思い出の味は「マリオンクレープ」
1986年に全日本女子プロレスでデビューし、ダンプ松本さん率いる「極悪同盟」、そしてブル中野さんの「獄門党」と伝説のヒール軍団で若手時代を過ごし、トップレスラーに向けて経験を積み上げました。
なかでも長らく中野さんの付き人を務め、その後は敵対して血で血を洗う抗争を2年近く続け、そのなかで行われた1990年11月14日横浜文化体育館でのブル中野さんとの金網デスマッチは、女子プロレス界歴代ベストバウトとして名高い一戦です。
写真:ⓒOZアカデミー女子プロレス
また、それまで女性ファンが圧倒的に多かった女子プロレスに男性ファンを呼び込んだことでも知られ、東京ドーム興行を開催するにまで至る90年代の爆発的な女子プロレスブームを導いた選手といえます。
写真:ⓒOZアカデミー女子プロレス
全女退団後はアルシオン・GAEA JAPANなどに参戦し、近年はOZアカデミーに所属しながら各団体で活躍中。またケニー・オメガ選手らが参加したAEWなど海外マットに上がることも多く、国内外からのリスペクトを受け続ける選手です。
*取材中はマスクをつけてインタビューを行いました。
取材冒頭、このコロナ禍の中でのめしの話を聞いてみると、「3日に一度くらいスーパーに行って、肉とか野菜とかお得な食材買って、適当に作って食べてましたね。洗い物も面倒なんでワンプレートで!」と、ずっと自炊生活だったそう。
立川基地で働いていた米兵の父親と日本人の母親のもとで生まれたアジャ選手。
まだ幼い頃に父親が本国に帰ることになり、母親との二人暮らしを余儀なくされ、そのため早くから自らご飯を作ることに。そんな事情もあって、昔から自炊にはまったく苦労がないのだとか。
アジャ:うちは母子家庭だったんで、母親がほとんど毎日働きに出てたんです。だから小さい頃は親が作ってくれたんですけど、小学校3年生くらいからはわたしが作ってましたね。宅配の「タイヘイ ファミリーセット」ってあるじゃないですか? それで食材が送られてくるんで、自分で作ってたんですよ。
──自炊は小学3年生から! 早いですね。
アジャ:母親が働いてるから自分でやんなさい、って言われて育てられたんで、他の家はどこもそうだと思ってましたね。
──どのくらいのペースで作ってたんですか?
アジャ:夕飯はもう毎晩ですね。だから「子供の頃から料理やってる」って言うと「料理上手なんだね」って言われるんですけど、自己流なんで、きれいに盛り付けたりは出来ないんですよ。とりあえず食えりゃあいい! 人様に見せられる料理は出せない!(キッパリ)
──そんななかでお母さんが作ってくれた料理で思い出のものってありますか?
アジャ:仕事休みの時に母親が作ってくれたもので覚えてるのは、水餃子ですね。皮は買ってくるんだけど、中身のあんはウチで作って、スープ餃子みたいにして食べる。美味しくていくらでも食べちゃう。ただ手間暇かかるんで2、3カ月に1回くらいしか作ってくれなかったんですけど、あれは週イチでも食べたかったですね。
──中学生くらいになってから、料理に変化はありましたか?
アジャ:中学になってからは、自分でスーパーで好きなもん選んで買って作るようになりましたね。そこから今まで、ぜんぜん変わってないです。
──学生時代、友達と食べたり飲んだりした思い出はないですか? 学校帰りとか。
アジャ:中学時代は学校帰りの買い食いは禁止で、バレると部活停止になるからやらなかったんですけど、すげえ遠回りして学校から離れた隣の学区まで行ってやってましたね! あと休みの日に友達と吉祥寺とか、あと原宿とか渋谷に行ったりしてました。特に原宿はクレープ!
──マリオンクレープですか?
アジャ:そうそう! 行ってたね~。行列に並んで、クレープとブルーハワイのドリンク買って。いま思えばブルーハワイとか、他のシロップとそんなに変わらないんだけど、憧れだったよね! 竹下通りをクレープ食べながら歩くってやりましたよね。今のタピオカみたいなもんですよ。クレープをベッチャベチャ口につけて歩いてたからね、人にくっつけそうで危なかった(笑)。
──原宿は定期的に遊びに行ってたんですか。
アジャ:月に1回くらいかな? しばらくして立川にマリオンクレープに似たような店が出来て、そこで食べるというのが立川でいちばんのオシャレになったんですよ。立川が週に1回で、2週に1回が吉祥寺、月イチか3カ月にいちどで原宿。原宿はお小遣いも貯めて行かなきゃいけないんで、お年玉もらったりするタイミングでないとハードルが高かったですね!
