
藤原組長:あいつはとにかく好奇心旺盛なんだよ。泊まり先で面白いところを見つけたら、「藤原さん、大変です、来てください!」って言いに来て、階段を3段4段飛ばしでピョンピョン飛んで行っちゃう。俺らは佐山を必死に追いかけてさ(笑)。あいつは前世は忍者だよね。いろんなもんに興味あってね、「藤原さん! いい盗聴器が売ってます! 買ってください!」なんて言うから「バカ野郎、なんで俺が買わなきゃいけないんだ」って言ったら「大丈夫です、ぼくが仕掛けますから!」って。
──佐山さん、イタズラ好きだったんですね(笑)。
前田は酒は弱かったし、佐山は酒嫌いだし。いちばん強かったのは……
──さて2度のUWFの後は「プロフェッショナルレスリング藤原組」を旗揚げされますが、鈴木みのる選手に聞いた話だと弁当や出前中心だったとおっしゃってたんですが。
藤原組長:そんなことないよ、ちゃんとちゃんこも作ってたよ。テールスープとかを作ったりしてたな。牛のしっぽの塊を赤ワインで煮てな、寸胴(鍋)で。
──ちなみに組長が育てた弟子や若手はいっぱいいらっしゃいますが、お酒の相手になった選手っていますか?
藤原組長:酒が強いやつ……ひとりもいねえなあ。俺の酒の相手になるやつはいなかったね。うん、誰もいねえな、考えてみると。みんな弱い! 飲むから偉いってわけじゃないけどな。前田(前田日明)とかはまあまあ飲んだけど、あいつは弱いからな、すぐ崩れちゃう。佐山は酒嫌いだったしな。まわりが酒飲み始めると、コソコソ隠れて押入れで寝てるんだもん。
──では組長から見て、いちばんお酒が強かったレスラーって誰ですか?
藤原組長:やっぱり坂口(征二)さんだよな! 大きいだけあって。皆で宴会やると、最後に残るのは坂口さんと荒川さんと俺、あと猪木さんなんだよ。でもたいがい猪木さんがサッと消えるんだよな。それで俺と荒川さんが「なんだこの野郎!」って始めると、坂口さんが止めてくれるんだ。飲んでもいい人なんだよ(笑)。
──坂口さんは誰に聞いてもいい話しかないですね。
がん告知を受けた翌日に、猪木さんから電話が
リング上でもリング下でも、そして食の話でも「昭和のレスラー」ならではの話を聞かせてくれる藤原組長。しかし2007年には胃がんが見つかり、手術することに。しかも末期がん目前の「ステージ3a」。手術後も抗がん剤治療を続け、さいわいにも副作用も出ず、手術後なんと1年でリング復帰を果たしました。
藤原組長:がんが見つかったきっかけは、古い知り合いから「友達が組長のファンなんだけど、もうがんで余命3カ月なんだ、会ってくれないか」って頼まれてね。それで実際に会って「治ったら宴会しような」なんて言ってたら、ホントにその人完治しちゃってさ。それはよかったんだけど、その人の回復祝いの時にその人のお母さんから「あなた箸の使い方がヘタねえ」って言われたんだよ。それでヒジがちょっと悪かったから「じゃあ、いい病院教えてあげるわよ」って言われて、その病院に行ったついでに健診したら4センチのがんが見つかったんだよ。
──さすがの組長もそれはショックですよね。
藤原組長:まわりには「胃がん(依願)退職だ」って冗談を言ってたんだけどさ(笑)。やっぱりショックだったね。「俺、死ぬんだな」って。1時間くらいしょんぼりして考え込んだけど、「どうせみんな1度は死ぬんだよな。明日死ぬか、30年後死ぬかの違いだ」と思えてきてさ。だったら入院しちゃうともう飲みに行けなくなるから「よし、酒飲みに行こう!」って。
──気持ちの切り替えがすごい!
藤原組長:告知されたのもショックだったけど、手術して8日くらいして自分の身体を見たら筋肉がげっそり落ちててさ。鏡を見たらじいさんの身体になってたのもショックだったね。それで慌ててトレーニングしたら翌日に熱出したよ(笑)。
──さすがにがん手術直後にいつもどおりトレーニングするのは無理があります!
藤原組長:ただ、手術してから2年間抗がん剤使ったんだけど、肝臓機能も落ちなかったし、白血球も減らなかった。だから医者からは「怪物ですね」って言われたよ。
──そこはさすがにプロレスラーですね。周囲にはがんであることは公表していたんですか?
藤原組長:ほとんど言ってなかったね。ただ俺ががん宣告を受けた翌日、なぜか猪木さんが酔っぱらって電話してきたんだよ。「元気ですかー!」って(笑)。さすがにこっちも「元気です」とは言えないからさ。「実はがんなんですよ」って言ったら神妙な感じになって、それから猪木さんは俺にすごく優しくなったね。
──それから試合にも復帰され、選手としていまだ現役。昔との違いは感じますか?
藤原組長:いちばん重たい時からすると20キロくらい減ったからね。50代で115キロあって、今97か98キロだから入門したときと一緒くらいだね。動きやすくなったよ。
──69歳にして動きやすい身体に! そんな藤原組長にとって最近の食の楽しみは何ですか?
藤原組長:俺は一度気に入ったら同じものをずーっと食べ続けるタイプなんだよ、1年か2年。最近凝ってるのが豚足だね。コラーゲンたっぷりでうまいお店があるんだよ。その前はとろろそばで、毎日のように昼で食ってたね。まあ、酒は(昔よりは)ずいぶん減ったなあ。
──(部屋に飾られている)自作のおちょこや徳利もすごく雰囲気がいいですね。
藤原組長:昔はずっとコップで飲んでたんだよ。50代の頃は日本酒5升くらいもらって、晩酌で飲んでるうちに1週間でなくなったりしてたんだよな。でもおちょこでやるようになると、注ぐのが面倒だから全体の飲む量は減っちゃうんだ。年を取ってからそういうことに気づいたね。コップで飲むとつい飲みすぎちゃうんだな、几帳面だから、酒が余ってるとどんどん注いじゃうんだよ(笑)。
アーティスト気質で知られる藤原喜明選手の事務所には、自ら作った陶芸作品や絵画・刺しゅうなどがいっぱい飾られていました。
今回の取材では「もともと新日本プロレスに入る前はコックだった」という話から入りましたが、もし組長がプロレスすることなくコックさんのままだったら……たぶんそれでも「組長」と呼ばれるような、ちょっとコワモテでユーモラスな、そして世間に名を残すコックさんになっていたのではないでしょうか。
それでもやっぱり、豪快で圧倒的に強い「プロレスラーの藤原組長」を見られてよかった! そう思いませんか?
撮影:渡邊浩行
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