「お米洗って」と言われて洗剤使おうとした子もいた
クラッシュギャルズに憧れていたのもあり、中学卒業後に全日本女子プロレス入門テストを受けたアジャ選手。
見事に合格し、練習生としてプロレスのキャリアをスタートさせます。まずは寮住まい、これまでブル中野さんや長与千種さんら全女出身の選手からは「紅生姜ごはん」「マヨネーズごはん」など厳しすぎるめし話を聞いてきましたが、アジャ選手の場合は?
──以前、豊田真奈美さんにもめし話をうかがったんですけど、入団の時期はだいたい同じですから練習生の生活は似たような感じですか?
アジャ:そうですね、豊田は1年後輩なので。練習生時代は給料5万円で、目黒の寮にいる間は寮費で5千円抜かれて、4万5千円で生活する感じですね。米は食べ放題で。
──食事はどんな感じでした?
アジャ:同期が10人いたんで、ひとり千円ずつ出し合うんですよ。そしたら1万円の食費があるわけで、それで武蔵小山の商店街で出来るだけ安い食材を買って、食事当番がおかずを作るんです。その1万円で1週間くらいもたせて、なくなったらまた千円ずつ出し合う、みたいな生活でしたね。だから夜の食費に関しては月4千円くらいで済みました。
──アジャ選手はちゃんと料理やってたから、あまり苦労もなかったんじゃないですか?
アジャ:でも10人分とか作るのは初めてだったしね。ただ、作るといっても出来合いの安いコロッケとか買ってきて、あとちょっとしたサラダとか野菜炒めなど、大皿料理をぼんぼん作る感じでしたけどね。
──でも10代だと料理の腕もピンからキリまででしょう。
アジャ:衝撃だったのは、同期で入ってきた子でまったく料理したことない子もいて、「お米洗って」って言ったら洗剤使おうとした子もいて(笑)。「殺す気か!」ってぶっとばしましたけどね。泡だらけで食わされるかと思いましたよ!
──練習する前に仲間に殺されちゃう!
アジャ:あと、わたしが後輩を見るようになった頃だと、「ちゃんこやるからお米8合炊いて」って言ったら、カップ8杯じゃなくって炊飯器の「8」って線までお米入れちゃって、「炊飯器爆発するだろ!」って思わずツっこんだ子もいますね。
──逆に上手だった選手で覚えてる人いますか?
アジャ:いちばんきちんと出来てたのはバイソン木村ですね。
──おお、後のタッグチーム・ジャングル・ジャックのパートナー。
アジャ:高校卒業して1年OLやったりして社会経験もあったし、練習生のなかでもいちばんお姉さんだったので。料理もサラダひとつとっても、わたしたちは野菜をブチ込んだだけなのに、細かく刻んだり盛り付けもちゃんとしてくれて。その頃の2歳差3歳差って、中学生と大学生くらい違うから、大人でしたね。
食も住もお世話になった北斗晶さん
──全女の若手時代の話というと、ブル中野さんや長与千種さんの世代だと「紅生姜ごはん」「マヨネーズごはん」みたいな話を聞いてたんですけど、アジャ選手はそこまでひどい話ではないですね。
アジャ:いやっ、寮を出てからが大変なんですよ! 試合するようになると給料7万円になって、あと1試合毎に勝ったら5千円、負けたら3千円もらえるんですけど、若手の試合なんて前半の3試合の出場枠を30人で争うから、競い合いなんです。
──全員が試合に出られるわけじゃない。
アジャ:だから試合に出られなかった月は7万3千円くらいしか給料がなかったりして、そこからアパートの家賃払って、お米も自分で買うとなると、バターライスともやし炒めだけで食べていかなきゃいけない! そうなるといかに先輩にたかっておごってもらうかが大事なんです。
──たかりとおごりが(笑)。
アジャ:わたしの場合は1年先輩に北斗晶さんがいて、わたしが新人で入った時から面白がってかわいがってくれたんです。いつも遊んでくれましたし、ご飯も食べさせてくれた。1年しか変わらないけど、北斗さんはいい給料もらってましたしね。
──じゃあ最初は北斗さんにご飯を食べさせてもらったんですね。
アジャ:最初のアパートが北斗さんのマンションの真裏だったんですよ。それもアパート探してくれたのも北斗さんで、「ウチでめしも食えばいいし、風呂も入ればいいよ!」って言ってくれて、歩いて30秒の場所に部屋を探してくれて「ラッキー!」って(笑)。
──北斗さん、面倒見良すぎる!
アジャ:ただ、途中で北斗さんが大きい怪我をしてしまって。入院生活が始まると、わたしは食い扶持がなくなるっていう……。アレは「ちょっと待って~!」って思いましたね!
──体の心配と同時に自分の食事の心配も(笑)。北斗さんに作ってもらったり、おごってもらっためしで思い出のものありますか?
アジャ:北斗さん、今もテレビで料理したりしてますけど、当時から料理上手で、あるものでちゃちゃっと作るだけで、何を作っても美味しかったですね。そのなかでも覚えてるのが、料理じゃないんですけど、定期的に北斗さんのご実家から山のように「揚げ餅」が送られてくるんです。
──北斗家の揚げ餅! その響きだけで美味しそうです。
アジャ:お餅を自分のところでついてて、余った分を揚げて揚げ餅にしてお醤油につけて送ってくれるんですけど、その味のバランスが最高で。あんなうまい煎餅、食ったことないです。それ食べるのを毎年楽しみにしてて、「最近こないですね~、揚げ餅!」って催促してたくらい。
めしがマズくなるような話はしなかったブル中野さん
──極悪同盟に入ってからは、ブル中野さんの付き人ですよね。
アジャ:そうですね。ブルさんの付き人としてどこに行くにも一緒でした。東京でも地方巡業でも一緒。試合終わったらお食事連れていってもらってましたね。
──当時のブルさんはもうトップ選手ですよね。美味しいところに連れていってもらった思い出とかありますか?
アジャ:当時の地方巡業なんて、試合が終わって夜10時11時くらいに開いてる店っていうと、チェーンの居酒屋くらいしかないんですよ。若手の頃はお酒飲むのも禁止なんで、ご飯食べて明日も頑張ろうね、ってホテルに帰る感じでした。だから連日居酒屋メニューって感じでしたよ。
──試合後、中野さんとはどういう話してたんですか? 試合の振り返りとかでしょうか。
アジャ:それはなかったですね。中野さんはそういう場では切り替えられてた方なんで、後輩には「どんどん食べなー」って言ってくれて、話も昨日のテレビがどうだったとか、そういうどうでもいい話でリラックスさせていただいてた感じですね。
──仕事の話はいっさいしない。
アジャ:仕事の話をする時は、昼間に別のところで伝えられるんですよ。皆がいる所でひとりにああだこうだ言いだすと、吊し上げみたいになったりすることがあるので、そういうことを避けてたんだと思います。
それと、私達の少し上の先輩を皆の前で説教すると恥をかかせることになるので、そういうのもあったんでしょうね。何か注意したいことがある時は、「ちょっとおいで」って呼んで1対1の場所で「お前、こういうところこうだから、次からこうしなさいよ」って言ってくれるんです。今考えるとすごくバランス感覚のいい先輩でしたね。
──大人の仕事ですね!
アジャ:全員に対して伝える、釘を刺すってことはありましたけど、皆の前でひとりを注意するようなことはなかったです。ご飯の時はおいしく食べたかった方だと思うんですよ。めしがマズくなるような話はしなかったですね。
──じゃあ全女時代は、格別に贅沢なもの食べた記憶はあんまりない感じですか。
アジャ:そうなんですよね。ご当地の美味しいものってのはあんまり食べた記憶なくて、地元のプロモーターさんに美味しいもの食べさせてもらうようになったのは、フリーになってからですね。美味しかった場所っていうと、やっぱり北海道!
──皆、やはり北海道になりますね。
アジャ:ジンギスカンとか毛ガニとか、夕張メロンみたいな美味しいもん食べさせてもらって。あと北海道は野菜も美味い! 野菜に塩や醤油をかけただけで美味いんだ、って知ったのは巡業で行った先の炉端焼き屋のおかげですね。地元の人に「来年も食べにおいで!」って言われたら「これ食べなきゃいけないから頑張る!」って気になりますよ。
自分のためのトレーニングを導入して100キロ超え
──あと全女に入ってからは、若手の頃から「体でかくしろ!」「太れ!」ってのは言われるわけですよね。アジャ選手は入団時から体格は大きい方だったんですか?
アジャ:中学はバレーボール部で、小学から中学まで空手もやっていました。身長は中3で今と同じ165センチくらいあったんです。体重は中学生の女の子にしてはデカくて60キロくらいはあったんですけど、、プロレスラーになるにはもっと太らなきゃいけないと思って、テストを受ける時にはさらに食べて70〜80キロ弱くらいありましたね。
──じゃあ新人としては申し分ない体格で。
アジャ:それで入ったんですけど1カ月で60キロまで落ちました。やっぱりついてたのが無駄な肉だったんで。それから鍛え直しましたけど、3年くらいは65キロから増えたことなかったですね。トレーニングもキツいし、付き人とかしてる時は中野さんとかご自分にも厳しくて後輩にも厳しい人なんで、神経も使うから太れなくって。
──でも太らなきゃいけないわけで。
アジャ:それも、わたしたちの世代のひとつ下くらいから「若手は体重65キロを上回らないと地方巡業に出さない」って縛りが出来たんですよ。東京の大会だと雑用とか若手全員で助け合いながら出来るんですけど、地方だと全員はついていけないんで、2、3人が雑用要員として連れて行かれるんです。
その人数だと地方大会だともう顔合わせて話なんか出来なくて、とにかく走り回って仕事して、気も使わなきゃいけない。それで70キロくらいあった子が巡業終わった頃は55キロくらいに落ちて帰ってくるんです。
──ゲッソリ減って帰ってくる!
アジャ:だから65キロ以上ないと試合で怪我するからって、最低体重が決められて。自分は巡業には連れていってもらえてましたけど、大変でしたね。
──それが今の100キロ近くをキープしてるアジャ選手になったのはいつ頃からなんですか?
アジャ:付き人も4年目くらいになると後輩も増えてくるし、手伝いしなくてよくなって、それでやっと自分のことを考えられるようになるんですね。トレーニングも自分優先でやれるようになって、もともと今から想像つかないくらい線が細くて肩とか外れやすかったんです。それを筋肉でカバーしなきゃいけないっていうんで、当時女子ではあまりやっていなかったウエイトトレーニングを取り入れました。
──はじめて自分のためのトレーニング法を。
アジャ:自分専用のメニューをトレーナーに作ってもらって、巡業のない時とか早めに道場に行ってガンガン鍛えてたら筋肉がつくようになって、65キロくらいだったのが1カ月で75キロになったんです。
──それまでの65キロの壁をトレーニングで超えた!
アジャ:でも、それで体は重くなったとかも感じなくて、また鍛えてたらその次の月には85キロになってて、「すげえな、毎月10キロずつ成長してんな」って。
──めし食って太るのでも毎月10キロは難しいですよ!
アジャ:その翌月に90キロくらいになって、「半年くらいでバンバン肉ついていって、これで来月100キロいったら笑えるね!」ってまわりには言ってて、「いやいや、なかなか100はいかないよ~」って言われてたのが、翌月計ったら100キロを超えてました!
──すごい!
アジャ:でもそれはわたしがダブルだからっていう部分が大きかったみたいで、普通の日本人女性で筋肉で100キロつけるってなかなか難しいんです。99キロまではいけるんですよ。井上京子とかそうだったんですよね、「100キロになれない」って本気で悩んでました。
──ブル中野さんも100キロになりたくて薬まで打ったとインタビューでおっしゃってました。
アジャ:「このまま筋肉がついていって200キロとかになったらどうしよう?」って思ってたら、105キロでピタッと止まりましたね。今はそうでもないけど、昔は僧帽筋がすごくついてて、知り合いのドクターからも「日本人男性でもなかなかつかない。首なくなってるよ」って言われましたね(笑)。
──自然に鍛えて105キロがアジャ選手としてもベストだったと。
アジャ:まわりから「どうやったら100キロになれるんですか」って聞かれたけど「知らないよ! 普通に鍛えてたらなれるもんじゃないの?」って感じなんですよね。「それも才能だよ」って言ってくださる方もいて、そこは父親のおかげだなって。
ダンプさん・ブルさんへのお酒の席での「やらかし」とは?
──あと女子プロレスといえば「三禁(※)」ですけど、アジャ選手はお酒は飲まれてたんですか?
(※)「酒・タバコ・恋愛」禁止という、昔の女子プロレス界にあった決まりのこと
アジャ:会社も15歳くらいから女の子を預かったりするんで、未成年には万が一があったらってことで厳しかったですけど、20歳過ぎたら「いろんな付き合いもあるしお酒はしょうがない」って感じではありましたね。
──行きつけの店とかありました?
アジャ:六本木に知り合いのスナックがあって、そこはよく行ってました。先輩たちが代々行ってる店で、プロレス界と全く関係ないサラリーマンとかいろんな職種の人がいたんで、そこで世間を覚えられたってのはありますね。
──プロレス外の世間を。
アジャ:プロレスの世界にしかいないと先輩後輩しか交流がないんで、世間のことはわかんないんですよね。その店に行き始めたのは世の中にアジャコングって名前が売れてきた頃で、アジャコングだから何しても許されるみたいな状況にあった時ですけど、それが自分の中で嫌だった部分でもあったんです。
ただ、その店だと「アジャコングだからって関係ないよ」って普通に友達として飲むような空気にしてくれて。友達といってもおじさんたちなんですけどね(笑)。
──プロレスラーを忘れて飲める場だったんですね。
アジャ:お酒おごってもらうにしろ、「お前がレスラーのアジャコングだからすすめてるんじゃねえんだ。お前と飲んでると楽しいから飲んでるんだよ」って言われるようになって。
みんな何してる人かわからないんだけど、後で聞いたらすごい大会社の社長さんだったり、酔っ払ってイエイイエイ! って言ってたおじさんがニュースとかですごい偉い肩書で出てたりして(笑)。だからといって飲みの席では偉ぶらない。みんな仕事を忘れて発散する場として飲みに来てて、大人としてのお酒を学んだ場所ですね。
──ちなみにお酒の席での失敗はありますか?
アジャ:酔った勢いでやっちゃったこと、ありますねえ。若い頃に極悪同盟に入れられたけど、もともとわたしはクラッシュ・ギャルズに憧れて全女に入ったんで、ベビーフェイスへの思いも断ち切れなかったんですよね。
それが溜まりに溜まって「もう明日には辞めて逃げ帰ってしまおう!」って決意した日があって。それで酔っぱらった挙げ句、ダンプ松本さんに向かって、「鬼は外!」ってかっぱえびせんを投げつけたことがあるんですよね。
──えええ! 酔った勢いで。
アジャ:酔った勢いだけです! 意識はあるんですけど「明日からいないからもういいや!」って気持ちで。ただ、その後も先輩たちに止められたにもかかわらず飲み続けて、その結果二日酔いで気持ち悪くて逃げるどころじゃなかったんですよね。
──逃げられないのもめちゃめちゃ辛いじゃないですか……。
アジャ:でも自分がやったことは覚えてるんで、これはもう殺される! と思ってたら、ダンプさんはそのことについて何も言わなかったんです。それで「ダンプさん素晴らしい人だな、わたしの今までの考えは悪かったな」って思ったんですね。
──改心してヒール道を邁進することを決めたんですね。
アジャ:ただ、それから15年後くらいに、夜中の3時にダンプさんから電話かかってきて、何かな? と思ったら「アジャちゃんはダンプちゃんのこと嫌いだから、かっぱえびせんを『鬼は外』って投げたんだよね~」って言われて。「やっべーーー! ここまで待たれてた!」ってすごいオチがつきました(笑)。
──ダンプさん、全部覚えてた!
アジャ:汗かいて「いやいやいや……」って言いながら、「あっ、電波が悪くなったんで……」って電話切ってなかったことにしました(笑)。あれから「お酒を飲んで気が大きくなって何かを決めてはいけない」って誓いましたよ。
──ダンプさん以外に、ブル中野さん相手にもお酒での失敗もあったと聞いてますが……。
アジャ:それねえ、イベントの前日に中野さんと飲みに行って、そこでビールを大瓶で60本飲んじゃったんですよ。
──めちゃめちゃ軽く言ってますけどとんでもない量ですよ!
アジャ:あれはキツかったですね、それ以来ビールが飲めなくなったくらい。それでもう朝起きられなくなったんだけど、わたしが中野さんを迎えに行かなくちゃいけなくて。でも動けない~って時に、中野さんが「大丈夫~?」って迎えに来てくれて。ポカリスエットを差し出してくれて。
──優しいですねえ。
アジャ:場所がタレントショップ全盛期の原宿で、そこまで車で行ったんですけど、ずーっとわたしは気持ち悪くて窓から顔を出しっぱなしで。
イベント会場に着いてもずっとひどい二日酔いのままで、中野さんが「大丈夫だよ~、ブルちゃん全部ひとりでやってくるから~」って言ってステージに行って、私はもう控室で寝てるだけ。今考えると最悪ですけどね、イベントで穴開けるって……。
──ビール大瓶60本ですからね。
アジャ:でも中野さんも同じかそれ以上に飲んでたのに、こんなにさわやかに朝を迎えられるって……朝、中野さん見た瞬間に「すごいな、この人にはかなわないな」って思いましたね。
お母さんの葬儀で伝えられたメッセージ
──そのブル中野さんにインタビューした時には「アジャ選手と試合したWWWA戦で試合後3日間めしも食えなかった」って話もうかがったんですけど、アジャ選手は「試合後、めしも食えなかった」みたいなことってありました?
アジャ:わたしはないですねー。試合終わって、疲れて寝てしまって食えなかったってことはあっても、ダメージが大きすぎてってのはないです。覚えてることとしたら、中野さんと金網デスマッチやった時。盲腸の手術で入院してたんだけど、病院を騙して外出届を出してもらって試合をしたんですよね。
──そんな体調でデスマッチをやるとか、デタラメすぎですよ!
アジャ:だって、会社がやれって言うんですよ! 試合中に傷が裂けてめちゃくちゃ痛かったけど、試合終わってリングドクターに控室で縫ってもらって。麻酔なしだったんで、試合中の怪我より縫われた時の方が痛かった……。
──痛みのレベルが想像つかなさすぎです……。
アジャ:でも家に帰る頃は「お腹すいた~」って言って、付き人に消毒液とご飯を買ってこいって頼んだ時は「ご飯大丈夫ですか? お腹から出ませんか?」って心配されたけど、「めし食べないとやってられないんだよ!」って
──ヤケクソですね(笑)。
アジャ:「何があっても腹は減る」ってのは間違いないんですよ。19歳の時に母親が病気で亡くなって、それはわたしにとって世の中でいちばんショックな出来事だったんです。試合が終わってすぐ顔を見に行って、もう泣いて泣いて。
──ずっと二人で暮らしてきた親ですからね……。それはショックでしょう。
アジャ:次の日にお葬式をやる斎場に泊めてもらうことになって、北斗さんとかわざわざ来てくれた先輩たちから「つらいだろうけど食べるもん食べなきゃダメだよ」って言われて、自分としても食べられないかも……と思ったけど、ガッツガツ食べたんですよね。「めし美味いな、ここ!」って(笑)。
それで腹一杯になって、「明日の葬儀まで時間もあるし、寝ておいた方がいいよ」って言われて、北斗さんからも「ちょっと寝てくれば? お線香番しておいてあげるから」って言ってもらって、すいません……って横になったら、大の字になっていびきかいて寝てんの(笑)。
──先輩の北斗さんに全部任せて!
アジャ:翌朝、北斗さんから「起きねえから朝まで線香番やっといたよ!」って言われて「すいませんでした!」って平謝りでしたよ。
──「ショックで寝れない」とか「喉も通らない」とかなかったんですね。
アジャ:おいしくご飯食べて、ちゃんと寝られました! 親から「とにかく食え! とにかく寝ろ!」って、この辺(耳元)で言われてたんだろうなあって思いますね。この先、自分ひとりで生きていくしかない。そのためにしっかりめしを食うのと寝ることが親孝行だと思いましたよ。
プロレスラーは体が資本。
その体を作るのはトレーニングともちろん「めし」ですが、その根幹にはお父さんお母さんが作ってくれた「体」があります。
アジャコング選手の話は、あらためてそのことを思わされました。その体を先輩たちとの戦いで鍛え上げてこそ歴史に残るプロレスラーが生まれるのでしょう。
まだまだ現役で豪快な試合を見せ続けているアジャコング選手。
その偉大な存在は、リングの内外でレスラーたちを発奮させ、育てていっています。
撮影:沼田学